いまひとのいまになしことむかしあるいまはむかしとあるしまつよしなしことのはるもかわせみ | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

いまひとのいまになしことむかしあるいまはむかしとあるしまつよしなしことのはるもかわせみ

いまひとのいまになしことむかしあるいまはむかしとあるしまつよしなしことのはるもかわせみ

すめからくことのはのせきとめるみすもうえからしたにむかうつるときのほたりみすたりいまし

とせのかせのみやこのとりもとふとりのあすかのこともわすれましますことのいましかりてみよ

おのかししのこともむなさしむなしくてちちふるときもははてあてるときもものかりのしおかの

 

たかしろの

しおかまものや

やきしおの

かおりもまして

囲いの草庵(くさむら)

 

頎甫詠み

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

万里小路藤房 - Wikipedia

 

 

 

 

授翁宗弼

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授翁宗弼(じゅおうそうひつ、永仁4年(1296年) - 康暦2年/天授6年3月28日(1380年5月3日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。諱は宗弼、字は授翁。諡号は神光寂照禅師、円鑑国師、微妙大師。父は藤原宣房、万里小路藤房と同一人物とする説もある。

後醍醐天皇に仕えながら大徳寺の宗峰妙超に参禅し、宗弼という法名を授かった。建武の新政の際には後醍醐天皇を諫めたが受け入れられず、ひそかに洛北岩倉で不二大徳に師事して得度した。20年間隠遁した後、京都妙心寺の関山慧玄に参禅して延文元年(1356年)に印可を得る。関山慧玄唯一の法嗣として、妙心寺2世となった。天授6年3月28日示寂。塔所は妙心寺天授院。法嗣に妙心寺3世無因宗因、同6世拙堂宗朴、同4世雲山宗峨、有隣徳、華蔵曇がいる。

参考文献
木村静雄『妙心寺 -六百五十年の歩み-』 昭和59年
川上孤山『妙心寺』 大正6年
禅学大辞典編纂所『新編禅宗大辞典』 昭和60年
先代
関山慧玄
妙心寺歴世
2世
次代
無因宗因



万里小路 藤房(までのこうじ ふじふさ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿。大納言・万里小路宣房の一男。官位は正二位・中納言。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では恩賞方頭人や雑訴決断所寄人など要職を担った。だが、突如、世を儚んで出家した。本姓の「藤原」により藤原藤房とも言う。江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成と共に日本三忠臣の1人に数えられている。

経歴
文保2年(1318年)2月後醍醐天皇践祚に際して、蔵人に補任。以後、弁官として累進し、中宮亮・記録所寄人・相模権守などを兼ねる。元亨3年(1323年)1月蔵人頭に補されたが、同年に弟季房も弁官となったため「兄弟弁官例」と称された。同4年(1324年)4月参議に任じられて公卿に列し、正中3年(1326年)春、従三位・権中納言に叙任。嘉暦2年(1327年)7月左兵衛督・検非違使別当を兼ね、元弘元年/元徳3年(1331年)中納言に転正し、正二位に叙された。

同年天皇の倒幕計画が露見したため(元弘の変)、8月四条隆資・北畠具行と共に天皇に供奉して笠置山へ逃れた。1か月に及ぶ幕府軍との攻防の末、9月28日には笠置山が陥落し、藤房は天皇を助けて敗走するも、翌日有王山で捕捉されてすぐに解官となる(『公卿補任』)。10月宇治平等院から六波羅に移送され、武蔵左近大夫将監[3]の許へ預けられた。元弘2年/正慶元年(1332年)4月幕府から遠流の処分が伝えられると、5月京都を発って常陸国に下り、小田治久(高知)の藤沢城に籠居。この間、治久に対する与同勧誘が功を奏したのか、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月には治久を伴って上洛し、復官を果たした。

元弘3年(1333年)、四番制の初期雑訴決断所(訴訟機関)の寄人に任じられている。建武元年(1334年)5月18日 には、恩賞方四番のうちの三番局(畿内・山陽道・山陰道担当)の頭人に任じられており、建武政権でますます重きを為した(『建武記』[4])。同年8月中に、雑訴決断所が八番に拡充された際にも、やはり寄人に選ばれている(『建武記』[5])。

ところが、同年10月5日に出家(『公卿補任』[1])。史料では「俄遁世」(にわかに出家してしまった)とあるばかりで(『尊卑分脈』[1])、理由は一切不明である。この時代、人生の絶頂期に出家願望を持つ事例は足利尊氏などにも見られる。その後の消息は不明で、相国寺に住したと伝える(『尊卑分脈』[1])他、各地に伝承が散見する(後述)。

日記『藤房卿記』は僅かに正中3年(1326年)4月26日の抜書「嘉暦元年改元記」が伝存するのみで、翻刻が『歴代残闕日記55』に収められている。

伝説・創作
建武政権批判
軍記物語である流布本『太平記』では、藤房は建武政権への批判者として描写され、これがそのまま史実であるかのように喧伝されることが多い。

流布本巻12「公家一統政道の事」[6]によれば、建武政権下では初め、元弘3年(1333年)8月3日に設置された初期恩賞方の洞院実世の後任として恩賞方上卿となるが、「忠否ヲ正シ、浅深ヲ分チ」公平な処理を行おうとしたところ、内謁により不正に恩賞を獲得する者が多かったため、病と称して辞退したという。

一方、流布本巻13「龍馬進奏の事」[7]では、後醍醐天皇に直言を呈することのできた硬骨漢として描かれ、出雲国の塩冶高貞から駿馬が献上された際、洞院公賢がこれを吉兆と寿いだのに対し、藤房は凶兆と論じ、以下の点を挙げて政権を指弾したと描写される。

為政者は愁訴を聞き、諫言を奉るべきであるのに、それを怠っていること。
恩賞目当てに官軍に属した武士が未だ恩賞に与っていないこと。
大内裏造営のために、諸国の地頭に二十分の一税を課したこと。
諸国で守護の権威が失墜し、国司・在庁官人らが勢力を振るっていること。
源頼朝以来の伝統がある御家人の称号を廃止したこと。
倒幕に軍功があった諸将のうち、赤松円心のみ不当に恩賞が少ないこと。
流布本巻13「藤房卿遁世の事」[8]では、藤房は武家の棟梁の出現を危惧し、再三諫言を繰り返すも、天皇に聞き入れられないまま、元弘3年の翌年(1334年)3月11日に天皇の八幡行幸に同行した後、岩倉で不二坊という僧のもと出家。天皇は慌てて宣房に命じて藤房を召還させたが、既に行方を晦ましていたため、再会は叶わなかったという。

以上は史料には見られないどころか、史実との矛盾点もある。

元弘3年(1333年)7月19日には恩賞が配布されているため、恩賞方は8月3日ではなく速くも7月中には設置されていたと考えられる[9]。
不公平な恩賞の代表例の一つとして、後醍醐天皇皇子護良親王が北条泰家の所領を独占したことが挙げられているが、実際は岩松経家も泰家の領地の一部を恩賞として得ている(『集古文書』[10])。
元弘3年(1333年)に恩賞方を辞したとあるが、史実では翌年に恩賞方の名簿に名を連ねている。
実際に出家したのは建武元年(1334年)10月5日で、半年以上もずれがある。
出家後の伝説
『太平記』に称えられた随一の公家であることから、出家後の動向に関して、後に様々な伝承が生じたが、どれ一つとして信ずるに足るものはない。

初め大徳寺の宗峰妙超に参禅し、次いで妙心寺開山関山慧玄に師事して、同寺2世住持となった授翁宗弼と同一人とする『妙心禅寺記』の説。
越前鷹巣山(福井市)に草庵を結んで隠棲していたが、俗世との接触を拒んで再び行方を晦まし、やがて筑紫に赴いたという『吉野拾遺』の説。
散聖道人となり、侃山子(侃山主とも)と号して諸国を行脚した後、土佐に渡航する途次で風波のために遭難死したという『天正本太平記』の説。
安東氏を頼って津軽に下り、南朝再興を期して子の景房に飯詰城(高楯城)を築かせ、朝日氏の祖になったという『東日流外三郡誌』などの和田喜八郎の著作に拠る説。
月泉良印に師事し、出羽補陀寺2世住持となった無等良雄と同一人とする『勝地臨毫』(菅江真澄)の説。ただし、真澄は後にこの説を否定した。
江戸芝浜の御穂神社の社伝由緒には、後村上天皇の御世に当地に翁が流れ着き、「師もなく医もなく村人粗野朴訥礼節も備わらず、翁深くこれを憐み、忠孝に義を教へ導いた」。これが藤原藤房だったとしている。
この他、従弟が院主を勤める高野山北の院で往生したという『太平記評判私要理尽無極鈔』の説、元に渡ったという『続本朝通鑑』の説がある。
岡山県の鏡野町(旧・美作国)に、同地にいた近衛経忠を訪ねてきて同地で死去したとされる「藤原藤房卿(万里小路藤房)の墓」、と伝わる塚と顕彰碑が存在する。ただし、そもそも近衛経忠が同地に赴いたことを裏付ける史料は無い。詳しくは近衛経忠の項目参照。
その他の創作
10歳の春、年始を寿ぐ詩(七言絶句)を賦して天皇(後二条天皇か)に奏上したところ、大いに叡感に与り、学問に励むよう仰せ付かったという(『塵塚物語』巻6「中納言藤房十歳詩の事」)。
3年もの間、中宮西園寺禧子の女房左衛門佐局(一説に平成輔の女)に懸想しており、笠置落ちの前夜に一夜限りの契りを結んだ。都を旅立つ間際に一目会おうとしたが果たせず、来るべき乱世を案じて形見の髪と離別の歌を残して去った。これを見た局はその悲嘆のあまり嵐山の大井川に身を投げたという(『太平記』巻4「笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事」)。
元弘の乱の笠置山行在所では、天皇が夢告により楠木正成を召し出した時、天皇に代わり勅使を派遣したという(『太平記』巻3「主上御夢事付楠事」)が、史実の正成はそれ以前から後醍醐天皇に加担しており(『臨川寺文書』)、物語を劇的に演出するための創作である。
建武元年(1334年)9月21日の石清水八幡宮行幸の際、既に官を棄てる覚悟をしていた藤房は、従者ともども人目を引く盛装で供奉したという(『太平記』巻13「藤房卿遁世事」)。