たいらか 平鹿  たいらかなみやこ  やすらけくしあることしあわせのことなり | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

たいらか 平鹿  たいらかなみやこ  やすらけくしあることしあわせのことなり

平賀城 埋もれた古城  (umoretakojo.jp)

平賀氏 - Wikipedia

 

 

甲斐武田も

南部も

佐竹も

新羅三郎義光さんの松枝葉

 

 

御門葉

 

また松葉さんらは

 

松葉遠江次郎資宗

尾張国松葉庄を領有し松葉氏を称した

 

 

 

たいらか 平鹿  たいらかなみやこ  やすらけくしあることしあわせのことなり

 

 



日朗 - Wikipedia
日朗(にちろう、寛元3年4月8日(1245年5月5日(ユリウス暦)) - 元応2年1月21日(1320年3月1日(ユリウス暦))は、鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧。日蓮六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨とも称する。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。下総国の出身。父は平賀有国。

略歴
1261年(文応2年)日蓮を師として法を学んだ。1271年(文永8年)日蓮の流罪の際、土牢に押込となる。1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る[注釈 1]。

1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築いた[2]。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より土地の寄進を受け、本土寺を建立する。1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られた。

 

 


日像 - Wikipedia

日像(にちぞう、1269年9月7日(文永6年8月10日) - 1342年12月11日(康永元年/興国3年11月13日))は、鎌倉時代の日蓮宗の僧。俗姓は平賀氏。幼名は経一丸。下総国の出身。房号は肥後房。肥後阿闍梨と称される。四条門流の祖。

略歴
1275年(建治元年)に日蓮の弟子で兄の日朗に師事した後、日蓮の直弟子となり経一丸の名を与えられ、玄旨伝法本尊と呼ばれる曼荼羅本尊を授けられた。

1293年(永仁元年)日蓮の遺命を果たすべく、京都での布教を決意する。まず日蓮の足跡を辿って佐渡にて法華経を布教した後、北陸・七尾に向かう。その船中での法論の結果、石動山の僧・満蔵(日乗)を弟子とした。満蔵により石動山に招かれ法華経を説くも、山上の大衆により満蔵共々追われ、それが羽咋妙成寺の創建に繋がることとなった。

1294年(永仁2年)上洛して間もなく、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い柳屋仲興、大覚寺の僧・大覚らから帰依を受ける。

1307年(徳治2年)延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を受けた。追放中、洛西・真言寺の住持・実賢、深草・極楽寺の住持・良桂、松ヶ崎・歓喜寺の住持・実眼らと法論を行い折伏した。1309年(延慶2年)赦免され、京都へ戻る。

1310年(延慶3年)諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けた。1311年(延慶4年)赦免され、京都へ戻る。1321年(元亨元年)諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けたが、直ぐに許された。その後、後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。1334年(建武元年)後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。

妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜しく四海泰平の精祈を凝すべし
以後、南朝・後醍醐天皇の京都還幸の祈願する一方、北朝・光厳上皇の祈祷も行い、公武の信仰を集めた。

番神
日蓮宗系の法華経を三十番神が守護するという信仰形態(法華神道)があるが、日像が日蓮宗に採り入れたとされる[1]。











本土寺 - Wikipedia

本土寺は元々日朗・日像ら日蓮門人を輩出した平賀忠晴の屋敷跡と伝えられ、後に日蓮の支援者であった千葉氏家臣曽谷教信が法華堂を建立したとされている。後に日朗が本土寺として開堂供養した(実質的な開山は、日朗門人の日伝であったとする説もある[2])。

『平賀本土寺史要』によると、文永6年(1269年)、日蓮に帰依した蔭山土佐守が「小金の狩野の松原」の地に法華堂を建てたのが本土寺の起源という。建治3年(1277年)曽谷教信(胤直)が平賀郷鼻輪に法華堂を移し、日蓮の弟子日朗が開堂供養した。日蓮の直弟子である日朗・その異母弟にあたる日像(四条門流の祖)・日輪(池上本門寺・鎌倉妙本寺3世)は平賀氏の出身で、平賀郷はこれら日蓮宗の祖師ゆかりの地であった。延慶2年(1309年)、曽谷教信の娘・芝崎(千葉胤貞の妻)より土地の寄進を受け寺が整備された。芝崎夫人は夫の胤貞の死後出家し日貞尼とも称される。延文3年(1358年)、台風により本堂が倒壊するがその後再建された。貞治4年(1365年)、山号を北谷山から長谷山に改称したとされる。

曽谷教信の曾孫にあたる8世日福は、嘉吉元年(1441年)に現在地に本堂を移し、鎌倉妙本寺の日寿を招いて開堂供養を行った。宝徳4年(1452年)、火災により本堂が焼失。9世日意・10世日瑞は火災で焼失した本堂再建のための勧進事業をきっかけに布教を行い、地元の高城氏やその同族の原氏の支援を受けて寺を整備した。日瑞の時には本土寺に現存する建治4年(1278年)在銘の梵鐘を得た。この梵鐘は印東荘(現・佐倉市六崎)の大福寺(廃寺)にあったもので、鐘に刻まれた追銘によれば檀那の設楽助太郎によって文明14年(1482年)に寄進されたものである。

高城氏が小田原征伐で改易されると、徳川家康の5男で甲斐の穴山武田氏を継承した武田信吉が母の秋山夫人(家康の側室、於都摩)とともに小金城に封じられたが、間もなく天正19年(1591年)夫人が亡くなったために15世日悟がこれを厚く葬り、家康も朱印地10石を与えた。

本土寺は元々不受不施派の影響が強く、寛永7年(1630年)の身池対論でも18世日弘が参加している。ところが、江戸幕府が不受不施派弾圧の方針を取ったために、日弘は伊豆に流され、続いて21世日述も伊予国に配流された。その結果、寛文5年(1665年)に受不施派の久遠寺の支配下に組み込まれることになった。

その後派遣された22世日令の元で受不施派寺院としての改革が行われた。日令の貞享元年(1684年)に前述の秋山夫人の甥にあたる徳川光圀の申し出により秋山夫人の墓が本堂脇に移されて参道の整備と寺領20石6斗の寄進が行われている[注釈 1]。その後、享保20年(1735年)から安政2年(1855年)にかけて江戸浅草にあった末寺の本法寺での5度にわたる出開帳によって、寺の名は江戸でも知られるようになった。安政3年(1856年)には末寺4院6坊75寺を数えた[2]。