燈火 ともしび  火を投じるために来た者  ファイヤーマン | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

燈火 ともしび  火を投じるために来た者  ファイヤーマン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

景徳傳燈録 - Wikipedia



『景徳傳燈録』(けいとくでんとうろく、新字表記:景徳伝灯録、全30巻)は、中国北宋代に道原によって編纂された、禅宗を代表する燈史。

過去七仏から天台徳韶門下に至る禅僧その他僧侶の伝記を収録している。多くの禅僧の伝記を収録しているため、俗に「1,700人の公案」と呼ばれているが、実際に伝のあるものは965人である。

1004年(景徳元年)に道原が朝廷に上呈し、楊億等の校正を経て1011年に続蔵に入蔵を許されて天下に流布するようになったため、年号をとって『景徳傳燈録』と呼ばれるようになった。これ以降、中国禅宗では燈史の刊行が相次ぎ、それはやがて公案へと発展した。『景徳傳燈録』は現在もなお、禅宗を研究する上で代表的な資料であり、必ず学ぶべきものとされるが、内容には必ずしも史実とは限らない部分もある。

なお、撰者に関しては、元々は拱辰が編集したが、朝廷に提出する旅の途中で道原に横取りされて提出されてしまったとする説があるが、中国の仏教学者陳垣によって否定されている。

内容
全30巻の内容は次の通りである。

釈迦を含む過去七仏から西天14祖の龍樹まで
西天15祖の迦那提婆から西天27祖の般若多羅まで
菩提達磨から東土五祖の弘忍まで
四祖道信傍流の牛頭宗及び、北宗神秀など南宗以外の僧
六祖慧能門下。荷沢神会、南嶽懐譲、青原行思、慧忠国師など
南嶽門下。馬祖道一など。及び、馬祖門下。百丈懐海など
馬祖門下の続き。西堂智蔵、塩官斉安、帰宗智常など
馬祖門下の続き。南泉普願など
百丈門下。潙山霊祐、黄檗希運、福州大安など
南泉門下。趙州従諗など。及び、白居易など
潙山門下。仰山慧寂、香厳智閑、王敬初など
黄檗門下。臨済義玄、裴休など。及び、仰山門下
南嶽系統。風穴延沼、首山省念など
青原門下。石頭希遷。及び、石頭門下。天皇道悟、丹霞天然、雲巌曇晟、投子大同など
青原三世。徳山宣鑑、石霜慶諸、洞山良价、夾山善会など
徳山門下。巌頭全奯、雪峰義存など。及び、石霜門下。九峰道虔など
洞山門下。雲居道膺、曹山本寂など
雪峰門下。玄沙師備、長慶慧稜、鏡清道怤など
雪峰門下の続き。保福従展、雲門文偃など
雲居門下。及び、曹山門下。育王弘通など
玄沙門下。羅漢桂琛など
雪峰三世。
雲門門下。
羅漢門下。法眼文益など
法眼門下。天台徳韶など
法眼門下の続き
禅宗以外の参禅者。宝誌、傅大士、南嶽慧思、智顗、僧伽、萬迴、豊干寒山拾得、布袋。及び、短い問答
長い問答
偈頌
銘・歌・書
テキスト
『東禅寺版 景徳傳燈録』(禅文化研究所) 古版 
『四部叢刊』第104巻、第105巻 
『高麗本 景徳傳燈録』(中文出版社)
『大正新脩大蔵経』第51巻「史伝部」3 元版
『中華大蔵経』景徳傳燈録 金版
『景徳傳燈録』(新文豊出版公司) 民国常甯寺本
上記のように、テキストには諸版あり、その校訂だけでも1つの研究分野を為し得、これまでに数多くの研究成果が公表されている。

参考文献
『国訳一切経 史伝部14 景徳伝灯録(上)』(佐橋法龍・増永霊鳳訳、大東出版社)
『国訳一切経 史伝部15 景徳伝灯録(下)』(大東出版社)
『景徳伝灯録(上)』(佐橋法龍、春秋社)
『景徳伝灯録 三(巻第七・八・九)』(入矢義高監修・景徳伝灯録研究会編、禅文化研究所)
『景徳伝灯録 四(巻第一〇・一一・一二)』(入矢義高監修・景徳伝灯録研究会編、禅文化研究所)
『宋代禅宗史の研究』(石井修道、大東出版社)
「東禅寺本 景徳伝灯録解題」(西口芳男、『東禅寺版 景徳傳燈録』、禅文化研究所)
「宋・元版『景徳傳燈録』の書誌的考察」(椎名宏雄・鈴木哲雄、『駒澤大学禅研究所年報』4,5号)
関連項目
『祖堂集』
五灯
燈史
外部リンク
IRIZ>禅籍データベース>景徳傳燈録


牛頭宗 - Wikipedia
牛頭宗
ページノート
閲覧編集履歴表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
牛頭宗(ごずしゅう)は、中国の唐代に形成された禅宗の宗派である。

本来、牛頭宗は五祖弘忍門下の法持(635年 - 702年)を開祖として、江寧(江蘇省南京)の牛頭山を本拠とし、法持 - 牛頭智威(646年 - 722年) - 牛頭慧忠(683年 - 769年) - 仏窟惟則(751年 - 830年)、牛頭智威 - 鶴林玄素(668年 - 752年) - 径山法欽(714年 - 792年)という法系で、伝承された一派であった。

とりわけ、牛頭慧忠と鶴林玄素の二人の代には、荷沢神会と同時代に活躍し、北宗・南宗(荷沢宗)に対抗する勢力を形成し得た。すると、自らの立場を権威づけるために、四祖道信の系譜に、牛頭法融(594年 - 657年) - 智巌(577年 - 654年) - 慧方(629年 - 695年) - 法持という法系を加上し、法融を牛頭宗初祖、以下、智巌を第二祖、慧方を第三祖、法持を第四祖、智威を第五祖、慧忠を第六祖と称するようになった。

この法系は、南北二宗が五祖弘忍門下の六祖を比定する上での対立であったのを見て、自らの祖を四祖道信とすることにより、その優越性を主張しようと図ったものである。また、牛頭慧忠を六祖の位置に置いたのも、南北二宗が六祖を誰とするかを巡って争っていた点を踏まえたものとされている。

その論書として、敦煌写本の『絶観論』や『無心論』がある。

関連項目
最澄
関係論文
CiNii>牛頭宗

 

 

 

燈史 - Wikipedia


燈史(とうし、新字表記: 灯史)は、一般的に仏教界における歴史書、とりわけ禅宗史書を指す用語。仏教宗派それぞれが、自宗の正当性を主張する目的で創作・編集する性格が強く、信憑性が薄い記載が多いとされる[1]。

概要
燈史は、師から弟子、そのまた弟子へと、まるで聖火リレーのように燈(仏法)を伝えるという、仏法の継承の流れを指し、その伝承の歴史が書かれた歴史書の事も指す。ゆえに、史記に代表される紀伝体の、本紀や列伝などの分類による叙述ではなく、師弟順によって編年的に編集されている。

唐代の禅においては、師資相承関係は明確に固定化されたものではなかった。雲水たちは、各地を遊方し、多数の祖師に就いて修禅することによって、その啓発を受けた。また、一度、印可を受けた後も歴参を続けることが一般的に行なわれていた。よって、師僧と弟子の間で、師弟関係に関する認識の差異が生じることもあった。

ところが、『祖堂集』のような燈史が編纂されるようになると、排他的に禅僧たちを繋ぎ合わせる必要が出てくる。そのため、嗣書や印可の存在が重要視されてくる。また、禅僧たちにも自身の法系を意識する立場が明確になってくることとなった。その所産が、五家七宗である。

宋代になると、禅の興隆につれて、「祖統」(伝法の系譜)が強烈に意識されることとなり、それを編んだ燈史が完成されることとなる。

代表的な燈史
『楞伽師資記』(708年頃成立)
『祖堂集』(952年成立)
『景徳傳燈録』(1004年成立)
『宗門聯燈會要』(1189年成立)
『五燈會元』(1253年成立)
『日本洞上聯燈録』(1742年成立)
脚注
[脚注の使い方]
^ 高崎直道/木村清孝「新仏教の興隆 東アジアの仏教思想Ⅱ(3巻)」 春秋社 1997年