オクシデントから極東ファーイースト遠方にある東の国 IYAPHUANE は、何をしたか? | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

オクシデントから極東ファーイースト遠方にある東の国 IYAPHUANE は、何をしたか?

 

神などいるものか

!!!と

成るのは

若者

しかも

貨幣では貧しい人々

 

そして

他者に強く訴え出る

事もあるし

 

建物や

シンボル的な金持ち権力者なども

破壊対象になる

 

 

それは

おそらく

 

 

どの時でもある

 

生命を保持して

闘争

をこころさす

のですから

 

その理屈を

基盤を

構成できているなら

 

主張は完成できる

 

であるので

唯物

世界はただ

MATERIALSでしかない

という

 

基盤があると

あとは

いくらでも思考

思想が形成できてしまう

価値化するのは簡単です

 

 

:::

 

 

 

 

 

1848年前後

ジャガイモの危機

 

伝染病ね

 

 

アイルランドでは

100万人

 

死亡したとか

 

麦あったけど

マスター

ロードは譲ってくれないとかで

 

しかも

 

ヨロッパ

全部

伝染した

から

貧しい人たちは

 

アメリアという大陸国家に

州政府

 

連邦に向かいます

 

移民

 

イタリアの人達もそうだし

 

南にも向かう

 

いきるため

 

ですよ

 

 

 

 

 

 

 

オクシデントから極東ファーイースト遠方にある東の国 IYAPHUANE は、何をしたか?

 

EUPHURO

 

噴き出すよに良く広がる土地

 

 

日の沈む地域とは

 

オクシデンタル

 

 

オリエンタルは

どこになるか?

 

地球は回転です

しかも

展開してしまえば

確かに

 

天円

地方

 

 

方形になる

MATRIXですね

 

 

距離は計算できますね

 

 

23.4

66.6

の方向きは

どうしてか

北極の星など

 

 

ノースポール

ポラリス

 

 

日本人は

妙見

とか

北斗とか

魁など

 

 

心中は

どこでも

自分を中心にしてしまえばいいんだと

いうひとの特性はある

 

 

そうしないと

生きるための

勇気が湧き出さない

という理屈もあるんだそうだ

ニーチェなどもそう云っている

 

 

ツアラストラ

誰か

波斯の

人で

 

Zarathustra

 

ゾロアスターですね

 

拝火教とかいいますけど

やっぱり

PLASMAか

礼拝したくなる

のですよね

シンプル

 

どうしても

冬は寒い

雲ッている

 

うつっぽくなる

暖炉の火は

とても貴重だと

 

おもいます

 

自分も

 

 

南山堂

 

 

 

ビスマルクさんは

角の鉄帽子をかぶっている

 

鬼のようですね

ユニコーンかな

そうして

自分たちをふるいたたせなければ

ならない状況でしたね

 

それが

どうも行き過ぎな部分が

アドルフを登場する

好都合条件を

要素を無数に用意してしまった

 

相互作用なので

 

 

隣人をどう受け止めるのか

いつもそれですよ

問題は

 

 

ガリシア

ガリア

 

ゴールは

雄鶏

すごいです

強くてね

 

雄たけびで

どこまでもおっかけてくるし

飛ぶからね

 

ロシニョール

ドイッチュは

双頭の鷲ですね

 

熊と

 

おおかみもいて

 

すごい勢ぞろい

 

紅い盾もある

緑の盾もあるしね

 

 

 

 

 

この時には

グルノーブルから

アルプスの方面の1500Mの高い山の内で

ラ・サレットの聖母 - Wikipedia

 

 

 

1846年9月19日に

二人の男女の牧童に

聖母マリアが

その地方の民族衣装で

訪問した

のでした

 

涙を流して

しゃがみこむ

姿で

 

彼女は

貴婦人ですので

 

 

ラ・サレットの村ですね

今でも

巡礼地と

宿泊施設がある

バスで

グルノーブルの駅前から

一時間半はかかるかな

すごい

高山ですから

とてもいいですよ

 

環境も

途中の道行も

 

 

 

 

 







ジャガイモ飢饉 - Wikipedia

ジャガイモ飢饉(ジャガイモききん、英語: Potato Famine、アイルランド語: An Gorta Mór あるいは An Drochshaol[1])は、19世紀のアイルランド島で主要食物のジャガイモが疫病により枯死したことで起こった大飢饉のことである。アイルランドにおいては歴史を飢餓前と飢餓後に分けるほど決定的な影響を与えたため、「Great Famine(大飢饉)」と呼ばれている。特に1847年の状況は最も酷かったため、ブラック47(Black '47)とも呼ばれる[2]。

概要
1845年から1849年にかけてヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が発生し、壊滅的な被害を受けた。合同法により1801年からグレートブリテン及びアイルランド連合王国の一部となったアイルランド島において、この不作を飢饉に変えた要因は、その後の政策にあると言われている。ヨーロッパの他の地域では在地の貴族や地主が救済活動を行ったのに対して、アイルランドの領主であるアイルランド貴族や地主はほとんどがグレートブリテン島に在住しているイングランド人やスコットランド人であり、自らの地代収入を心配するあまりアイルランドの食料輸出禁止に反対するなどして、餓死者が出ているにもかかわらず食料がアイルランドから輸出されるという状態が続いた。連合王国政府も、緊急に救済食料を他から調達して飢え苦しんでいる人々に直接食料を配給することを、予算の関係などから躊躇しただけでなく、調達した食料を安値で売るなどの間接的救済策に重点を置いた。さらに、政府からの直接の救済措置の対象を土地を持たない者に制限したため、小作農が救済措置を受けるためにわずかな農地と家を二束三文で売り払う結果となり、これが食糧生産基盤に決定的な打撃を与え、飢餓を長引かせることになった。

この飢饉で、アイルランドの人口が少なくとも20%から25%減少し、10%から20%が島外へ移住した[3]。約100万人が餓死および病死し、主にアメリカ合衆国やカナダへの移住を余儀なくされた[4][5]。また結婚や出産が激減し、最終的にはアイルランド島の総人口が、最盛期の半分にまで落ち込んだ。さらにアイルランド語話者の激減を始め、民族文化も壊滅的な打撃を受けた。飢饉の主な原因は、1840年代にヨーロッパ全土で大規模に発生した卵菌のジャガイモ疫病菌によるものだった[6]。ヨーロッパ全体が影響を受けたとはいえ、アイルランドでは全人口の3分の1が食料をジャガイモだけに頼っていたため、政治的、社会的、経済的な状況と関連したいくつかの要因によって問題が悪化し、現在でも学界で議論の対象となっている[7][8]。経済成長などもあり増加傾向にあるのにもかかわらず、21世紀に入った2007年時点ですらアイルランド共和国と北アイルランドを合わせた全島の人口はいまだに約600万人と、大飢饉以前の数字には及んでいない。

飢餓はアイルランドの歴史の中で社会的衝撃を与え、アイルランドの人口統計、政治、文化を永遠に変えた[9]。大衆の記憶に残り、以来、アイルランドの民族主義運動でも言及される[10]。大飢饉は、三十年戦争から第一次世界大戦までの間にヨーロッパを襲った最大の人口大災害としても記憶されている[4]。

原因および背景
1801年のグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の成立以降、アイルランド島は全土がロンドンの連合王国政府および連合王国議会による直接的な統治下に置かれていた。行政は、政府が任命したアイルランド総督とアイルランド担当次官の2人の手に握られていた。アイルランドは連合王国庶民院に105名の議員を、連合王国貴族院に貴族代表議員として28名の終身議員を送り込んだ。1832年から1859年までの期間、アイルランドの代表者の70%は地主か地主の子どもだった[11]。

連合の成立以来の歴代政府は、後の首相ベンジャミン・ディズレーリが1844年に述べたところでは、「飢えた人口、不在の貴族、異質な教会、地球上で最も弱い執行政府」という国の統治問題を解決しようとした[12]。ある歴史家は、1801年から1845年の間に、114の委員会と61の特別委員会がアイルランドを訪問し、「災害を予言していたアイルランドは、大量飢餓の危機に瀕し、人口が急速に増加し、労働者の4分の3が失業し、劣悪な住宅事情と信じられないほど低い生活水準に陥っていた」とされており[13]、ヴィクトリア朝時代や産業化時代の近代的な繁栄を享受し始めたイギリス本国とは対照的であった。さらにアイルランドの農民は兄弟全員が土地を分割相続できたため、農地の細分化が進んだ[14]。政府が農業に重税をかけ始めたことで、この地域は食料のほとんどをイギリス本国に輸出せざるを得なくなり、地域住民の塊茎への依存度が高まり、病害虫に弱い地域となっていた。また政府は飢饉の間、あらゆる方法により人道支援を挫折させようとした。

土地と不動産の所有者
1829年にアイルランドにおけるカトリック解放が実現した。カトリック教徒はアイルランドの人口の約8割を占め、大多数は貧困と不安の中で生活していた。社会ピラミッドの頂点にいたのは、プロテスタントの上層階級であるイングランド人とアングロ・アイリッシュの一族で、土地の大部分を所有し、無制限の権力を持っていた。これらの土地のいくつかは広大であった。例えば、ルーカン伯爵は24,000ヘクタールの土地を所有していた。地主の多くはグレートブリテン島に住んでいたため「不在貴族」と呼ばれていた。代理人が物件を管理し、利益はグレートブリテン島に送られていた[15]。中にはアイルランドに行かなかった者もおり、輸出する植木や牛を育てるために最低賃金を支払っていた[16]。

1843年、政府は土地問題を主な原因と考え、デヴォン伯爵を中心とした王立委員会を設置し、アイルランドの土地占拠法を調査した。ダニエル・オコンネルは、委員会は地権者だけで構成され、完全に偏っていると評した[17]。1845年2月にデヴォンは「アイルランド人労働者とその家族が耐えた苦難を十分に説明することは不可能である…多くの地区で彼らの唯一の食料はジャガイモであり、唯一の飲み物は水である…彼らの小屋はかろうじて雨風をしのげるもので…ベッドや毛布は希少な贅沢品であり…彼らの豚と排泄物の山が彼らの唯一の財産のほぼ全てである」と報告した。委員会は、「ヨーロッパのどの国のどの国民も耐えなければならないより大きな苦しみに耐えるために労働者階級が示した莫大な忍耐を忘れることはできない、と私たちは信じている」と結論づけた[18]。

委員会は、土地所有者と代理人とのひどい関係が主な原因だと結論づけた。イギリスのように遺伝的な王族、封建的な絆、父権主義はなかった。アイルランドは、初代クレア伯爵(英語版)の土地所有者に関する演説(1800年)が示唆するように、「土地を没収することが権利」であるように、征服された国であった[19]。アイルランドの飢饉についての権威であるセシル・ウッドハム=スミス(英語版)によると、地主の土地はできるだけ多くの金を引き出すための富の源泉にすぎないと感じており、アイルランド人は「静かな憤りの中で不満を表現していた」という。クレア伯爵によるとアイルランドに住むには敵対的な場所であり、その結果、貴族の不在が一般的になり一部は人生に一度か二度しか訪れることができなかった。土地の使用料はすべてイギリスで使われ、1842年だけでも600万ポンドがアイルランドから送られてきたと推定されている。収集は地主の代理人の手の中にあり、人々から恐喝することに成功した金額に応じて才能が評価されていた[20]。

18世紀には、地主と交渉するための「仲人」制度が誕生した。これにより地主は継続的な収入を保証され、責任を奪われたが、借主は仲介者によって屈辱を受けることになった。委員会では「国を滅ぼすのを手伝った最も抑圧的な暴君」と表現され、「土地詐欺者」や「吸血鬼」と表現されていた[21]。

仲人は地主から大量の土地を一律料金で借りており、土地を小さな区画に分け、家賃を増やすために「発芽」と呼ばれる制度を導入した。賃借人は、高額な家賃の不払いなどの理由で、または穀物を植えるのではなく羊を育てるために家主の決定によって、追放される可能性があった。賃借人は、地主のために働くことで家賃を支払っていた[22]。

また、賃借人により行われた資産への改善は、契約期間が満了すると自動的に地主の所有物となり、改善の阻害要因となっていた。賃借人は土地に関して何の担保も持っておらず、いつでも追放することができた。この仕組みの唯一の例外はアルスター地方であり、そこでは「賃借人の権利」として知られている慣行の下、賃借人が自分自身で不動産を改善した場合に補償された。ウッドハム=スミスによると、委員会は「アイルランドの他の地域に比べてアルスターの繁栄と静けさが優れていたのは、賃借人の権利によるものだった」と述べた[21]。

アイルランドの地主は反省することなく権力を行使し、人々は恐れた。そのような状況の中で、ウッドハム=スミスは、「産業とビジネスは絶滅し、それゆえに作られた農民は、ヨーロッパで最も貧しかった」と述べている[18]。

賃借人・細分化・倒産
1845年には、アイルランドの賃借人の農場の24%が0.4から2ヘクタール、40%が2から6ヘクタールだった。他の農地では一家を養うのに十分な収穫量が得られなかったため、ジャガイモの植え付けにしか適していなかった。イギリス政府は、大飢饉の直前に貧困があまりにも蔓延していたことを知っており、小規模農家の3分の1は、イングランドとスコットランドで行われた季節労働からの収入を除いて、家賃を支払った後に一家を養うことさえできなかった[23]。飢饉の後、一定規模の土地の分割を禁止する改革が行われた[24]。

1841年の国勢調査によると、人口はわずか800万人で、そのうち3分の2は農業に頼って生き延びていたが、給料をもらって働くことはほとんどなかった。自分の土地と引き換えに地主のために働かなければならず、一家のために十分な食料を植えることができた。この制度は、アイルランド人にモノカルチャーの実践を強制し、ジャガイモだけが一家全員を十分に支えるものとなった。土地の権利は、19世紀初頭のアイルランドでの生死の差となっていた[16]。

ジャガイモ依存

ジャガイモ疫病菌によるジャガイモの不作は、アイルランドの大飢饉の主な原因のひとつだった
ジャガイモはアイルランドに観賞植物として導入された。17世紀末までには、パンや牛乳、穀物を基にしたものが主食となっていたが、補助食となった。18世紀の最初の20年間、ジャガイモは貧しい人々の主食となった[25]。1760年から1815年の間に経済が拡大したことで、小さな農場で一年中ジャガイモの農業が占めていた[26]。

ジャガイモ飢饉

1849年、飢饉のただ中にいる母親と2人の子供
ジャガイモ疫病菌の発生前には、2度の植物病害しかなかった[27]。1つは乾腐病として知られ、もう1つはウイルスで、カールとして知られていた[27][28]。

1851年の国勢調査では、1728年以降、24件のジャガイモの不作が指摘されており、その深刻度は様々であった。1739年には耕地は完全に破壊され、1740年には再び破壊された。1770年には再び不作となった。1800年にはまたもや大規模な不作があり、1807年には作物の半分が失われた。1821年と1822年には、マンスター地方とコノート地方ではジャガイモ栽培が失敗に終わり、1830年と1831年はメイヨー県、ドニゴール県、ゴールウェイ県で失敗の年となった。1832年から1834年と1836年には多くの地区が深刻な損失を被り、1835年にはアルスター地方での農業は失敗に終わった。1836年と1837年にはアイルランド全土で大規模な不作が起き、1839年には再び不作が全国的に広がった。1841年も1844年も農業の失敗が蔓延していた。ウッドハム=スミスによると、「ジャガイモ栽培に対する自信のなさは、アイルランドではすでに認識されていた事実だった」という[29]。

P・M・A・バークによると、ジャガイモ疫病菌がいつ、どのようにしてヨーロッパを襲ったかは明らかではないが、1842年以前には確かに存在せず、おそらく1844年には発生したとされている。少なくともひとつは、アンデス山脈、特にペルーが最初の発生地であることを示唆している。ヨーロッパでは肥料として使われていたグアノ貨物船でジャガイモ疫病菌がヨーロッパまで運ばれたとされている[30]。

1844年には、アイルランドの新聞がアメリカ大陸で2年前からジャガイモ栽培を襲っていた疫病について報じている[28]。ジェームズ・ドネリーによると、1843年と1844年に菌でジャガイモ栽培を荒廃させたアメリカ東部では、ボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークからの船がヨーロッパの港に伝染した可能性があるという[29]。W・C・パドックは、移民船の乗客を養うために使われたジャガイモで運ばれたことを示唆している[31]。

疫病が入り込むと、すぐさま広まった。1845年の晩夏と初秋には、すでに中央ヨーロッパにまで到達していた。8月中旬までにベルギー、オランダ、フランス北部、イングランド南部が襲われた[32]。

8月16日、『Gardeners' Chronicle and Horticultural Gazette』は、ワイト島での異常な疫病についての記事を掲載した。一週間後の8月23日には、「ジャガイモの作物に恐ろしい病気が出た…ベルギーでは畑が荒れ果てている…コヴェント・ガーデンの市場には健康なサンプルがひとつもない…この砂漠の治療法は存在しない…」と報じられた[33]。これらの記事はアイルランドの新聞に広く掲載されている[34]。9月13日、『Gardeners' Chronicle』は「アイルランドでこの病気が無条件に宣告されたことを報告するため、非常に残念に思って報道を止めた。英国政府は、このような状況にもかかわらず、今後の数週間について楽観的である」と発表した[35][33]。

1845年の農作物の損失は50%から3分の1と推定されている[35][36]。1845年11月19日、アイルランド全土からの何百通もの手紙が届いたダブリンのマンションハウスは、ジャガイモの全生産量の3分の1以上が破壊されたと宣言した[32]。

1846年には、作物の4分の3が失われた[37]。12月には3分の1の100万人が公務員を解雇された[38]。コーマック・オ・グラーダによると、1846年の秋、アイルランドの農村部で最初の疫病が発生し、飢餓による最初の死者が記録されたという[39]。1847年には植え付け用のジャガイモが不足し、発芽するものも少なく、飢饉が続いた。1848年には生産性は通常の3分の2しかなかった。300万人以上のアイルランド人が食料としてジャガイモに依存していたため、飢えと死は避けられなかった[37]。




























 

 

 

 

 

 

 

 

 

ビスマルク(びすまるく)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
びすまるく
Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck
(1815―1898)

ドイツの政治家。ドイツの政治的統一、帝国建設に功績があった。

[木谷 勤]

保守政治家目次を見る
プロイセンのユンカーの旧家に4月1日生まれる。ベルリン大学、ゲッティンゲン大学で法律を学び、プロイセンの官吏(1836~1839)になるが、まもなく辞任、故郷に帰り、領地経営に専念。1847年連合州議会議員となる。この時期は視野の狭い保守政治家で、ドイツの統一や政治改革など自由主義者の要求にいっさい耳を傾けなかった。1848年、三月革命が起こるとベルリンに出、保守派の『十字架新聞』を発行して、王制の擁護に努めた。その活躍が認められ、1851年からフランクフルト連邦議会でのプロイセン代表、1859年駐ロシア大使、1862年駐フランス大使を歴任。この間、ヨーロッパ情勢に目を開くとともに、オーストリアを排除し、プロイセンを中心とするドイツ統一の必要を信ずるようになった。

[木谷 勤]

鉄血宰相目次を見る
1862年9月、国王ウィルヘルム1世によりプロイセン首相に任命された。当時のプロイセンは、王権と政府が軍制改革をめぐり議会多数派と対立、窮地に陥っていた。ビスマルクは「鉄血政策」とよばれる強行策で議会と対決、軍備増強を実施した。進歩党に代表される有産市民が一見急進的な言辞を弄(ろう)しながら、二度と革命を起こす気のないことを見抜いていた。そして対デンマーク戦争(1864)、プロイセン・オーストリア戦争(1866)、プロイセン・フランス戦争(1870~1871)といった一連の戦勝の実績で国内の反対派を圧倒した。これらの戦争を通じて1871年ドイツ帝国を建設、プロイセンを中心とするドイツ統一事業を完成したが、それはドイツの市民階級が長年待ち望んでいたものであった。

 この過程はまたドイツ産業革命の完成と一致した。経済政策では自由主義を貫き、営業の自由や保護関税の廃止を進め、また鉄道、銀行、郵便など国民経済の発展に必要な制度を整備した。ドイツの資本主義はこれにより飛躍的な成長を遂げた。それゆえ、ビスマルクのドイツ統一事業は、その政治的目的がたとえ反革命であっても、旧支配層の代表が新興市民階級の要求を一部先取り実現することによって、結果的に封建社会から市民社会への移行を促進した「上からの革命」であったといえよう。このような成立の事情を反映して、ドイツ帝国の政治の仕組みはきわめて複雑で、強力な王権と弱体ながら普通選挙に基づく帝国議会が共存し、君主大権と人民主権、連邦主義と中央集権といった相反する原則が拮抗(きっこう)していた。そして全制度の中心に位置したのが帝国宰相としてのビスマルクで、憲法上は皇帝の任命する一大臣にすぎなかったが、現実にはすべての権限を一手に集めた独裁者であった。

 1870年代なかばまで、帝国議会の多数派、国民自由党を与党にして、自由主義路線を歩んだ。しかしその後、経済不況が深刻になるにつれ、ユンカーと重工業資本家が保護関税を求めるようになり、また社会民主党の急成長は支配層の間に不安を引き起こした。1878年社会主義者鎮圧法を制定して労働運動の弾圧に乗り出し、翌1879年には鉄と穀物を中心に保護関税を導入した。これは国内政策全般の保守主義への転換を意味した。

[木谷 勤]

外交目次を見る
一方、この時期いちばん目覚ましい成果を収めたのは外交の分野であった。対独復讐(ふくしゅう)を叫ぶフランスを孤立させ、ヨーロッパの現状を守ろうとする外交は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟(1882)、ロシアとの二重保障条約(1886)、イギリスも加わる地中海協定(1886)を通じて完成し、ヨーロッパ外交の手綱はビスマルク一人の手に握られたかのようであった。しかし1880年代末、ルールの炭坑ストや社会政策の問題をめぐり、若い皇帝ウィルヘルム2世と対立、1890年3月辞任した。その背景には、国力を充実させたドイツが、ビスマルクの現状維持政策を乗り越え、世界政策に進もうとする新しい気運があった。

 なお、引退後もウィルヘルム2世の内外政策に対する批判を続け、さまざまな政治的波紋を投げかけたが、1894年に両者は和解した。

[木谷 勤]

『木谷勤著『ドイツ第二帝制史研究』(1977・青木書店)』

[参照項目] | 鉄血政策 | ドイツ史 | プロイセン王国 | プロイセン・オーストリア戦争
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「ビスマルク」の意味・わかりやすい解説
ビスマルク

プロイセン,ドイツの政治家。ユンカー出身。1848年の三月革命に際しては反革命派として活躍。革命後プロイセン公使としてドイツ連邦議会に派遣され,駐露・駐仏大使を歴任。1862年プロイセン首相兼外相となり,有名な鉄血演説を行い,議会を無視して軍備拡張を強行。小ドイツ主義を唱え,普墺戦争,普仏戦争を勝ち抜いてドイツを統一,1871年ドイツ帝国成立とともに帝国初代宰相となり,以後20年間その職にあってヨーロッパ外交の指導者となった。1878年ベルリン会議を主宰,また三帝同盟,ドイツ・オーストリア同盟,三国同盟,再保障条約などの同盟関係によってフランス孤立策をとり,ドイツの安全を確保しようとした。しかし内政面ではカトリック教会弾圧(文化闘争),社会主義弾圧(社会主義者鎮圧法)を図っていずれも失敗。1890年皇帝ウィルヘルム2世と衝突して辞職。
→関連項目ウィルヘルム[1世]|エムス電報事件|大久保利通|国民自由党|国家社会主義|ジーベル|ドイツ|ビアリッツの密約|ホーエンローエ|ローン
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ビスマルク」の意味・わかりやすい解説
ビスマルク
Bismarck-Schönhausen, Otto Eduard Leopold, Fürst von

[生]1815.4.1. シェーンハウゼン
[没]1898.7.30. フリードリヒスルー
ドイツの政治家。ドイツ第二帝国の建設者。ユンカーの出身。ゲッティンゲン大学,ベルリン大学で法律を学んだのち,1836年プロシアの官僚となり,47年プロシア連合州議会の議員となり,絶対主義と反動の扇動的代弁者として活躍。 48年の三月革命に対抗。その後フランクフルト連邦議会のプロシア代表,ロシア大使,フランス大使を歴任後,62年9月プロシア首相となった。軍拡問題で議会と衝突したが,「ドイツ問題は鉄と血によって解決される」という有名な鉄血演説を行なって議会を押えた。 66年プロシア=オーストリア戦争に勝ってオーストリアの勢力をドイツから排除,70~71年の普仏戦争の勝利によってドイツの統一を完成し,71年3月ドイツ帝国初代宰相となり,侯爵となった。その後,特に外交に手腕を発揮して 19世紀末のヨーロッパ外交をあやつった。内政においては通貨の統一,中央銀行の創立,統一民・商法典の制定,高等裁判所の設立など抜本的改革を行なって,中世的遺制を一掃。 72年末政敵カトリック教徒の中央党を押えるため,教育の国家管理をめぐって文化闘争を引起したが,社会主義勢力の台頭をみていわゆる「飴と鞭」政策をとり,社会主義者鎮圧法を制定する一方,社会保障制度などの社会政策を推進した。経済面では保護関税政策をとってドイツ工業の育成に努めた。自己の権力を保持し,政策を推進するためには内政,外交において危機感をあおる策略をしばしば用い,巧みに政治的危機を乗越えたが,新たに帝位についたウィルヘルム2世とは社会主義者鎮圧法の更新をめぐって衝突,90年3月宰相を辞任した。その後は皇帝の批判と主著『回想録』 Gedanken und Erinnerungen (3巻,1898~1919) の執筆に専念したが,この著は,歴史的には疑わしい記述を含んでいるものの,文学的にはすぐれ,ビスマルクをドイツ一流の著述家の列に加えている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典


山川 世界史小辞典 改訂新版 「ビスマルク」の解説
ビスマルク
Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen

1815~98

プロイセン,ドイツの政治家。ユンカーの出身。ベルリンの三月革命には反革命派として活躍,保守党の創立者の一人となる。革命後ドイツ連邦へのプロイセン公使に任ぜられてフランクフルトの連邦議会におもむき,そこでしばしばオーストリアと対立した。ついでロシア大使,フランス大使となったが,1862年国王ヴィルヘルム1世が軍備拡張のため議会と衝突した際に首相に任ぜられ,有名な「現在の大問題は言論や多数決によってではなく,鉄と血によって決せられる」という演説を行い,議会を無視して軍備拡張を実行した。その武力によってドイツ統一を遂行しドイツ帝国宰相(在任1871~90)となった。ドイツ統一後はヨーロッパの平和維持に努め,ロシア‐トルコ戦争後ベルリン会議を主宰して「公正なる仲介者」の役割を演じた。彼はフランスの復讐を恐れてドイツ‐オーストリア同盟,三国同盟,三帝同盟,再保険条約などの同盟関係によりドイツの地位を安泰にした。しかし国内の反対勢力には力で対処し,カトリック教徒に対して文化闘争を行い,社会主義者鎮圧法によって社会主義を圧迫した。ヴィルヘルム2世が即位すると,これと衝突して90年辞職した。



出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」






ビスマルク
Otto Fürst von Bismarck(Schönhausen)

1815〜98
ドイツ統一を推進した政治家
プロイセンのユンカー出身。初期の政治生活では保守的正統主義の立場であったが,外交官となってから視野を広げ,1862年プロイセン首相となった。プロイセンを中心に鉄血政策でドイツ統一を推進,議会の反対を押し切って軍備を拡張し,「鉄血宰相」と呼ばれた。1864年デンマークを破り,66年普墺 (ふおう) 戦争に圧勝して北ドイツ連邦を組織してオーストリアをしめ出した。1870〜71年の普仏 (ふふつ) 戦争にも勝って,南ドイツ諸国を加えてドイツ帝国を建設し,ヴィルヘルム1世の下で初代首相となった。二院制の議会を設置したが,首相は皇帝にのみ責任を負うという形式的な立憲主義であり,政治の実権を握った。国内的にはカトリック教徒を抑えるため文化闘争を展開したが,激しい抵抗と社会主義勢力の進出により譲歩した。また,社会主義運動の弾圧のために社会主義者鎮圧法を制定したが成果はあがらなかったため,社会保険制度の整備など,社会政策を実施した。ドイツ統一以後はヨーロッパの平和維持とドイツの国力充実につとめ,ビスマルク体制と呼ばれる同盟外交を推進して,フランスの報復を断念させた。また,1877〜78年の露土戦争後,「誠実な仲買人」と称してベルリン会議を主催し,ロシアの南進を抑えるなど,バルカンの現状維持をはかった。保護関税政策によって重工業を急速に発展させ,アフリカでの植民地獲得にも活躍したが,ヴィルヘルム2世と衝突して1890年に辞職した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版


















世界大百科事典内のビスマルクの言及
【グレート・デーン[種]】より

…狩猟が行われなくなって以来,頑強で巨大な体軀(たいく)を残し,温和で柔順な性格に育種改良された。ドイツの宰相ビスマルクがこのイヌを護身犬としてひざもとにおいた話は有名。また狭いアパートの部屋でも容易に飼いうる唯一の巨大犬であるといわれる。…

【国有鉄道】より
…その理由の一つは,ドイツに代表される潮流で,中央集権の確立と国防力強化の手段として鉄道を国有化したことである。1879年ビスマルクはプロイセンの鉄道を国有化し,1918年のワイマール共和国成立で国有化が完了した。現在のドイツの連邦鉄道は国の行政機関の一部であるが,ある程度の自主性を与えられた企業体である。…

【三国同盟】より
…英仏露三国協商と対立し,第1次世界大戦の一方の陣営を形成した。ドイツ帝国成立後のビスマルク外交の目標は,フランスを孤立させ,その対独復讐戦争を防止することにあった。ビスマルクは1881年にドイツ,オーストリア・ハンガリー,ロシアの間に三帝同盟を成立させたが,イタリアがチロル,トリエステをめぐってオーストリア・ハンガリーと不和であったことから,フランスに接近するのを恐れていた。…

【社会主義者鎮圧法】より
…ドイツの社会主義運動は1875年にアイゼナハ派とラッサール派が合同してドイツ社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)が結成されて以来,勢力の伸張が目ざましかった。ビスマルクはこれを危険視し,弾圧の機会をうかがっていたが,78年5,6月あいついで起こった皇帝狙撃事件を利用し,帝国議会にいわゆる社会主義者鎮圧法を上程し,同年10月強引に成立させた。この法律は社会主義的傾向をもつ政党や労働組合の結社・集会を禁止し,新聞・雑誌・ビラの印刷・配布を禁じ,〈危険分子〉を特定地域から追放する権限を警察に与えた。…

【社会保障】より
…資本主義の発展とともに賃金労働者が急増したが,彼らは失業,労働災害,老齢退職などの社会的リスクに不断にさらされ,きわめて不安定な生活状態におかれている。西ヨーロッパ諸国では労働者の共済組織として任意制の保険がつくられていたが,これをより広範な労働者階層に拡大するために強制加入の社会保険を創設したのは,ドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクであった。これは後進資本主義国ドイツの工業化が進み,19世紀末には階級対立が激化して急進的な社会主義運動が激しくなったことから,この息の根を止めるために賃金労働者の深刻な生活不安を緩和するという名目で生まれたものであり,飴と鞭の政策の一端を担うものとされていた。…

【ドイツ・オーストリア同盟】より
…単に二国同盟Zweibundとも,また独墺同盟ともよばれる。1878年ベルリン会議以後,ドイツとロシアとの関係が悪化したので,ビスマルクはオーストリアとの結合を強め,79年10月7日,両国間の秘密軍事同盟がウィーンで調印された。この条約は,締約国の一国がロシアから攻撃された場合,他の一国が共同して戦い,ロシア以外の国の攻撃をうけたときには好意的中立を守ることを義務づけていた。…

【ドイツ帝国】より
…ドイツで帝制をとった国家は史上2度あり,第1は神聖ローマ帝国(962‐1806),第2がビスマルクのドイツ統一により実現したドイツ帝国(1871‐1918)で〈第二帝国〉ともいう。ヒトラーのナチス国家(1933‐45)もこれに次ぐものとして〈第三帝国〉を称した。…

【普墺戦争】より
…このドイツ統一の覇権争奪をめぐり普墺両国の対立も深化していた。プロイセン首相ビスマルクは,イタリアとの同盟を結び,フランス・ロシアの介入を阻止しつつ,オーストリアを戦争へと追い込んだ(1866年6月)。プロイセン軍はオーストリア軍をボヘミアのケーニヒグレーツKöniggrätzの戦で破って大勢を決し,大方の予想を裏切り,戦いはわずか7週間で決着がつけられた。…

【福祉国家】より

[福祉国家の理念]
 福祉国家の基底にある理念もまた,ある特定の哲学に基づいて形成されたものではなく,時代を異にして生まれた幾多の思想や哲学に起源を発し,それらが結合され融合されて今日にいたったものである。フランス革命の自由・平等・友愛,J.ベンサムによる功利主義,ビスマルクの社会保険の方式,ウェッブ夫妻のナショナル・ミニマム原則,ベバリッジの社会保障などは,その代表的なものである。これらの思想や理念にかなりの違いがあるにもかかわらず,ビスマルクを別にすると市民的自由を基礎とし,人道主義と平等主義を追求しているという点に共通性がある。…

【普仏戦争】より
…フランス側においては,メキシコ遠征の失敗と国内政情の不安から,ナポレオン3世は名誉回復をねらって,プロイセンへの冒険的対決の道につき進んだ。プロイセン首相ビスマルクは,スペイン国王選出問題を利用して,フランスを開戦へと挑発し,プロイセン王家の支流の王子レオポルトのスペイン王位就任をめぐり,普仏両国の対立は深まった。1870年7月14日,フランスの開戦決定をもって両国間に戦端が開かれた。…

【プロイセン】より
…しかるにウィルヘルムは軍部の要求をいれて,プロイセン改革時代の理念をふみにじるような陸軍の改組拡充計画に乗り出したため,このころ議会で多数を占めた自由主義者と激しい対立におちいった。そこで61年,彼がウィルヘルム1世として即位すると,王はユンカー出身の保守主義政治家ビスマルクを招いて首相に任じ(1862),ここに軍事予算問題をめぐる〈プロイセン憲法紛争〉が燃え上がった。ビスマルクは議会の反対を無視して軍備拡張を強行,この軍事力と巧みな外交工作により普墺戦争でオーストリアを倒し,プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を組織,さらに普仏戦争の勝利により,南ドイツ諸邦をもこれに組み入れるかたちでドイツ帝国の建設をなしとげた。…

【プロイセン憲法紛争】より
…このことはプロイセン憲法体制の性格とあり方をめぐる対立へと発展した。さらに自由主義者左派グループによるドイツ進歩党Fortschrittsparteiの結成(1861)とビスマルクの首相就任(1862)は,下院と政府の対立をいっそう激化させた。この紛争は,普墺戦争の勝利によって軍備拡張の成果が示されたことによって鎮静化し,ドイツ進歩党は分裂し,ビスマルク与党の国民自由党Nationalliberale Parteiが結成された。…

【文化闘争】より
…ドイツ統一後,帝国宰相ビスマルクが行ったカトリック弾圧政策と,その結果生じた政府・カトリック間の争い。文化闘争の呼称は,フィルヒョーが使用した用語,〈文化に対する闘争〉に由来する。…

※「ビスマルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版