誰かの内容で天国にいる神のメッセージですとかそれらはみな私的な事でしかないのですよ。公では無い。
誰かの内容で天国にいる神のメッセージですとかそれらはみな私的な事でしかないのですよ。公では無い。
誰かこれは天国の神さまからの預言
つまり
預かりの言です
といいはっても
それは
全く信頼は⓪です
信頼できる証拠が一つも無い
戦争がはじまったからもう終末だ
とか
日本列島の聖地は安全だとか
何人かの同じCIRCLEの人々が神に選んでもらい
安全な場所に移動させてもらえるんだとか
そのような滑稽なるテーマでは
問題がありますね
それらを信じ込むのは
自由です
個人的な行為であるので
完全にその方の自信の判断で自由なのです
ですから
公としてある父と子と聖霊は
私人の意向を
限りなく尊重する事こそ
慈愛だという事
父と子と聖霊は
常に一人一人を個別に共にあると
そう事実を顕示してあるので
2000年前に
今大地震や戦争の災禍が訪問したとしても
それは
人の世の出来事であって
父と子と聖霊の慈愛そのものは一切
支障になる事ではないのです
それこそ
信頼を私的に構築して
形成で来ている事こそ
賢明で御徳なのです
常に善い方は
常に善いので
今にある使徒などはどうにもならないという事
12使徒と
12人のイスラエルの子は
然りです
生きて存在している事なので
新たに使徒など不要だからですよ
新しい使徒がどうのこうのという不確実な情報こそ
人を侵害する品物です
それは
不完全な者がいろいろ
こうだ
あーだと思案した結果の
内容を
天国の神の言とかいうのは
簡単な作為工作で十分できますしね
聴いた見聞きした事などは
完全に私的な事実でしかないのです
公である規定は
Nazarethのイエシュアのそのはじめからおわりなのですから
顕示されているのは
11人のNazarethのユダヤ人が見聞きした事でしたから
あの時に
全て人々のはじまりから終わりの罪深いその結果
侵害の結果
無限の生命の損害がある事の
積み重ねを
全部
死刑になって滅ぶ者を
贖うのでした
一匹の一才の傷の無い仔羊
つまり
Nazarethのイエシュアが
全ての人の身代わりに死刑を宣言され
実際に処刑されたんだという事です
そして死後
三日目にNazarethのイエシュアは復生きたという事です
から
ヨハネという最年少の使徒への顕示した事実でもって終わりで
完全なので
それに追加したり
差し引くなどはあり得ないので
その公
カトリクの意味が重要だという事
プライベイトの示す事があっても
それは完全に私的な事実の体験でしかないのでね
決してその私的な啓示の内容が
公
としての
カトリックとは成る事など無いのです
南山堂