無原罪の宿りのマリアは、天地の要であり仲介である事
無原罪の宿りのマリアは、天地の要であり仲介である事。
それは、至高善である御父と御子イエズスと聖霊である聖三位一体、唯一の生きている最高善の神と
地上のあらゆる被造物の仲介者だという事実です。
イエズスはそうです仲介者です、、しかし、、さらに、イエズスと人々を仲介する仲介者がマリアという唯一の無原罪の宿りである存在です。
イエズスは、至高善である神の第二位です。御父の意向により言葉が発せられます、その言葉は、聖霊であり、聖霊は、マリアの汚れ無い肉を受肉して、御子イエズスに成ります、唯一の神人です。聖霊は、御父と御子の相思相愛ですから、まさに純粋なる慈愛の結合です。
御父の愛と御子の愛の結合ですから、聖霊は、二者の純粋な慈愛が融合した愛の中の愛なのです。
もちろん、三者は、同一です、神々といっていいのです、三位一体ですから、、、TriUniです、、まさに純粋な慈愛そのもので、
完全で完璧でオールマイティで、至高善で最高善で、唯一の生きている神、どの人、どの被造物にとっても唯一の天主、善き主人なのです。
その天主、唯一の善き主人と、地上のあらゆる人々と他の全部の被造物を仲介するのが、マリア母さんだという事です、
これは聖三位の計画であり、み旨ですから、、、そのように善き主は差配したという事で、
愚かで不完全な人類は知識をもってその事実を誠実に受け止める必要があるのです。
この事実は、2000年間に全人類に啓示されて、神の秘密事が、秘匿が、全て開示されて、あのエルサレムの神殿の至聖所の豪華なケルビムに色彩のある刺繍が施された幕が、上下に半分に裂かれたのは、至聖所の神が全てを開示したという証拠です。
その時、イエズスの心臓も、ローマ兵の百人隊長のロンギヌスの持っている戦闘のための槍でわき腹を抜けて心臓を裂いたのです。
その時、イエズスの心臓からは、血と水が滴り流れ出たのです、地上に、、、、、、
それを受けた、異教徒の異邦人であるローマ兵のロンギヌスは、イエズスを正しい人だと認識したのです。
まさに純粋な慈愛であるとそう受け止める事ができたのです、、、
心臓を自分の槍で割いたことによって、・・・・これが、神がいつもする技です、、
相手をどこまでも誠実に受け止めるというその方法と態度は、その個人の自由意志を限りなく尊重するのです
その相手は悪を好む、悪を排除する、善を好む、善を排除する、、その人の嗜好をそのまま極限までうけとめているのです
殺したいと強い殺意のある人は、やはり殺意を抱く相手を殺してしまいます、、、、
この人を殺したい、この人を侵害し傷つけて破壊し、動かないようにしたい、、、つまり、思わないようにしたい、言葉を吐かないようにしたい、行いを一切なさないようにしたし、、一切、自主自由に動かないように、まさに死滅を贈りたい、支配したいのですが、完全なる支配です
そのためには、抹殺するのが最終です、、、、そして、存在自体を抹消したいと強く望むのです。
強烈なその存在への反対と反抗と制圧と征服ですから、、、、生命を途絶して、亡骸も抹消する、、これが究極の反抗なのです。
存在への幾分の尊敬や尊重も無い、まさに悪を好み徹底的に悪を望む人です、悪とは純粋な慈愛の欠如です。
相手の存在を尊重しないからです、したくないのです、明確な意図がある、、その者の存在を尊重したないのです。
だから、面白くない人には、死ねという人がいるし、死ねと思う人もいますし、、、実際、殺すという行為を成す人もいます。
殺していい人はどこにも存在しないのです。
自分の都合にあう合わないで、必要とか不必要と愚かな人間は心に抱くのは、その時点で大きな罪を犯しているのです
つまり、死刑になる行為です、思い、言葉、行いで、、、実際に、殺人をしていないかもしれないけれど、、
誰かに死ねと心で思うだけで、それはその死ねと思った人が死刑になる大きな罪なのです。
大きな罪は、その個人が、罪を犯した事で、発生する損害と損益を、自分で完全に償い埋め合わせが出来ないという意味です
無限に負債を抱えている事になるのです。
どうしてそれを愚かな有限なる人間の一人の能力で莫大な負債、マイナスを、返し切れるのでしょうか?
少し思いめぐらしてイメージしたら、意識して、意図的に計算したら、すぐに解答が得られます、
無理です、、、大罪にを犯した人間が、その人の力だけで、全て罪の償いと埋め合せをするのは絶対にできません、
不可能です、、マイナスを少しでもプラスにしよとしても、、ゼロにはならないのです、、、
そうです、ですから、大罪を犯して死んでしまった人は、、自分だけでは自分の負債、マイナスをゼロには決してできません。
ですから、イエズスの完全なる生贄、全ての人の身代わりになって、御父に捧げてくれたその生贄がどうしても必要なのです
それを受け取って、自分で御父に生贄を捧げる必要があります、そうしないと自分のマイナスを完全に返済できないのです。
完全な自分の罪の償いと埋め合せができませんという意味です、
マリア母さんは、全ての人に、、、この神の子羊を生贄にするよにと分配してくれている、
まさに真の慈愛の母なのです、、、
その無限のあわれむ真心をも誠実に喜びと感謝をもって受け止める人は、幸いな人です。
マリアの役割は、至高善の父と子と聖霊の聖三位一体の意向ですから、誰も反対できないのです。
もしもその天主の意向に反対を唱える人は、、その人は、まさに不幸を自分から得ている人だと言えます。