主人と高額なオランド大統領の
理髪代について、話している
時のこと。
前東京都知事の辞職のきっかけ
となった政治資金公私混同疑惑に、
話がおよび、その経緯を説明した
ところ、すかさず主人が
「世が世なら、斬首刑だね。」と。
そうでした、あなたたちのご先祖様は
革命を起こし、王や王妃でさえも
処刑台に、送ったんですものね。
そのフランス革命時に、
「ギロチンへの入口」
と呼ばれた場所が
セーヌ川の中州 シテ島にある
Conciergerie(コンシェルジュリ)です。
とんがり屋根が印象的なおとぎ話に、
登場しそうな建物ですが、かつては
牢獄として、4,000名以上を収容し、
約2,600名を処刑台へと送り出した、
暗く重い歴史をひきずる場所です。
もともとは王宮として建てられ、
時代によって、裁判所、牢獄
と使われ方も変わりました。
現在は当時の様子や歴史を伝える
博物館、また、裁判所と警視庁の
一部として使われています。
建物の中に入るとまず、1,800㎡
の憲兵の間が飛び込んできます。
天井の高さは約8.5m。
王宮時代は食堂、牢獄時代には
男性収容所として使用されました。
王宮時代は複数の螺旋階段があった
ようですが、広間右手にある、この
螺旋階段のみが現存しています。
記録帳に囚人の動きを記録
するための書記官の書斎。
革命期に囚人の責任者
となった守衛の書斎。
囚人が処刑前に、私物を
提出した支度部屋。
牢獄は有料で、払えた額に、
応じて、3つに分類され、
設備や環境が変わりました。
貧しい囚人は「パイユー」、別名
「わら族」と呼ばれ、わらが
敷かれただけの雑居房でした。
当時、コンシェルジュリは最も厳しい
牢獄として知られ、すし詰め状態の
劣悪な環境を強いられていたため、
囚人の多くは病人だったようです。
そこそこ、お金を払えた中流層の
囚人は「ピストリエ」に、分類され、
簡素なベッドが与えられ、
4~5人の雑居房でした。
さらに、お金を払えた富裕層や
著名人の囚人は「プリゾニエ・ドゥ・
マーク」に分類され、独房で、
家具を持ち込むことも許されました。
手錠?足かせ?
オリジナルの牢獄の鍵
なども展示されています。
こちらは「ジロンド派」の礼拝堂。
1793年10月30日の処刑前夜に、
この場所で、21人のジロンド派議員
によって、宴会が開かれました。
1815年に、アントワネットの
独房跡に整備された
マリー・アントワネットの礼拝堂。
監獄生活を描いた絵画。
礼拝堂の入口には2つの
記念プレートがあります。
ひとつはアントワネットの
夫であるルイ16世、
そして、その向かいには
ルイ16世の妹エリザベート。
アントワネットは処刑の前日に、
義妹であるエリザベート宛に、
「犯罪者にとって死刑は恥ずべき
ものだが、無実の罪で断頭台に、
送られるなら恥ずべきものではない」
という内容の遺書を残しています。
復元されたマリー・アントワネット牢。
1793年8月2日コンシェリジュリに、
移送されたアントワネットは
処刑される10月16日までの
2ヵ月半を二人の憲兵が常時、
警備する独房で過ごしました。
他の囚人たちの部屋に、比べれば、
スペースも広く、家具も揃い、食事も
優遇されていたようですが、
王妃として華やかな生活を送った
アントワネットには耐え難い空間
であったことが容易に想像できます。
部屋の中で、佇む彼女が
蝋人形とはいえ、重い空気に、
支配され、胸が苦しくなります。
処刑の直前、Jacque-Louis David
(ジャック・ルイ・ダヴィッド)
によって描かれたマリー・
アントワネットの肖像画。
白衣に白い帽子、髪は短く
刈り取られ、両手を後ろ手に、
縛られています。
37歳でしたが、その姿はまるで、
老婆のように、変わり果てていました。
最期の言葉は死刑執行人の
足を踏んでしまった際に、
発した「ごめんなさいね、
わざとではありませんのよ。
でも靴が汚れなくてよかった。」
と微笑んだと言われています。
コンシェルジュリは牢獄であった
だけに、重苦しい雰囲気に、
包まれています。
しかし、時代に、翻弄された王妃の
最期を窺い知る貴重な場所でも
ありますので、フランス史に、
興味のある方はぜひ足を
運んでいただきたいです。
パリ・ミュージアム・パスでも
入場可能です。
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◆ Conciergerie
Website http://www.paris-conciergerie.fr/