物事について意味を括り付ける事をしません事実は事実、善悪判断審判も当然不要だ白や黒など色も全無 | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

物事について意味を括り付ける事をしません事実は事実、善悪判断審判も当然不要だ白や黒など色も全無

物事について意味を括り付ける事をしません事実は事実、善悪判断審判も当然不要だ白や黒など色も全無

 

 

一つ一つの事

case

それはそのまんま

誠実に尊重し

荘厳に

最少者である者として

受け止める事に専念するだけで

完全に作業は済みます

 

 

何か意味は不要だし

白いとか

黒いとか要らない

 

また善とか悪(善の欠如状態)だとか

審判

ジャッジしません

いちいち

 

そのまま発生した事象

Phenomina

そのものをそう

Case

格子の中にあるだけ

操作しません

 

 

触れない

操作できないのでね

事実は

発生してしまったので

 

無理な事はしない事が徳作

 

 

御徳なのです

 

全部メリット

 

事実をそのままその通りに

受け止める行為実践の実務に投資し自分にあるその能力を投資してあるだけで

必要十二分です

 

という事

 

 

南山堂

 

 

あとはさ

マリアさまに全部

委託してしまえばいいんだ

 

それがカトリクの本分だ

 

自分にある能力を超える事など無理なのだから

 

そもそも

 

 

 

たとば

自殺した人がいた時

どうしますか

既に死んだのは

どうにもなら無い

 

ゆえに

 

誰か自殺を意図しようとしている人を

知った時は

予防する事を

思考します

 

それは

社会システムの構築作業ですし

御互い

その社会の構成員の人々が

一人びとり

詳しく人の死について

思考して

価値を得る作業を

真剣に実践しないかぎりは

 

今の現状よりも少しでもより善い事を構築する事は不可能ではあるのです

 

 

ですから

たった一人でも

そして

今よりも少しでもより善くという事を自分の心に胸刺して

生きる事は

重要ですよ

能力の微量であっても

善い

GOODNESSには

価値があり

 

共通の善を贈る行為実践そのものだからです

 

公共の福祉の構築は

 

人にとってその全部の人にとって

善い

GOODNESSである品物を

知り贈る事を

行為する事なので

 

 

善意といっている

善意の欠如は

 

悪意となるのです

という仕組みはある

構造としての

人のマインドの意図形成の経過の事ですね

 

 

審判行為はする必要がはじめからおわりまで無いのです

 

司祭でもね

 

それは司祭でも不完全な人なので

 

そもそも

唯一神人イエシュアこそ審判者という事なのですから

全て審判はそのイエシュアに委ねているだけでいい

 

安楽とはそういう部類をいいます

 

 

私審判とは

 

その個人が

唯一神人を

どう審判するかの結果です

 

あんな奴は

要らないと廃棄したその瞬間は私審判行為の結果

 

その行為主体は

その人自身であるので

操作は不要です

一切

 

必要無い事はしません

 

それを限りなく尊重す

慈愛そのものであり

完全に自由自主の価値のなのです

 

 

 

カリタスの事

です

 

永遠に慈愛はあるからです

必要十二分

 

それを要らないというのは

その方自身だから

そのまま

はい

そうですか

いうだけ

事足るのです