あま  あま部 天邊  海の人たち   | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

あま  あま部 天邊  海の人たち  

あま  あま部 天邊  海の人たち  
 
海藻や魚類も川には鮭も遡上しますしね
 
海から大川を通過して上流に還るものだし
 
鮭は皮も衣にしている事もあったそうだし
清潔に洗い
そして鞣すのでしょうし
タンニンを利用して腐敗を防ぐとかねするでしょうし
 
 
 
 
 
 
 
以下コトバンク参照。
 
 
あま。〔述異記、下〕東に牛魚り。其の形、牛の如し。捕し、其の皮を剝ぎて之れを懸く。水至れば、則ち尾(た)つ。

字通「海」の項目を見る

出典 平凡社「普及版 字通」

 

 

海人(かいじん)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)


あま【海人/海士】[謡曲]
謡曲。五番目物。藤原房前ふじわらのふささきは讃岐さぬき国志度の浦で、わが子のために命に代えて宝珠を奪い返した母の霊に会い、供養する






海人 (あま)


目次
古文献に海人,海部,蜑,白水郎などと記す。海を主なる生業の舞台とし,河川,湖沼で素潜(すもぐ)りする漁民をはじめ,釣漁,網漁,塩焼き,水上輸送・航海にたずさわる人々を,今日いう男あま(海士),女あま(海女)の区別なく〈あま〉と総称する。

系統と分布
日本民族の形成過程のなかで,かなり明瞭にあとづけられるのは南方系であり,インド・チャイニーズ系とインドネシア系に大別されよう。前者は,古典にみえる阿曇(あずみ)系およびその傍系である住吉系漁労民で,中国南部の閩越(びんえつ)地方の漂海民の系統をひき,東シナ海を北上し,山東半島から遼東半島,さらに朝鮮半島西海岸を南下し,多島海,済州島方面を経て玄界灘に達する経路をたどったと推定される。後者は,宗像(むなかた)系海人と呼ばれ,フィリピン付近海域から黒潮の流れに沿ってバシー海峡,台湾,沖縄,奄美諸島などサンゴ礁の発達した島嶼(とうしよ)を伝って南九州に達したと考えられ,古典にいう隼人(はやと)系に属する。両系の種族が日本へ達した前後関係は明らかでないが,玄界灘で交差し,混血も行われたであろう。

 阿曇・住吉系はしばらく北九州海域を根拠地とし,のち,瀬戸内海中心にその沿岸と島々,さらに鳴門海峡を出て紀州沿岸を回り,深く伊勢湾に入り込み伊勢海人として一大中心点を構成し,さらに外洋に出て東海道沿岸から伊豆半島ならびに七島の島々に拠点をつくった。それより房総半島から常陸沿岸にかけて分布した。彼らは航海に長じ,漁労をも兼ねる海人集団とみられる。

 これに対し,宗像系海人は,もっぱら手づかみ漁,弓射漁,刺突漁など潜水漁を得意とした。本拠を筑前宗像郡鐘ヶ崎に置き,筑後,肥前,壱岐,対馬,豊後の沿岸に進出,さらに日本海側では向津具半島の大浦,出雲半島と東進,但馬,丹波,丹後から若狭湾に入り,なお能登半島,越中,越後,佐渡に渡り,羽後の男鹿半島に及んだ。両系統とも,なかには河川を遡上し内陸部へ進み陸化したものもあった。

 彼らの定住地の跡には,その記念碑ともいうべき関連地名が残されている。海部そのままの名や,4~5世紀のころ,朝廷から海人族を宰領する役割を担った阿曇氏に関係あるものが目だつ。また,その奉斎する祭神から移動,分布が推定される。三島神社の祭神大山祇(おおやまつみ)神は,《古事記》によれば,薩摩半島笠佐岬付近にまつられたが,早く摂津淀川の中流の三島,伊予の大三島,さらに伊豆の白浜のち三島に移された。宗像系による宗像神社の分布も津々浦々に及び,住吉の神は長門,摂津,播磨などのほか全国的に広く勧請された。

 長い歴史過程のなかで,海士と海女の分布にはかなりの変化があったと考えられる。1935年ころの調査では,日本の南西部(沖縄,鹿児島,宮崎,長崎など諸県)と北東部(岩手,福島,茨城の諸県)にかけては,ほとんど海士が占め,その両地域の中間部に海士・海女が共存している。海女が優位を占める地域は,福岡,山口,福井,石川,三重,静岡,千葉県などであり,これら諸地域では,明治時代以後に海女が現れたところも少なくない。海士の地域に海女が稼業するようになった理由として,遠洋漁業など強い労働力を必要とする,より有利な漁労に海士が進出し,その空白を海女が埋めて潜水漁労に従事するにいたったものと解される。

捕採物
男女による性差分業が認められ,海士は主として海底または近くにすむタコ,エビ,ナマコ,ウニ(ガゼ),遊泳する魚類などをもりやかぎなどの漁具で捕採する。一方,海女は,アワビ,トコブシ,サザエ,イガイ,カキ,ヤコウガイなどの貝類や,ウニ,ナマコおよび食用となるテングサ,ワカメ,エゴノリ,コンブ,アラメや,フノリ,ツノマタ,カジメなどの糊やヨード剤の原料となるもの,肥料用のホンダワラなどを対象とする。なかでもアワビは,古代,宮廷の祭儀用に献上する熨斗(のし)鮑として,また近世中期以降中国向け輸出品の俵物として珍重された。テングサは19世紀ころから寒天の材料として需要が増すと,テングサ海女が激増した。

潜水作業と道具
古文献に潜水する海女を〈かずきめ〉と記すように,潜水作業をすることを志摩半島や徳島県や伊豆方面ではカズクといい,大分県でスム,その他ではモグルというところが多い。普通,夫婦で舟を漕ぎ出し潜るフナアマ(フナドとか本アマともいう)と,桶やタンポ(浅い桶形の浮きの下にスカリ網をつるしたもの)を持参して泳いでいったり,海岸の岩礁伝いに歩いて漁場までいくカチド(ダキアマともいう)とに大別される。

 潜水沈下速度をはやめ,能率をあげるために分銅を用いるようになったのは比較的新しく,志摩の国崎(くざき)では石に穴をあけて綱を通した素朴な事例が知られている。一操作をヒトカズキとかヒトクラといい,季節や土地により異なるが,その時間は30分から1時間余,1日2~3回繰り返す。潜水深度は20ひろ(約36m)に達するものもある。沖縄・糸満の海士による潜水漁はとくに優れ,ボタンの原料として商品価値の高いヤコウガイやギンタカハマガイなどの貝類を素潜りにより大量に捕採する。また,サンゴ礁の外縁域に群棲する魚類を,大規模な追網に潜水して追い込んで捕獲するのをアギャーという。〈魚カケキ〉というかぎ状漁具やもりを持って泳ぎながら魚を突く方法は,南方から黒潮に沿って北上した海士がひろめたものらしい。台湾の東沖合にある蘭嶼(らんしよ)(紅頭嶼)に住むヤミ族は,農耕とともに,島をとりまくサンゴ礁の好漁場で,日本でいう〈魚カケキ〉に酷似するラランと呼ぶかぎ状の漁具(全長約60cm)を使用して,潜水漁労にいそしむ。

 日本でアワビを採取する際に使用する鉄製の梃子形のへらを,イソガネと呼ぶ地方は多く,カイガネ,フグセ,ノミなどともいい,ナサシ(魚刺し)という地方もあり,形態には地方差がみられる。潜水眼鏡の普及は明治20年代からで,今日多用されている鼻を取り込んだハナメガネという一眼式のものは,便利で能率の著しい向上をもたらした。
→行商

河川・湖沼のあま
河川で水中に潜り魚を捕る例が,《利根川図志》(1858)に〈鯉の抱きとり〉として図入りで紹介されており,その他の地域の河川でも名物として知られている。琵琶湖西岸の高島郡安曇(あど)川尻(現,高島市),堅田小番城(こばんぎ)の漁師を俗にチャリンコとかチョリンとも呼び,ハリブネという名の2,3人乗り小舟を常の住居として湖面を周遊,〈漁儀一辺は草分已来之儀〉といい伝え,近年までほとんど変わることがなかった。五島列島や瀬戸内海の家船(えぶね)漁民と同系統に属する海人の残留らしい。

海人と民俗芸能・文芸
大和朝廷が稲作農耕を主軸とする生業を基盤に成立し,律令国家が整備されていくなかで,海部(あまべ)は一種のはみ出しものの立場に置かれ,漂泊民となり諸国遍歴の旅に出るものも多かった。中には,早くから漁労よりも卜占や芸能を身につけ,家々を回って門付を業とする集団もあった。彼らは遊行の宗教者として,また海の信仰を背景にもつ歌謡,物語,人形劇を持ち回る芸能人傀儡(くぐつ)師でもあった。彼らが日本芸能史上に果たした役割はきわめて大きい。古代神話のなかに,海人たちの間に発生,伝承されてきたと思われるものがいくつかあり,それらには周辺諸民族のものとの類似が認められる。まず,《丹後国風土記》逸文所載の〈水江の浦嶼の子〉は,中世後期に御伽草子が盛行するなかで,〈浦島太郎〉の話となって今日に伝承されている。主要モティーフは,海神宮訪問-異郷淹留(えんりゆう)-それにまつわる禁止となっている。そもそもこの浦嶼子説話は,宗像系潜水漁労民の間に伝承され,のちに阿曇系や住吉系漁労民にも受容されて,広域に分布するにいたったと考えられている。中国内陸湖沼地帯での民話〈洞庭湖の竜女〉は,浦嶼子説話ときわめて似ている。また,記紀の神代巻にある有名な〈海幸・山幸〉の交換説話の主要モティーフは,いわゆる〈失われた釣針〉型の話で,この類話はインドネシアから西部ミクロネシアにかけて濃厚な分布を示し,その変型は中国内陸水界民の間にもみられる。これらの類似は,中国内陸部の民族移動と関係があるかもしれない。マレーシアからインドネシア方面のオラン・ラウトOrang Laut(海の人)と呼ばれる水上生活者と,日本の家船の人々との相関関係の有無は,まだ残された課題である。

済州島のあま
日本の海女のように,女性が潜水漁労に従事する例は,世界でも,隣接する韓国済州島の海女以外にはみられないといわれる。朝鮮史書では《済州風土記》(1629)に〈潜女〉の記載がみられるが,古くは南朝鮮にひろく分布していたらしい。現在は済州島に限られ,約9000人の潜女が操業している。この潜女と日本の海女とは,泳ぎ方,潜水作業の方法や道具など多くの共通点が認められる。違う点は,日本の海女は潜水に際し,サイジとかイソヘコと呼ぶふんどし様の腰布をつけるが,済州島の潜女は藍色の木綿製水泳着をつける。また,捕採物は畑の肥料にする馬尾草が主であり,食用の海藻類,貝類は副次的で,農耕生活の一環として行われる。このような農耕文化の反映を示す点は,海藻類の採れないとき行う潜水賽神に際し,神房(巫人)が粟を海中に撒布し,それが種となって海藻の芽が出るという信仰にあらわれている。済州島の潜女が日本の海女より優れている点は,冷水温に強く,妊娠・月経中もいとわず,四季にわたって操業し,賃金の安いわりに能率がよい点である。潜女の優れた能力が島外に発揮されたのは,1900年ころからで,北は遼東半島,沿海州方面から,南は対馬をはじめ日本列島各地沿岸に進出した。
執筆者:北見 俊夫

日本の海士と海女
記紀以降の古文献に散見される〈あま〉という呼称は,《和名抄》に〈白水郎,和名,阿万〉とあり,《万葉集》などに〈海人〉とも表現され,海とかかわりをもって暮しをたてている漁労者や製塩に従事する人々一般を含んでいた。しかし,しだいに〈あま〉という言葉が裸潜水漁労者だけに限定して使われるとともに,その中でも男女を区別した言葉や文字が用いられるようになった。鎌倉時代のはじめ,西行の《山家集》の歌中に,〈年経たる浦の海士人言問はん波を潜(かず)きて幾世過にき〉とみえ,このころすでに男の裸潜水漁労者と〈海女〉を区別して表現していたことがわかる。男女〈あま〉の使い分けは,江戸時代になるとさらに明瞭で,《和漢三才図会》は,裸潜水漁労者すべてを蜑人(あま)または白水郎(あま)とし,男を海士(あま),女を潜女(かずきめ)というが,〈海士〉は日本だけの呼称だとしている。さらに,《肥前州産物図考》(1784)中に,海士の項があり,〈鮑を取る事大概図のごとし。浦によりて男海士有,女蜑有,もっこ褌をして腰に越鉄という物を指す也〉とみえる。こうして,裸潜水漁労者の男女の区別は言葉や文字によりしだいに定着し,現代では〈あま〉のうち,男を海士,女を海女と表示するのが普通になっている。海士の特性は,もりやかぎを持って潜り,魚類やエビ,亀などを捕獲する伝統を今日に伝えていることで,この点が海女の貝や藻などの採取にとどまることと異なる。《魏志倭人伝》に〈今倭水人,好沈没捕魚蛤〉とあることは,倭の水人が〈海士〉であることを裏書きする。
執筆者:田辺 悟

海人(士) (あま)
能,地歌,長唄,歌舞伎舞踊の曲名。(1)能の曲名。観世流は〈海士〉と書く。五番目物。世阿弥以前の作。シテは海人の女の霊。大臣藤原房前(ふささき)(子方)は生母が讃岐(さぬき)の志渡の浦の海人だと知ってその地を訪れる。来かかった海人に尋ねると,生母の死の経緯を知っていた。かつて唐土から送られた宝珠が,途中で竜神に奪われた。わざわざこの地まで来た藤原淡海は,契りを交わした海人に宝珠の奪還を命じ,生まれた子を後継ぎにすると約束した。海人は海底にくぐり,竜宮に飛び入って宝珠を盗み,乳の下を切り裂いて珠を押しこめて戻ったと仕方話で物語り(〈玉ノ段〉),実は自分こそその海人,房前の母だと名のって海中へ消えた。房前が丁重な法事を営むと,母の霊(後ジテ)は成仏を喜んでまた姿を見せ,舞を舞う(〈早舞〉)。玉ノ段・早舞が中心。後ジテは,法華経にある女人成仏の説話に基づき,竜女の姿で現れる。
執筆者:横道 万里雄(2)地歌およびそれを地とする舞。さらさや新兵衛作詞・作曲。古くは本調子物であったらしいが,のちに三下り歌い物。(1)の〈玉ノ段〉に基づく。舞地の場合は,前半に近松門左衛門《大職冠(たいしよかん)》による部分が付くが,その詞章は流儀によって異同が大きい。いずれも三下りで通す。井上流は,初世井上八千代の振付。山村流は,初世山村友五郎の振付。《玉(珠)取海士》ないし《玉(珠)取》ともいう。(3)長唄およびそれによる歌舞伎所作事。本名題《おどけ俄煮珠取(にわかしやぼんのたまとり)》,通称《玉取蜑(あま)》。1832年(天保3)7月江戸中村座初演。3世桜田治助作詞。10世杵屋(きねや)六左衛門作曲。4世中村歌右衛門四変化の一つ。坂東流舞踊として現行。
執筆者:平野 健次

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」





魚皮衣 - Wikipedia
魚皮衣(ぎょひい)は、ユーラシア北部の諸民族が着用する、魚の皮を鞣して作った衣服。北欧のヴァイキング、シベリアのオビ川流域に住むマンシとハンティ、ツンドラ地域に住むネネツ、アムール川中流域およびその支流である松花江流域に住むナナイ、アムール川下流域のネギダール、ニヴフ、ウデヘ、ウリチ、オロチ、サハリンのオロチョン族、アイヌなどが利用していた[1]。なかでもナナイは「魚皮韃子」、すなわち「魚皮衣を着た韃靼人」とも呼ばれ、魚皮を広範に利用する民族として著名であった[1][2]。

歴史
清代の1751年に出版された『皇清職貢圖』には赫哲族(ナナイ)について「女の衣服には魚皮が多く使われる」との記述があり、魚皮衣を着た女性が犬ぞりに乗る姿と、女性が斧のような道具を用いて魚皮を鞣す姿を挿絵に描いている[3]。また、1809年に樺太からアムール川流域を探検した間宮林蔵は、当時の樺太アイヌ、オロッコ(ウィルタ)、スメレンクル(ニヴフ)が生活資料として魚皮を多用し、衣服としても用いていたことを報告している[4]。


『皇清職貢図』(1751年)に見える「赫哲婦」の説明。女性が斧のような道具を用いて魚皮を鞣している挿図がある。

『北夷分界余話』(1811年)に見える「スメレンクル女夷」の肖像。
ベルトルト・ラウファーらモリス・ケッチャム・ジェサップ(英語版)の後援する北太平洋調査隊は、1898年から1899年にかけてアムール川下流域およびサハリンの少数民族を調査した。この調査の報告のひとつとしてラウファーはゴルド(ナナイ)・ギリヤーク(ニヴフ)・アイヌの独自の民族芸術文化について『アムール河諸族の装飾芸術』(1902年)というモノグラフを発表し、魚皮衣についても背面に文様群をもつ女性の衣服10点を取り上げ、その文様構成を詳しく分析した[5]。

形態

ニヴフの魚皮衣(19世紀)。ケ・ブランリ美術館所蔵。
橋本康子は、魚皮衣を満州服・モンゴル服に類似したものとアイヌ型の2系統に分類し、満州服に類似したものが現れる以前、エヴェンキの衣服に類似した形態があった可能性を指摘している[5]。

魚皮はなめされる過程で、鰭の部分に穴が開くため、衣服として縫製する際には小さな魚皮で穴埋めをする必要がある。この技法はのちにアップリケとして発達した[5]。

文様
ラウファーは、アムール川流域諸民族の文様を

帯状文
渦巻文
鶏文
魚文
龍文
鹿文
部分的動物文
花葉文
の6種類に分類した。

これらの文様の意匠に熊、クロテン、カワウソ、チョウザメ、鮭といったアムール川流域での生活に密接にかかわる生物が現れず、中国の神話的生物である蝶、コウモリ、龍、鳳凰、亀、クモ、トカゲ、蛇、蛙が現れることから、彼らの意匠には中国あるいは日本文化からの強い影響があることを指摘した。また、魚皮衣の文様構成の中心的意匠は鶏であるとし、魚をそれに付随するモチーフであると記述している[6]。

こうした考察は、先史時代からの文様の連続性を主張するロシアの研究者らを中心に批判されている。オクラードニコフはアムール諸民族が古来の伝統を頑固に保持していると考え、土器や岩壁画の分析から、古代と現代とに共通する文様として

アムール網目文
鱗文
サルに似た渦巻文
トナカイ
水鳥
龍もしくは蛇
銅銭類似文
メアンダー文
カッコ文(アイウシ文)
を挙げている。しかし、こうした考察は、古代から中世の時期における文様の連続性を示す物証の少なさうえに、十分に証明することができていない[6]。

製法
原料
ナナイは魚皮衣の素材としてシロザケ、ベニザケ、マンシュウマス(英語版)、アムールナマズ(英語版)、コイ、カワメンタイ、チョウザメ、アムールパイク、ワイヘットナマズ、チョウコウイトウ、アムールイトウなどを用いる[1]。

ウデヘを調査したズヴィデナヤとノビコーワは、ウデヘ、ナナイ、オロチといった諸民族が魚皮の水を通さないという特徴を好んでおり、漁労用の衣服や靴の原料として多用したことを記述している[5]。

皮なめし
ナナイ人は、

魚皮のはぎ取り
皮の清掃
皮の乾燥
皮のなめし加工
という4つの手順で魚皮をなめす[6]。

ハバロフスク地方サカチ・アリャン(英語版)のナナイは鋭いナイフで魚に切り込みを入れ、鹿の中手骨で作ったナイフ(Sogboko)で皮をはぎ取る。その後、鋭い金属製のナイフで皮についた肉と脂肪をこそぎ、水と洗剤で洗浄する。洗い終わった魚皮は塩、 酢、重曹を入れた皮なめし溶液に漬け込み、乾燥させたのち、ビロード状になるまで柔らかくもまれる[7]。

黒竜江省同江市街津口村のナナイは皮をはぎ取るために木製のナイフ、魚皮の洗浄に白樺の木灰を溶かした水を用いる。また、皮を剥いた魚の肉を用いて「殺生魚」という料理をつくり、親族をもてなす[8]。

皮なめしの技術は民族によりまちまちであり、佐々木利和は樺太アイヌの魚皮衣はナナイのものと比較すると硬く、北海道アイヌの皮なめし技術はさらに不完全であると述べる[2]。

現代
アイヌの靴(ケリ)など伝統的な製法の一部は失われている[9]。

ヨーロッパでは、動物の毛皮の代用品としての利用が行われている[10]。

出典
^ a b c 梶原 2017, p. 56.
^ a b “中国と世界(6) ─魚皮衣の人びと─ | 国立民族学博物館”. 国立民族学博物館. 2022年11月12日閲覧。
^ 梶原 2017, p. 56-57.
^ 梶原 2017, p. 57.
^ a b c d 梶原 2017, p. 58.
^ a b c 梶原 2017, p. 59.
^ 梶原 2017, p. 59-60.
^ 孔・植田 2021.
^ “サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)|マルハニチロ株式会社”. www.maruha-nichiro.co.jp. 2023年9月30日閲覧。
^ 日本放送協会. “ヨーロッパ ファッションの変化 “もう動物を傷つけない” | NHK”. NHK NEWS WEB. 2023年9月30日閲覧。
参考文献
梶原洋「静岡市立芹沢銈介美術館所蔵の魚皮衣について」『東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報』第5巻、2014年、55-70頁、doi:10.57314/00000068。
孔春、植田憲「中国の少数民族ホジェン族にみられる「魚皮」の加工技術」『日本デザイン学会研究発表大会概要集』第68回春季研究発表大会、2021年、146-147頁、doi:10.11247/jssd.68.0_146、NAID 130008163216。
関連項目
アットゥシ - 北海道アイヌの織物。オヒョウなど木の内皮の繊維を使う。