まつろえの まつかせはこち あやにくせ あくろもいとう かねもはなさけ 鬼甫詠み | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

まつろえの まつかせはこち あやにくせ あくろもいとう かねもはなさけ 鬼甫詠み

まつろえの 

まつかせはこち 

あやにくせ 

あくろもいとう 

かねもはなさけ 

 

鬼甫詠み

 

 

すめらきの

えのさきのゆき

しろたへの

こころもなくも

あこのはのしろ

 

頎甫詠み

 

 

みかとると

まほろはのはね

そもやはと

いわいふねたせ

かわのみなとも

 

 

旅人柿元蒼紫山岳院

 

 

 

 

南無三一堂

 

 

 

 

出羽国 - Wikipedia

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。現在の山形県と秋田県。上国。

沿革
成立まで
大和朝廷は7世紀半ばから9世紀初めにかけて、蝦夷の住む土地に郡を設置して支配版図を拡大する政策をとった。そのために蝦夷の地に城柵を設けた。先ずは木ノ芽峠が西端で弥彦山が北端だった越国を拡大して、柵を建てた。大化3年(647年)に渟足柵(ぬたりのき:新潟市)[1]、大化4年(648年)に磐舟柵(いわふねのき:村上市)[2]、斉明天皇4年(658年)に都岐沙羅柵(つきさらのき/ときさらのき:アイヌ語の地名の別称か、所在地不明)であり、これらのうち渟足柵と磐舟柵は現在の下越地方に当たる。

7世紀後半に越国から磐舟・渟足の2郡が分離されて越後国が設置された。その後は北方に勢力を拡大し、和銅元年9月28日[3](708年11月14日)に出羽郡を設置し、前後して出羽柵(庄内地方)を築造した。

出羽国の成立
和銅5年9月23日[4](712年10月27日)に出羽郡は出羽国に昇格し、同年10月1日に陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られて国としての体制が整った[5]。その後、東国・北陸などの諸国から800戸以上の柵戸を移住させた。さらにその後も柵戸や公民[注釈 3]を中心とした郡制施行地を拡大していった。

出羽国成立当初のランクは不明であるが、律令制の下で上国[6]とされ、蝦夷と接する重要な位置にあった。隣の陸奥国もまた蝦夷に接していたが、両国を統括する政治的・軍事的中心は主に陸奥側に置かれた。例えば、両国を統括する按察使は陸奥国守が兼任する慣行であった。陸奥国と並び黄金を産した。

北方への拡大と俘囚の反乱
以後は、陸奥国と並ぶ辺境の国となり、天平5年(733年)頃には雄勝郡を設置し、また同年12月26日に出羽柵が秋田村高清水岡(秋田市)に移された。その後雄勝郡は一旦放棄されたと見られているが、天平宝字3年(759年)には雄勝城の設置に合わせ、改めて雄勝郡・平鹿郡が置かれた。天平宝字4年(760年)頃、出羽柵は秋田城へと改変された。以後も俘囚の反乱が相次いだため、宝亀11年(780年)に秋田城の放棄が検討されたが、次官国司である出羽介が秋田城介として常置されることとなった。この頃、国府機能が城輪柵(きのわき:山形県酒田市)に移された(#国府)。陸奥国府には鎮守府が置かれ、平安時代後期以降に秋田城介が空位になると、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。

平安時代前期
延暦23年(804年)、蝦夷の反乱が激しくなり、秋田城は停廃されて秋田郡となった。ただし機能が完全に停止されることはなく、陸奥側の北部4郡が放棄されたのと異なり、俘囚の主とされる清原氏は在庁官人として力を蓄えたと見られている。8世紀に河辺郡が置かれ、山本郡(後の仙北郡)が平鹿郡から分離するなど、徐々に領域を北へ伸ばした。仁和2年(886年)には最上郡から村山郡が分離し、その後延喜年間までに出羽郡から飽海郡・田川郡が分離したと見られている。最終的に、出羽国が管理したのは11郡58郷であった[7]。なお、平安時代まで出羽は「いでは」と読んでいた。

天長7年(830年)、嘉祥3年(850年)には大地震に見舞われた。830年の天長地震は『日本後紀』に秋田城近くの大きな川の水が無くなったことが、850年の出羽地震は『日本三代実録』に津波が城輪柵の近く6里にまで迫ったことが記されている[8]。

陸奥国と出羽国の境界
秋田郡以北の建郡の状況はよく分かっていない。平安時代初期までは、蝦夷を出羽側の「蝦狄」と陸奥側の「蝦夷」に分けて記録されており、後に陸奥国となる紫波郡が出羽国管轄の「志波村」とされているなど、陸奥との境界は不明瞭であった。平安時代末期には奥州藤原氏の支配を通じて、出羽国府の直接管轄地よりも北が陸奥国として整理されたと見られている。この時期に陸奥国比内郡(戦国時代以降は秋田郡北部)、鎌倉時代初期には河北郡(当初は陸奥国か出羽国か不明、後に出羽国檜山郡を経て江戸時代以降は山本郡)が置かれ、これらは中世末期までに出羽国の領域に入ったとする見解がある。

奥州藤原氏
清原氏が後三年の役で滅亡した後、これに代わって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になったと一般的には言われているが、近年の研究では、この支配は陸奥北半分では一円的な領主的立場であるが、陸奥南部と出羽においては押領使や鎮守府将軍としての軍事指揮権に伴う在地領主の系列化と、荘園の管理権[注釈 4]及び鳥羽天皇御願所としての中尊寺を介しての寺領支配[注釈 5]の複合的かつ間接的支配に止まったのではないかと指摘されている。

鎌倉時代
奥州藤原氏が奥州合戦で滅亡し、残党が出羽で起こした大河兼任の乱も鎮圧されると、頼朝は出羽国に橘氏(小鹿島氏:秋田県男鹿市)、平賀氏(平鹿郡)、小野寺氏(雄勝郡)、武藤氏(大宝寺氏:庄内地方)、大江氏(長井氏:置賜郡、寒河江氏:村山郡寒河江荘)、中条氏(村山郡小田島荘)、二階堂氏(最上郡成生荘)、安達氏(最上郡大曾根荘)等の御家人を地頭として配置した。しかしそれ以降も、由利地方以南はしばらく在地領主層(由利氏等)が在庁官人としての権益を保っていたことが『吾妻鏡』に見える。葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から陸奥国へ移り平泉の統治を任され、奥州惣奉行職に就任して以後は米代川流域も葛西氏の勢力範囲となった。

南北朝時代・室町時代
中世前半を通じて北部では公領制、南部では荘園公領制が貫徹され、基本的には鎌倉幕府の統制の元、国府留守所は維持されていたが、南北朝時代を境に領主間の争いが活発化した。津軽地方から蝦夷地を経て葛西氏に取って代わった檜山安東氏、橘氏に代わり湊安東氏、陸奥から移住した戸沢氏(仙北郡)、小野寺氏(雄勝郡)、大宝寺氏(庄内)、寒河江大江氏(寒河江荘)、陸奥大崎氏の庶流である最上氏(最上郡)、最上氏の更に庶流である天童氏(最上郡・村山郡)、陸奥から進出した伊達氏(置賜郡)などが支配した。

戦国時代
出羽国南部では、伊達稙宗が最上義定との戦いに勝利すると妹を嫁がせ優位に和議を結び、義定が継嗣を残さず死去すると妹を介して影響力を強めた。最上の諸将が反発すると最上領に侵攻し、最上氏の傀儡化に成功するなど村山地方全域にまで影響力を広げた。大宝寺氏は庄内地方で勢力を広げ全盛期を築き、安東氏は秋田県北部、小野寺氏は仙北から最上地方への進出を果たした。しかし、伊達氏において天文の乱が発生すると最上氏が介入して独立を果たし、最上氏で天正最上の乱が起こると逆に伊達氏が介入し激しく争った。両氏の間で和議が成立すると、最上氏は村山地方・最上地方・庄内地方に順次勢力を拡大し、在地勢力を駆逐・懐柔していった。最上氏と大宝寺氏が争うと、大宝寺氏は越後の上杉氏を頼ったが、家臣の謀反により庄内地方は最上氏の支配下に入る。その後、大宝寺義勝を奉じた本庄繁長により奪取されることになる(十五里ヶ原の戦い)。この戦いは惣無事令違反であったが、上杉氏が豊臣政権内で有力な立場であったことから、奥州仕置で上杉氏の領地となった。この奥州仕置によって伊達氏は置賜地方を失い、代わりに蒲生氏が入った。蒲生氏郷が早世した後、上杉家臣の直江兼続が置賜地方を支配し、関ヶ原の戦いを迎えた。

一方、出羽北部では安東氏(戦国末期に秋田氏へ改姓)が下国家と湊家を統合して勢力を強めたが、安東愛季が死去すると後継者争いが発生し(第三次湊騒動)、これが惣無事令違反と見做され大幅に領地を減らされた。小野寺氏、戸沢氏は所領を安堵されたが、仙北・由利地方で仙北一揆が発生し小野寺氏は減封された。

慶長出羽合戦
会津征伐のため北上した徳川家康は下野小山で石田三成挙兵の報に接し、反転西上を開始する。山形に集結していた東軍に属する東北地方の領主らも、自領へ引き上げてしまう。孤立を恐れた最上氏は上杉氏との和議を模索するが、上杉領庄内への侵攻計画が露呈し、上杉氏は最上領への侵攻を開始する(慶長出羽合戦)。直江兼続率いる上杉軍は最上氏の拠点を多数落とすが、長谷堂城攻略中に関ヶ原での西軍敗北の報に接し退却を開始、最上義光自らによる追撃戦が展開される。上杉氏を置賜地方へ駆逐した最上氏は、村山地方・最上地方の拠点を取り戻し、翌年3月までに奥州仕置以降上杉領となっていた庄内地方の奪還に成功する。この結果、最上氏は出羽国に57万石ともされる領地を得る一方、最上氏の讒訴を受けた秋田氏は転封、西軍に付いた小野寺氏は改易された。

なお、陸奥国の伊達氏が徳川家康と「百万石のお墨付き」とされる約定を交わし、旧領である長井(置賜地方)他7郡の回復を望んだが、南部領内での扇動(和賀合戦)と合戦の直前に伊達氏と上杉氏が和議を結んだことが家康の疑念を生み、約定は果たされなかった。

江戸時代
出羽北部では鎌倉時代以降土着した小領主を常陸に転封し、代わりに佐竹氏(久保田藩)が入った。1622年に最上氏が改易された後には酒井氏(庄内藩)・鳥居氏(山形藩)・戸沢氏(新庄藩)・能見松平家(上山藩)・六郷氏(本荘藩)などが入ったが、山形藩は頻繁に藩主家が入れ替わった。山形藩の領地は次第に天領に組み込まれ、尾花沢・長瀞・寒河江・柴橋などに代官陣屋が置かれた。

国内には土崎、酒田という当時において東西回り航路の重要な港湾大都市が存在していたが庄内藩や久保田藩の財政はかなり悪かった。

戊辰戦争時、出羽諸藩は奥羽越列藩同盟に加わり明治政府と対抗したが、久保田藩を中心に北出羽諸藩が離反すると、庄内藩・盛岡藩が攻め込み秋田戦争を引き起こした。久保田城付近まで攻め込むが、米沢藩・上山藩・仙台藩が降伏したことで中心勢力である庄内藩・盛岡藩も撤退し、明治政府に降伏した。

明治維新
羽前国
拡大
Clip
羽前国
羽後国
拡大
Clip
羽後国
明治元年12月7日(1869年1月19日)、戊辰戦争に敗れた奥羽越列藩同盟の諸藩に対する処分が行われた。同日、出羽国は、現在の山形県にほぼ相当する羽前国と、秋田県にほぼ相当する羽後国に2分割された(山形県北西部の飽海郡は羽後国であることと、秋田県北東部の鹿角郡は陸中国であることが県域と異なる)。この時、陸奥国も5分割された。

国内の施設
国府
国府は、『和名抄』(承平年間(931年 - 938年)編纂)では平鹿郡、『拾芥抄』(鎌倉時代から南北朝時代)では「平鹿郡、出羽郡、両方に府」と記載がある。

出羽国が成立当初の国府は出羽柵(庄内地方にあったとされる)に置かれたと考えられているが、所在は不明である。 出羽柵は、天平5年(733年)に秋田高清水岡(現在の秋田城跡)に移った。その際に国府機能も秋田に移転したかどうかについては諸説あるが、発掘調査によれば8世紀後半に秋田へ国府が移されていたと推測される。その後秋田城周辺の蝦夷の反乱等により国府は再移転を余儀なくされ、その移転先についても河辺郡説(『日本後紀』の河辺府を国府と見る説)、平鹿郡説(『和名抄』に「出羽国、国府在平鹿郡」とある等による説)、出羽郡(後に飽海郡)説(考古発掘の結果等による説)等の争いがあるが、最終的に庄内平野の城輪柵跡に移ったことにはほぼ異論はない。さらに『日本三代実録』仁和3年5月20日[9](887年6月15日)の条にも、国府は「出羽郡井口地」と表記されており、この井口国府とは酒田市東北部にある国の史跡城輪柵である、とする見解が有力である[10]。

蝦夷との境界付近には天平宝字3年(759年)に雄勝城も設置され、以後庄内平野の国府、秋田平野の秋田城、仙北平鹿平野の雄勝城の一府二城体制が続いた。

雄勝城の所在地は諸説ある。秋田城については発掘調査によると10世紀中頃までの遺跡しか確認されていないが、文献上からは秋田城は12世紀頃まで留守所があったことが分かっている。また、国府留守所も14世紀頃までは存在しているようであるが、雄勝城はいつの頃からか停廃したとみられる。

寺院
国分寺
護国山柏山寺 - 山形市薬師町。天台宗で本尊は薬師如来。
国分尼寺は現存しない。平安時代の国分寺は城輪柵の外郭東辺から1.2キロ真東にある堂の前遺跡を、国分尼寺は堂の前遺跡よりも4キロ南にある高阿弥陀遺跡を比定する説が有力である[11]。

定額寺
「定額寺」も参照
法隆寺:斉衡3年3月9日壬子(856年4月9日)。
観音寺:貞観7年5月8日戊子(865年6月5日)。
瑜伽寺:貞観8年9月8日庚戌(866年6月23日)。
長安寺:貞観9年10月13日戊寅(867年11月12日)。
霊山寺:指定年不詳12月29日甲午。出羽国最上郡。
安隆寺:貞観12年12月8日乙酉(870年1月13日)。出羽国山本郡。
神社
延喜式内社
『延喜式神名帳』には、以下に示す大社2座2社・小社7座7社の計9座9社が記載されている。大社2社は、いずれも名神大社である。出羽国の式内社一覧を参照。
飽海郡 大物忌神社 (現 鳥海山大物忌神社、山形県飽海郡遊佐町) - 名神大社。
飽海郡 小物忌神社 (山形県酒田市山楯)
飽海郡 月山神社 (山形県東田川郡庄内町立谷沢) - 名神大社。出羽三山の一。
田川郡 遠賀神社 - 山形県鶴岡市井岡、同市遠賀原、同市外内島に論社3社。
田川郡 由豆佐売神社 (山形県鶴岡市湯田川)
田川郡 伊弖波神社 (現 出羽神社、山形県鶴岡市羽黒町手向) - 出羽三山の一。
平鹿郡 塩湯彦神社 (秋田県横手市山内大満川)
平鹿郡 波宇志別神社 (現 保呂羽山波宇志別神社、秋田県横手市大森町八沢木)
山本郡 副川神社 - 副川神社(秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町)または嶽六所神社(秋田県大仙市神宮寺)、八幡神社(秋田県大仙市神宮寺。嶽六所神社境外社)、添川神明社(秋田県秋田市添川)に比定。
総社・一宮以下
総社
総社神社 (秋田市川尻総社町)
古四王神社 (秋田市寺内児桜)
六所神社 (山形県鶴岡市藤島[注釈 6]六所畑(旧東田川郡藤島町藤島[注釈 6]六所畑))
一宮 鳥海山大物忌神社 - 鳥海山山頂に本殿が、山麓の吹浦と蕨岡の2か所に口宮(里宮)がある。長年2つの口宮が一宮の称を争っていたため、江戸時代、幕府の裁定により山頂の祠が一宮と定められた。
二宮 城輪神社 - 国史見在社。大物忌神社の摂社。
三宮 小物忌神社
安国寺利生塔
「安国寺利生塔」も参照
太平山安国寺 - 山形県東村山郡山辺町大寺。曹洞宗で、本尊は釈迦如来。
安国寺は足利尊氏が全国に建立した寺院である。利生塔は現存しない。

街道
羽州街道 - 奥州街道から桑折宿(福島県桑折町)で分岐し出羽国を縦断し、油川宿(青森県青森市)で奥州街道に合流する街道。
羽州浜街道 - 鼠ヶ関(山形県鶴岡市)から久保田(秋田県秋田市)へ到る街道。
米沢街道 - 米沢(山形県)と他地域を結ぶ複数の街道、会津若松(福島県)へ至る道、新発田(新潟県)へ至る道(小国街道)、または福島(福島県)と上山(山形県)を米沢経由で結ぶ道(板谷街道)。
出羽仙台街道 - 吉岡(宮城県大和町)から舟形(山形県舟形町)へ到る街道。
秋田街道 - 盛岡(岩手県)から生保内(秋田県仙北市)へ到る街道。
地域

田川郡
村山郡
最上郡
置賜郡
櫛引郡
山本郡
秋田郡
河辺郡
由利郡
仙北郡
平鹿郡
雄勝郡
飽海郡
出羽郡
江戸時代の藩
●は分国前に廃止。

後の羽後国
久保田藩(秋田藩)
岩崎藩(久保田藩支藩)
亀田藩
本荘藩
出羽松山藩(庄内藩支藩、松嶺藩)
矢島藩
久保田新田藩(久保田藩支藩)●
仁賀保藩●
後の羽前国
庄内藩(鶴岡藩、大泉藩)
山形藩
上山藩
天童藩
新庄藩
長瀞藩
米沢藩
米沢新田藩(米沢藩支藩)
大山藩(庄内藩支藩)●
左沢藩●
出羽丸岡藩●
村山藩●
高畠藩●
人口
享保6年(1721年) - 87万7650人
寛延3年(1750年) - 84万6255人
宝暦6年(1756年) - 83万8446人
天明6年(1786年) - 80万4922人
寛政4年(1792年) - 81万6770人
寛政10年(1798年) - 85万2959人
文化元年(1804年) - 87万0149人
文政5年(1822年) - 90万9212人
文政11年(1828年) - 94万5919人
天保5年(1834年) - 94万0929人
天保11年(1840年) - 83万2649人
弘化3年(1846年) - 91万2452人
明治5年(1872年) - 119万1020人(羽前国と羽後国の合計)
内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。


































出羽郡(いではぐん)は、越後国(その後出羽国庄内地方)にかつて存在した郡である。和銅元年(708年)、越後国の一部に設立された。和銅5年(712年)、出羽郡を中心として出羽国が建国された。その後の『延喜式』では、出羽国は出羽郡、飽海郡、田川郡の3郡に分かれている。中世以降田川郡に編入され消滅した。

関連項目
消滅した郡の一覧
飽海郡
田川郡



小野 岑守(おの の みねもり)は、平安時代初期の公卿・文人。征夷副将軍・小野永見の三男。官位は従四位上・参議。小野小町の曾祖父。

経歴
桓武朝末に権少外記・少外記を務め、延暦25年(806年)平城天皇が即位して賀美能親王が春宮に立つと、岑守は春宮少進に転じた。大同4年(809年)賀美能親王の即位(嵯峨天皇)に伴う叙位にて従七位上から一挙に七階昇進して従五位下に叙爵し、右少弁に任ぜられる。

大同5年(810年)に発生した薬子の変に際しては、固関のために御長広岳と共に近江国へ派遣されると共に、近江介を兼ねた。のち、内蔵頭・左馬頭を歴任し、弘仁4年(813年)従五位上に叙せられる。弘仁6年(815年)陸奥守に任ぜられると、吉弥候部等波醜ら俘囚を帰順させ、弘仁8年(817年)嵯峨天皇から賞賛の詔勅を受けている[1]。また、在職中に出羽国出羽郡井口に出羽国府を建てている[2]。

その後は、治部大輔・皇后宮大夫と京官を務めながら、弘仁10年(819年)正五位下、弘仁12年(821年)従四位下と嵯峨朝末にかけて順調に昇進し、弘仁13年(822年)参議兼大宰大弐に任ぜられ公卿に列した。

大宰大弐として大宰府に赴任中の弘仁14年(823年)公営田の導入を建議。翌天長元年(824年)には多禰国を大隅国に編入した[3]。また、飢饉や疫癘の際に雨露をしのげず路傍で亡くなる行旅の病人を収容する為の療養施設として続命院を建設している[4]。この間の天長3年(826年)従四位上に叙せられる。

天長5年(828年)勘解由長官兼刑部卿として京官に復すが、天長7年(830年)4月19日卒去。享年53。最終官位は参議従四位上。一説では出雲国造が神宝を献じる日に、長く朝堂に立ったところ、病を発して死去したという[5]。

人物
大同5年(810年)に嵯峨天皇が即位した際には侍読を務めるなど漢詩に優れ、弘仁5年(814年)に成立した勅撰漢詩集である『凌雲集』の編纂に携わり、同集では嵯峨天皇に次いで賀陽豊年と並んで2番目に多い13首が採録されている。『文華秀麗集』『経国集』にも漢詩作品が収められており、唐風に一字姓として野 岑守と表記した。同時代を生きた空海とは漢詩を通じた親交があったとされる。また、『日本後紀』『内裏式』の編纂に関わった。

官歴
注記のないものは『日本後紀』による。

延暦22年(803年) 4月:権少外記[5]。5月:兼春宮少進(春宮・安殿親王)[5]
延暦25年(806年) 3月:少外記[6]。5月:春宮少進(春宮・賀美能親王)[6]
大同2年(807年) 正月20日:畿内観察使判官[5]
時期不詳:従七位上
大同4年(809年) 4月13日:従五位下、右少弁[5]。4月14日:兼春宮亮[5]。11月:兼式部少輔[5]
大同5年(810年) 9月10日:兼近江介。9月16日:内蔵頭
弘仁3年(812年) 正月12日:兼美濃守
弘仁4年(813年) 正月7日:従五位上
弘仁5年(814年) 正月23日:兼左馬頭[5]
弘仁6年(815年) 正月10日:陸奥守
弘仁10年(819年) 正月7日:正五位下
弘仁11年(820年) 正月11日:兼阿波守[5]。正月27日:兼治部大輔[5]
弘仁12年(821年) 正月7日:従四位下[5]。正月10日:兼皇后宮大夫(皇后・橘嘉智子)[5]。2月2日:兼近江守[5]
弘仁13年(822年) 3月20日:参議兼大宰大弐[5]
天長3年(826年) 正月7日:従四位上
天長5年(828年) 2月9日:兼勘解由長官[5]。閏3月9日:兼刑部卿、長官如元[5]
天長7年(830年) 4月19日:卒去(参議従四位上)
系譜
父:小野永見[5]
母:不詳
生母不明の子女
男子:小野篁[7](802-853)
女子:藤原敏行室[8]
脚注
^ 『日本後紀』弘仁8年7月5日条
^ 『日本三代実録』仁和3年5月20日条
^ 『日本後紀』天長元年10月1日条
^ 『続日本後紀』承和2年12月3日条
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『公卿補任』
^ a b 『外記補任』
^ 『日本文徳天皇実録』仁寿2年12月22日条
^ 『尊卑分脈』
参考文献
『日本史広辞典』山川出版社、1997年
森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
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カテゴリ: 小野氏平安時代初期の貴族8世紀の歌人9世紀の歌人778年生830年没







小野 毛人(おの の えみし)は、飛鳥時代の官人。大徳・小野妹子の子。冠位は小錦中。

概要
江戸時代初期に山城国愛宕郡小野郷(現在の京都府京都市左京区上高野)にある崇道神社近くの山から毛人の墓誌が発見され、国宝に指定されている。墓誌銘によると、毛人は天武朝において太政官に勤め、刑部大卿を兼務しており、冠位は大錦上であったという。子息である小野毛野の没伝では、毛人の冠位は小錦中とされていることから[1]、没後に大錦上の贈位を受けたか[2]。

墓誌に関する逸話
伊藤東涯の随筆『盍簪録』から引用した松崎慊堂の日暦によると、この墓誌は慶長年間に墓泥棒によって暴かれた石郭から発見され、近くの村にある法幢寺に持ってこられた。ところがその後、村は落ちぶれて荒れ果てたため、墓の祟りを恐れ、元のところへ復したという[3]。

系譜
父:小野妹子[1]
母:不詳
生母不詳の子女
男子:小野毛野(?-714)[1]
脚注
^ a b c 『続日本紀』和銅7年4月15日条
^ 坂本,平野[1990: 172]
^ 松崎慊堂『慊堂日暦2』平凡社、1972年、238p頁。
参考文献
坂本太郎、平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、1990年
宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年










小野氏 - Wikipedia
小野氏(おのし)は、「小野」を氏の名とする氏族。

7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した氏族である。姓ははじめは臣であったが、八色の姓により朝臣に列せられた。孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする和珥氏の枝氏である。

源盛義を祖とし、美濃国小野に住んだことから小野を名乗った清和源氏義光流平賀氏系小野氏(武家)など、地名にちなむ小野氏もある。

動向
近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市内)周辺を本拠とした。なお、山城国愛宕郡小野郷(現在の京都市左京区内)も支配下にあったと考えられており、京都市左京区上高野西明寺山の崇導神社内には小野毛人の墓碑がある。

小野氏は、琵琶湖での水運技術をもとに多く海事や軍事を担当していた[1]。一族には、遣隋使となった小野妹子をはじめ、遣唐使などを務めたものが多く、東北や九州などの地方官僚などを務めたものも多い。漢詩や和歌に優れ、参議にまで昇った小野篁や能書家として知られる小野道風などが有名であるが、鎮守将軍となった小野春風や追捕凶賊使として藤原純友の乱の鎮圧にあたった小野好古なども出している。

武蔵七党の筆頭の横山氏(猪俣氏)は、小野篁の末裔。横山氏(猪俣氏)の一族で、新田氏と自称した由良氏(横瀬氏)も小野を本姓としている。

清和源氏義光流平賀氏系小野氏
源義光の四男の源盛義(平賀盛義)を祖とする平賀源氏は惟義の代に伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6か国の守護職を得て鎌倉幕府内で重要な位置を占める。惟義の孫義行が美濃国小野に住み、小野氏を名乗ったという。この一族の小野継胤は大江広元の嫡男の大江親広の配下であったが、承久の乱により敗れた親広が出羽国寒河江荘に潜居した際付き従ったという。承久の乱では平賀氏当主で6か国守護を継承した惟信も後鳥羽上皇に付き、後に配流された。小野継胤の子顕胤は、乱の後許された親広の子広時が鎌倉で幕府に仕えたため関東に居住したとみられるが、大江元顕が寒河江荘に入部した13世紀末頃小野一族も共に下向したとみられる。その後、寒河江氏譜代の家臣として活動するが、天正12年(1584年)寒河江氏が最上氏に滅ぼされると帰農したという。
















武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。

構成氏族
「七党」を構成する氏族は文献によって異なる。

資料    成立時期    横山党    猪俣党    野与党    村山党    西党(西野党)    児玉党    丹党(丹治党)    私市党    綴党
『武蔵七党系図』    南北朝頃    ○    ○    ○    ○    ○    ○    ○    
『書言字考節用集』    1717年刊    ○    ○        ○    ○        ○    ○    ○
『武家職号』        ○    ○            ○    ○    ○    ○    ○
上記の三説の異同を整理すると横山党(八王子市)、猪俣党(児玉郡美里町)、児玉党(本庄市児玉郡)、村山党(多摩郡村山郷)、野与党(加須市野与庄)、丹党(丹治党)(入間郡・秩父郡・児玉郡)、西党(西野党)(日野市)、綴党(横浜市都筑区)、私市党(加須市騎西)となり、全部で九党あることがわかる。七党という表現は鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』にはないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられている[1]。

歴史
平安時代
武蔵国は台地が広がり牧畜に好都合で、関東にいた人が馬飼部として牧畜に携わったことから、多くの牧が設けられていた。その管理者の中から、多くの中小武士団が生まれた[2]。

武蔵国の中小武士団は、朝廷や軍事貴族、それらと結びつく秩父氏の河越氏や畠山氏など在地の有力武士に動員を掛けられた。保元の乱や平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)では、多くの坂東武者が活躍し、生産条件の良好な典型的な条里地域を根拠地としている[3]。

各党は婚姻による血族で、社会的・軍事的集団として機能していたといわれる。各領地も離れており、具体的にどの程度の結束力であったかまでは不明である。

鎌倉時代
武蔵武士は御家人として鎌倉幕府を支えた。武蔵武士は、伝統的な豪族層が支配する北関東と異なり、幕府に従順だった。『吾妻鏡』に記載されている武蔵武士は182氏にも及ぶ。『六条八幡宮造営注文』でも、469人中84人と圧倒的に多い。また日本全国に拡大移住していった。承久の乱・宝治合戦など勲功の恩賞(新補地頭職)や蒙古襲来(元寇)の警備のため、各氏族の一部は武蔵国にある本領を離れて奥羽や西国、九州に土着した。惣領家と庶子家の何れが移住するかは、各氏族によって異なった。

南北朝時代以降
南北朝時代には武蔵に残った武蔵七党系の中小武士団が結束して、国人一揆を結成した。『太平記』では、平一揆や白旗一揆が有名である。

その後、武蔵平一揆の乱で河越氏は没落。国人達は武州南一揆や北一揆などを作り、関東管領上杉氏や後北条氏の下で戦った。

武蔵七党とされる諸党
横山党
詳細は「横山党」を参照
武蔵国多摩郡横山庄(現在の東京都八王子市付近に当たる)を中心に、大里郡(現埼玉県北部の熊谷市や深谷市とその周辺地域)および比企郡から橘樹郡(現在の神奈川県川崎市の市域に相当)にかけての武蔵国、さらには相模国高座郡(神奈川県の相模川左岸流域一帯)にまで勢力があった武士団。武蔵七党系図筆頭である。一族は横山氏を中心に海老名氏、愛甲氏、大串氏、小俣氏、成田氏、本間氏など。先祖は小野篁。その多くは和田合戦で滅亡するが一部の武士は存続する。本間氏などは佐渡の地頭として繁栄した。

猪俣党
詳細は「猪俣党」を参照
武蔵国那珂郡、現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館を中心に勢力のあった武士団で、横山党の一族(横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣となる)。猪俣氏、人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏など。保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名。

野与党
詳細は「野与党」を参照
武蔵国埼玉郡、現在の加須市付近の野与庄を中心に勢力のあった武士団で、足立郡、比企郡などに同族がいた。先祖は桓武平氏の平基宗(平忠常の孫)と称する。

村山党
詳細は「村山党」を参照
武蔵国多摩郡村山郷、現在の入間川付近に勢力のあった一族で、野与党と同族である。村山氏、金子氏、大井氏、仙波氏など。 先祖は桓武平氏の平基宗(平忠常の孫)と称する。武蔵平一揆により衰退する。

児玉党
詳細は「児玉党」を参照
武蔵国児玉郡(現在の埼玉県児玉郡)から秩父、大里、入間郡および上野国南部あたりに勢力があった一族。元々の氏(本姓)は有道氏(有道宿禰)。児玉氏、庄氏、榊氏、本庄氏、塩谷氏、小代氏、四方田氏などなど。武蔵七党中、最大勢力の集団を形成し、その本拠地は現在の本庄市である。

西党
詳細は「西党」を参照
多摩川およびその支流である浅川や秋川流域を地盤とした。「武蔵七党系図」によれば、土着した武蔵国司・日奉宗頼の子孫が西氏を称し、庶流が土着した地名を苗字としたとされる。一族には、一ノ谷の戦いで熊谷直実と先陣争いをしたことで知られる平山季重を出した平山氏のほか、由井氏、立川氏、小川氏、田村氏、中野氏、稲毛氏、川口氏、上田氏、犬目氏、高橋氏、小宮氏、西宮氏、田口氏、駄所氏、柚木氏、長沼氏などがいる。

丹党
詳細は「丹党」を参照
秩父から飯能にかけて活動。平安時代に関東に下った丹治氏(多治比真人)の子孫と称する。丹氏、加治氏、勅使河原氏、阿保氏、大関氏、中山氏、小串氏など。入間市や飯能市には加治氏に深い関わりを持つ加治神社、加治屋敷(加治丘陵)などの史跡があり、円照寺には鎌倉幕府滅亡をともにしたことを示す板碑が残っている。

綴党
都筑(つづき)党とも書く。武蔵国都筑郡に分布。立野牧の経営を行っていた在地領主である[4]。 「古今著聞集」巻10に、平家の郎等「武蔵国住人都築の平太経家」が源頼朝の厩の別当になったと記されている。[5]

私市党
私市(きさいち)党の出自は定かでないが、祖先は政市部領使(ことりづかい)であったとする説や、私部を管理した一族の末裔であるとする説がある。また、私市家盛が武蔵権守となって下向し、北埼玉郡騎西付近を領有開墾して土着したという伝承がある[6]。

脚注
[脚注の使い方]
^ 柴田孝夫 1975, p. 223.
^ 柴田孝夫 1975, p. 205-206.
^ 柴田孝夫 1975, p. 242.
^ 『多摩市史』通史編1 第四編 第六章 第三節
^ 新日本古典籍総合データベース 古今著聞集
^ 昭島市史編さん委員会『昭島市史』(昭島市、1988年)
参考文献
柴田孝夫『地割の歴史地理学的研究』古今書院、1975年。doi:10.11501/12212020。全国書誌番号:73008770。
外部リンク
武蔵七党の系図 [リンク切れ]
私市党
渡辺世祐, 八代国治 共著「武蔵武士」、博文館、1913年、doi:10.11501/1918399、NDLJP:1918399。
























本庄氏 - Wikipedia
児玉党系本庄氏
平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国で群雄割拠した武蔵七党の一角を占め、かつ最大勢力の集団を形成していた武士団である児玉党を構成する氏族。児玉党の旗頭(本宗家)を務めた庄氏本宗家から派生した庶家。備中国の本補地頭を預かった庶子家の庄氏のうち、地元(現在の本庄市)に残った分家が本庄氏を名乗り始めた。庄氏が本庄氏を名乗るようになったのは12世紀末から13世紀中頃、つまり鎌倉幕府が創立した頃と考えられている。正確には、庄小太郎頼家(児玉党本宗家6代目)の弟である時家が本庄氏を名乗り始めている。現在の埼玉県本庄市周辺がかつて居館・居城を構えていた地域である。

児玉庄氏(本庄氏)と備中庄氏の分岐
児玉党の本宗家4代目である庄太夫家弘が児玉氏から庄氏(荘氏)を名乗り、現在の本庄市栗崎の地に館を築いたと考えられ、その嫡男で、5代目を継いだ庄太郎家長が一ノ谷の戦いで武功をあげ、恩賞として備中国草壁荘の地頭職を与えられる。そして庄氏は武蔵から備中の領土へ移り、備中庄氏として西日本で活動することとなる。そのまま武蔵国の本拠地に残った庄氏が「本庄氏」を名乗ることとなる。本庄氏は児玉庄氏の本宗家を継ぎ、児玉党の本宗家となった。氏の意味は「本宗家の庄氏」と言う意味ではなく、「本拠地(本=元=地元)に残った庄氏」と言う意味で、本庄を名乗ったものと考えられる。

以降の流れ
児玉庄氏(=児玉党)の本宗家を継いだ本庄氏は、南北朝時代(14世紀中頃から末)では南朝廷側=新田義貞に就き、児玉党の弱体化に繋がった。15世紀初めの上杉禅秀の乱では、禅秀(犬懸上杉氏)に味方し、所領を没収されるもなお足利氏に抵抗を続けた。15世紀中頃になると、山内上杉氏に代々仕えることとなるが、五十子の戦い以降、上杉氏は負け戦が続き、河越夜戦を初め、北条方に押され続けた末、本庄氏は後北条氏に属すこととなり、小田原征伐で没落することとなる。南北朝時代、南朝に属したことで新田氏の家臣団との親交があり、戦国時代ではその残された家臣達の末裔を本庄に移住させることによって、城下町を一から形成させることに成功している。これは後の本庄宿の基盤となる。また、戦国期、本庄氏一族の中には成田氏の家臣となった一団も存在する。

少なくとも、大別して、「家次系本庄氏」と「時家系本庄氏」がある。児玉党の本宗家を継いだのは時家系の方である。複数ある本庄氏関連の系図の中には、「頼家系本庄氏」が見られるが、児玉の伝承では、頼家は嫡子を作る前に戦死したとあるため、系図の信憑性は不明である。また、頼家や家次が本庄氏を名乗ったかは疑わしい点があり、確実に本庄氏を名乗ったと言えるのは、家次の子息である朝次と、家次の弟である時家のみである。
ここで記す庄氏分家とは、直系の本宗家に対してであり、本庄氏は歴とした庄氏本宗家の子息であるため、児玉庄氏の宗家を継ぐことができた。
幕府の創立により、武士の領地も裁定によって認定化が進み、領地争いが盛んであった東国は次第に安定していく。この事により、児玉党の氏族も新たに氏を名乗る必要性が低くなり、本庄氏からは新たな氏が派生しなかったものと考えられる。
事実的には、備中に土着した家次は庄氏本宗家を継いだので庶子家とは言えないが、家次の子息である朝次が児玉庄氏本宗家の領地(栗崎の地)を継がなかったことから時家が本宗家と位置付けられている。
「本家の庄氏」と言う意味であるのなら、秩父に移住した朝次が本庄氏を名乗っていることは明らかにおかしく、この説には無理がある。「本庄とは、本家の庄氏の意味である」と長年信じられてきた通説ではあるが、系図研究が進んできた現在では、その説も再検討が必要である。
下記の近世大名→華族の本庄家は、この児玉党系本庄氏の流れをくむとされる。
近世大名家→華族の子爵家
公家の二条家の家臣本庄宗正の養女(宗正の後妻の娘)である光子(桂昌院)は、大奥に入って3代将軍徳川家光の寵を受けて側室となり、徳松(5代将軍徳川綱吉)を生んだ[1]。これがきっかけとなり、宗正の長男本庄道芳と次男宗資は幕臣となり、桂昌院の庇護で加増を繰り返されて大名に取り立てられる[2]。

とはいっても桂昌院の異母兄に過ぎない道芳の系統は、孫の道章の代の宝永2年(1705年)にやっと美濃国高富藩1万石の小大名になっているにとどまる[2][3]。

対して桂昌院の同母兄である宗資の系統は急速に昇進し、元禄元年(1688年)には1万石に達し、翌年にさらに1万石加増、元禄5年(1692年)には常陸国笠間藩4万石に加増転封。元禄7年にはさらに1万石加増された。息子の資俊も元禄15年(1702年)に遠江国浜松藩7万石に加増転封。宝永2年(1705年)には松平姓を与えられた[2][4]。何度か転封があったが宝暦8年(1758年)以降は丹後国宮津藩で固定され、廃藩置県まで同地に在封した[5]。

宮津の本庄松平家の当主には老中などの要職に就く者が出た。幕末の老中松平宗秀は第2次幕長戦争で独断で休戦協定を締結したために謹慎・蟄居になったが[6]、幕府滅亡とともに謹慎を解除され、新政府の教部省に勤務して復権している[7]。代わりに家督した息子の宗武は、明治元年(1868年)に前将軍徳川慶喜が政府に反逆を開始した際に勅命に従って松平姓を廃棄し「本荘」に復姓した[8]。

最後の高富藩主本庄道美も、最後の宮津藩主本荘宗武も、明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事に転じたのを経て、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[9]。

明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると本庄道美も本荘宗武も大名家として華族に列した[10][11]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に高富家の本庄寿巨と宮津家の本荘宗武は旧小藩知事[注釈 1]として子爵に列せられた[13]。

高富本庄子爵家の初代子爵の寿巨は司法省に勤務して判検事や公証人となり、貴族院の子爵議員にも当選して務めた[14]。その子の2代子爵本庄兼則の代に本庄子爵家の邸宅は東京市芝区三田にあった[14]。

宮津本荘子爵家の2代子爵本荘宗義は貴族院の子爵議員に当選して務めている。4代子爵本荘宗正の代に本荘子爵家の住居は神奈川県横浜市鶴見町にあった[15]。



本庄時長 - Wikipedia
本庄 時長(ほんじょう ときなが、? - 永正6年(1509年))は、戦国時代の武将。本庄房長(三河守)の子。本庄弥次郎、本庄房長(大和守)、本庄盛長、小川長資の父。本庄繁長の祖父にあたる。

揚北衆秩父党の一派本庄氏の当主。臥牛山に本庄城を築城したことで知られる。守護代の長尾為景が守護の上杉房能を倒し下克上すると、竹俣氏、色部氏と共に反抗しこれに抵抗したが、為景方の中条藤資、築地忠基らの攻撃により居城を落とされ降伏、その後に時長は本庄城の支城であった猿沢城に蟄居したが、間もなく没している。この戦いで嫡男の弥次郎を失ったために、時長の後は房長が継いでいる。


本庄 繁長(ほんじょう しげなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。上杉氏の重臣。揚北衆の一人。越後岩船郡小泉庄の本庄城主。上杉氏の会津転封後は守山城と福島城の城代を務めた。本庄房長の子。母は揚北衆の鮎川清長の室と姉妹関係にあったとみられている。

生涯
天文8年(1540年)、越後国の国人・本庄房長の子として誕生。幼名は千代猪丸。

繁長が生まれる直前、父・房長は同族の色部氏と共に、越後守護・上杉定実が伊達稙宗の子・時宗丸を養子に迎えることに異を唱え、入嗣推進派の中条藤資らと対立した。伊達氏の支援を受けた中条氏に攻められた房長は、弟・小川長資と同族・鮎川清長の勧めにより、本庄氏と盟友関係にある出羽国庄内地方の武藤氏のもとに逃れた。しかしこれは長資の罠であり、その隙に長資によって居城を奪われてしまう。弟の謀反に衝撃を受けた房長は病に倒れそのまま死去した。房長を失った本庄氏の家臣団は遺児・千代猪丸を当主に立てたものの、幼少の千代猪丸に政が出来るわけでもなく長資をその後見人として認めざるを得ず、本庄氏の実権は長資の手に落ちた。現存する史料から千代猪丸は叔父の本庄盛長や本庄家臣団の中心的人物であった矢羽幾長南の後見の下で幼年期を送っていたとみられる。しかし、天文20年(1551年)父の13回忌の法要が開かれた耕雲寺で千代猪丸は長資を捕えて自害に追い込み、実権を取り戻した。まだ幼少と言われる年齢だった千代猪丸は「気性剛強で勇猛」と評された。千代猪丸は程なく元服し繁長と名を改めた。


本庄繁長 - Wikipedia
10月20日に徳川家康に対して抗戦を継続すべきか講和すべきか軍議が行われ、この席で直江兼続らが抗戦継続を唱えたのに対し繁長は徳川方との早期講和を主張した。上杉景勝は繁長の意見を容れて終戦工作を開始し、11月3日には繁長に上洛して折衝にあたるよう命じ、上洛した繁長は伏見留守居役・千坂景親と協力して終戦工作に奔走した。その結果、繁長らの努力が実って上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封こそされたものの存続を許された。これに伴い繁長も11,000石から3,300石に石高が減封されたが、引き続き福島城代を務め、重臣として家中の再建にあたった。

慶長18年(西暦では翌1614年)12月20日死去。享年74。上杉景勝は繁長の武勇を称え、「武人八幡」の称号を与えた。法名は憲徳院殿傑伝長勝大居士。墓所は福島県福島市の長楽寺。長楽寺には繁長の木像が安置されており、毎年9月に行われる供養祭には一般公開されている。家督は先に大宝寺氏に養子に入っていた次男の大宝寺義勝が本庄氏に復帰し、本庄充長と改名することで相続した[9]。尚、充長には子が居なかったために自身の弟で繁長の六男である本庄重長がその後に本庄の家督を継いでいる。

『東国太平記』における本庄繁長の挟撃説
上杉家では、延宝8年(1680年)に成立した軍記物『東国太平記』(杉原親清編纂、国枝清軒校訂)の内容を「松川合戦」の通説として語り、「謙信以来の本庄繁長の武勇を知らしめた戦い」としてその武功を讃え喧伝している。

慶長6年4月26日、2万ばかりの大軍を率いて伊達政宗軍が侵攻してきた。初め劣勢だった上杉軍は、本庄繁長の奇策により、信夫山の後背から須田長義軍と共に伊達軍を挟撃した。小荷駄隊を撃破され、「竹に雀の陣幕」まで奪われた伊達軍は大いに慌てふためいて浮き足立ち、更に福島城城門から出撃した本庄繁長軍が伊達軍の中央本陣深く切り込んだため、伊達軍は総崩れとなった。この戦いで上杉側は首級1290余りを上げる大戦果を上げた。この予想外の大敗北に伊達政宗はわずか10騎ばかりの供回りで、本道を避け、間道を抜けて白石城へ逃げ帰った。この戦いの結果、「上杉家の手柄は天下の美談となった」と云う。 (『東国太平記』第4巻 慶長6年4月26日「松川合戦に政宗、福島城を攻める事。并せて須田大炊介、政宗の陣幕を切り取る事」)
人物
 繁長は上杉家に鬼神ありとまで言われた[2]。景勝も繁長を特に優遇し、竹に飛雀の紋所と上杉景信の名跡を継ぐ事を許して上杉一門として遇した(紋所は上杉一門の山浦家以外は本庄家しか許されていない特権である)[2]。
 繁長は少数の兵を指揮する能力に長けており、十五里ヶ原の戦いや松川の戦いなど勝利を収めた戦いの殆どは敵軍よりも自軍の兵の方が圧倒的に少ない。また本庄繁長の乱では最終的に敗れているが、倍以上の兵を擁する上杉軍を相手に1年程戦って大損害を与えている。また城そのものについても落城は免れている。
 関ヶ原の戦いの後に上杉家の終戦工作の下地を調えるように上杉景勝が繁長に命じたのは本庄繁長の武名が多方面に轟いており、多くの大名から一目置かれている繁長であれば徳川方と対等に交渉できると見込んでいた為であると言われている。
 本庄房長の室は小川長資謀反の際に敵兵に襲われ腹部に刀傷を負ったものの一命は取り留めた。しかし、その際に受けた傷は体内の繁長にまで届いており、繁長は生まれながらにして眉目に傷を負っていたと伝えられる。
関連作品
小説
大嶋満夫『阿賀の風雲 内乱篇』(村上新聞社、1986年)
風野真知雄『奇策 北の関ケ原・福島城松川の合戦』(祥伝社文庫、2003年)ISBN 978-4396331184
大場喜代司『愚直之将 巻一 - 四』(生活文化叢書刊行会、2008年-)
脚注
[脚注の使い方]
^ 『本庄繁長』 - コトバンク
^ a b c 大場喜代司『村上藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2008年1月、2頁。
^ a b 渡辺三省『本庄氏と色部氏』
^ 甲斐武田氏は駿河今川氏と同盟し北信において上杉氏と敵対していたが、永禄後年には北信をめぐる争いが収束し、永禄11年には今川氏と手切となり今川領国への侵攻を行う(駿河侵攻)。武田氏は今川領侵攻に際して上杉氏への牽制を行っており、同年はじめから繁長のほか会津の蘆名盛氏への奥越後侵攻を要請しており、繁長の挙兵と連動して同年3月には蘆名氏家臣・小田切氏の越後侵攻が行われている。
^ 『貞山公治家記録』巻20上
^ 『日本戦史「関原役」』第7篇第5章 福島「會津攻伐ニ関スル者」
^ 『伊達町史』第1巻 通史編上
^ 志村平治『信濃岩井一族 岩井備中守信能』歴研、2009年。
^ 逆に、これにより武藤大宝寺氏の嫡流は途絶えることとなった。
参考文献
渡辺三省『本庄氏と色部氏』戎光祥出版〈中世武士選書 第9巻〉、2012年(原著1987年)。ISBN 4864030626。 - 初刊は村上郷土研究グループより。
『村上市史 通史編1 原始・古代・中世』村上市、1999年。
本庄繁長公の会 編『希求 武将「本庄繁長」の真っ直ぐな生涯』村上新聞社、2014年。
関連項目
本庄繁長の乱
松川の戦い
カテゴリ: 戦国武将米沢藩士揚北衆越後国人領主越後本庄氏1540年生1614年没