土曜日の犬のトリミングが終わってから兵庫県丹波市にある実家に一泊で帰省しました。

母の認知症状(受診を拒むので確定診断はまだです)はかなり進行しているようでした。

父の世話や掃除も料理もできる、細かい作業も戸締まりや火の元の確認も計算もできている。

絶望的に低下している昨日は自分が言ったことを忘れていて、多い時は何十回も同じことを話すことと、人が話したことを忘れるということ。

人が喋った内容や母からの問いかけへの回答も忘れてしまうので、また同じことを尋ねそしてまた忘れてまた尋ねるの繰り返しなのです。


以前、弟が帰省した際、母に受診を勧めたそうですが頑なに拒まれたそうです。
なので、仮に説得できたとしても人の説明を忘れてしまうため受診までの道のりは遠い気がします。

まずは、認知症についての知識を深め、誰かが根気強く治療に付き合える状況になるまでは、母に認知症であることを伝えるのはやめたほうがよいようにも思うのです。



ただ、今回わたしが驚いたことは、母の繰り返しは一言一句同じ単語と同じ文章で何度も話すことができていることでした。

これには身内の出来事ではあるものの、大変興味深いことです。

母の頭はキャパシティの限界で、新たな知識や作業、動作、言葉などはもう受け付けることができない段階なのかなと考えました。


親だから腹立たしくなったりつらかったり、こちらが冷静でいられなくなる。
なので、研究するつもりで母の症状に付き合うことができれば穏やかに接することができる・・・わけはありませんね。


母は弟のことばかりでわたしに向ける感情は八つ当たりや更年期のイライラをぶつけたりで、親として接するのは世間体を重んじてだけのことだったと思います。

甘えることができないバリアを張り巡らされていました。

母との関係性は決してよかったとは思えないので今回のことはわたしにはショックというより、煩わしい思いのほうが大きいです。

なので、肉親ではなく仕事に従事する気持ちでないと接することができないのです。



わかりやすく参考になりました。



母のありさまは近い将来のわたし自身の姿だということは棚に上げずに忘れてはいけないと思っています。





最近気づきがあったこと

① 存在しているか否(いな)か
先住犬が死んだあとも、“わたしが覚えているかぎり、心のなかで生きている” と思っていたことは美談にすぎないのかもしれない。

わたしにとって重要なことは、やはり命ある姿で存在していること。

土曜日に噛み噛み坊主をトリミングサロンに連れて行き、犬のいない家の中にその存在がないことで、心に空洞ができるというのか、犬と過ごした時間だけが消し去られたような虚無感を味わった。


② 共鳴
金曜ロードショーの「かがみの孤城」のなかで、狼が鳴くシーンがあった。
こたつの中でぬくぬくと寝ていた犬が飛び起き、家じゅう小走りで駆けまわって狼を探していた。

ためしにわたしが狼の遠吠えをしたところ、同様の反応を示したので「これはいける!」と犬を服従させる(噛みつきをやめさせる)ことを思いついた。


③ 責任感の勘違い
これまで誠意をもって仕事を遂行することをわたしは責任感がなせることだと思っていた。

金曜日の帰りのバスでハッとして、責任感などではなく、それは自己満足に支配された執着心であることに気づいた。

以上、②については効果なし








ではまた、ごきげんよう。