Divine Mercy Sunday(Feast of the Divine Mercy) | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

Divine Mercy Sunday(Feast of the Divine Mercy)

 

今日は 神のあわれみの日 神のいつくしみの日なんだ。

イエズスが、正午に十字架にかけられて、午後3時に亡くなったんだ。

その時、ローマ兵が、イエズスが死んだのを確認するために、槍を脇腹から突いて心臓まで到達したんだ。そしたらイエズスから血と水が流れ出て来たんだ。

 

これは、イエズスの愛を表す最も象徴的な出来事だったんだ。

 

どんなにか、人々を愛しているかっていうことの証だったんだ。

 

イエズスは、全ての人をそれぞれ、だれよりも愛してやまないんだ。

 

イエズスは、愛、あわれみ、ゆるしの塊だから、悪を行えないし、悪すら思い浮かばない。誰に対しても、どんなに極悪非道な人に対しても、高慢な人や傲慢な人、みじめな人、性的な罪から抜け出らない人、異性愛者だろうが同性愛者だろうが、お金持ちだろうが貧乏人だろうが、善人だろうが悪人だろうが、子供だろうが年寄りだろうが、偉い人だろうが、地位の低い人だろうが、人種も、性別も関係ないんだ、何を信じていても、無神論者でも、共産主義者でも、どんな人に対しても、イエズスは、誰よりもその人、一人一人を、いつくしみ、愛し、生涯にわたって世話をして、そして自分自身のすべてを与えてくれているんだ。

 

そういう超がいくらあっても足らない愛の塊が、愛そのものが、イエズスなんだ。

 

十字架上のイエズスは、自分のお父さん、御父、アッバお父ちゃんからさえも、完全に見捨てられた、超孤独な状態だったんだ。その真っ暗なはかりしれない孤独のただ中に居たんだ。ぼくらが想像できない、とてつもない苦しみにの中にいたんだ。それは、アッバお父ちゃんがイエズスに対して、人類の救いのために望んだことだったんだ。出来ればイエズスは、その様々な苦しみを避けてほしいと希望するんだけれど、最後は、あなたのみ旨が私になりますようにとすべての苦しみを受け入れるんだ。

 

どうしてイエズスは、こんな苦しみの中の苦しみを受け入れたかと言えば、全員、この地上の人々みんなが、本当の幸せ、人生の目的地、天国を選択し、人々の本当の生み親である、アッバお父ちゃんと顔と顔を合わせ、すべて満たされて永遠に微笑みニコニコしながら幸せに過ごしたいと望んで、そして本当の幸福をみんなに獲得してほしいからなんだ。

 

この時に、どうか世界中のすべての人々に、神さまのあわれみが、ノアの洪水のときよりも激しく、神さまのあわれみの大洪水が、マリアかーさんと、ヨゼフとーさんのとりなしで、この世に満ち満ちますように。アメン。