預言とかメッセージとか、そのような品物は不完全な人の作為によって発意されている次第だ。全て | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

預言とかメッセージとか、そのような品物は不完全な人の作為によって発意されている次第だ。全て

預言とかメッセージとか、そのような品物は不完全な人の作為によって発意されている次第だ。全て

 

自分のマインドセットしているそのその者がそもそも礼拝している私的カルトを

デザインしているので

その通りに

他者の全てを統制して

操作してしまいたい

強烈な欲が消えない

状態を常に維持し保持し

頑張っている

投資するのです

その行為実践の為に

そのために

貨幣が必要だと

五月蠅く言いますし

命令する

金を集めなさい!!!

金を寄こしなさい

このわたしこそ

優位な世界一の聖なる司祭だぞ!!!

 

この私がいるから

世界は保持できてるんだぞ!!!

なんて

異常にし誇大な妄想を抱く

事で

そのイメージに

自分で涙すし

 

自己憐憫と

自己耽美と

自己陶酔の

権化としてある司祭たちがあるのです

世界の中には

 

 

巷には

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その根拠は人とは誰でも不完全そのものだという事で

公的な顕示している価値と事実なんだと直ぐに誰でも知っている事

完全に全能な完全に善い者は居ない

正に全く善を欠如しないで全てを思い、コトバ、行いに具体に出来る能力を保持した者など

世界のひろしの中にどこにもありはしないと一瞬で理解できる

なぜなら死なない人など居ませんから

不完全である一番の証明なのです

 

 

:::

 

南山堂無二院

 

 

※かつては、「この私の為にお前は死ねと生命を全部ささげろげろ!!!と

他人に強要命令する司祭もあることでした、複数人いましてね、

それがその人自身の能力の限界である事の完全証明の事績なのです

それらの司祭は、みないいます、神の命令だぞ、天主の命令だぞ、

聖母マリアからの命令だぞ、命令なんだぞ、直ぐに従え!!!!と

 

強要するその主人様でしたね

それぞれは

 

あー

完全に

能力の欠如している事を

自分で証明した瞬間でしたね

事績として

 

その権威など

本来の真に父と子と聖霊の三方から

授けられて

預けられている権能とは

まるで違う権威

である事は間違いないのですよ

 

 

死ねとか言わないから

神とは

 

殺すなと命令している主人が

なぜ

他者に死ねなど命令すか

sexせとか

命令すか

です

 

 

そして

その司祭は

この私の命令に従わないとお前は地獄に落ちるぞ

とかいいますし

 

また

死んでも三日で蘇るんだから

大丈夫だ

全部

生命も資産も財産もこの私を生かすために捧げ尽くせ!!!!!

など

全く

おかしなことを

平然と

優位に命令してくるのですから

 

ほんとに

レミゼラブるね

 

となる始末です

永久に

 

あー

 

ミゼリコルディアとは

そう云う事であって

無限の泉とか

 

無量のメルシーの事であって

これを恵泉というのです

 

聖なる心という泉の事

 

 

サクレクールです

その器が

インマクラタハートです

 

 

南山堂

黙っていろよ

なんて

 

 

 

 

 

 

 

 

池田大作氏に贈られた名誉学術称号は408 ローマ教皇との会見も画策、背景に学歴コンプレックスという指摘も(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

 

「人間が幸福になる経済を求めて」(視点・論点) NHK解説委員室

 

『私たちが既に、「根源的危機の時代」に生きていたということは、1991年にローマ法王ヨハネ・パウロ2世が、私の恩師宇沢弘文先生に相談され、100年振りに「レールム・ノヴァルム(新しき事柄)」という回勅を、出されたことからも明らかです。
 「レールム・ノヴァルム」は「根源的危機の時代」に、ローマ法王が出される回勅だからです。この回勅では、人間の生存に必要な二つの環境の破壊が、深刻化して、「根源的危機の時代」に足を踏み入れていることが、指摘されています。 二つの環境破壊とは、一つは、人間と自然との関係としての自然環境の破壊であり、もう一つは、より深刻だとされる、人間と人間との関係としての社会環境の破壊です。 こうした二つの環境破壊が、どうして深刻化してしまったのかといえば、歴史の曲り角で、「それで人間は幸福になるのか」と、根源的に問うことを忘れ、社会目標を、「豊かさ」の追求から、「幸福」の追求へと、転換しなかったからだといえます。 ヨハネ・パウロ2世の回勅でも、人間の欲求には、「所有(having)欲求」と「存在(being)欲求」があると、指摘されています。』