ただいま東京都は3回目の緊急事態宣言真っ盛り。

行政はまさに為すすべも無く、毎度の時短・休業を要請する。

 

これは良くない。改善できることはありそうだが。

項目別に見てみよう。

 

 

1. 水際対策

日本へ入国するすべての人に対する監視と罰則の強化が必要だ。また、特定の国や地域からの渡航制限をより柔軟に行えるようにする必要もありそうだ。

 

2. 医療

正直誰が正しいことを言っているのかよくわからないが...新型コロナ自体が未知のものであり専門家間で意見が異なることも多い。混乱に乗じてあら稼ぎをしたい人はいつでもいるし... 

 

医療崩壊しないために必要なことが多くの国民の間で合意できれば良いのだが、これまでのケースでは「医療崩壊寸前だ!」--> 「一年経っても同じことを言っている医療関係者の努力が足りない」--> 「ベッド数はこの一年で激増している」....

 

ベッド数が増えているのに医療崩壊リスクが減らないということは、

 

1)医療従事者が足りていない

2)想定以上のコロナ患者数

 

のいずれか或いはいずれも、だろう。

1)の劇的改善は短期的には実現困難なので、軽症者に必要以上のリソースが割かれていないかワークフローを見直したり、離職者を減らす施策等を採るべきだろう。

2)については、根本的な予測が甘かったというのは一因としてあるのかもしれない。そこでは「臨機応変なベッドの増減」を可能にする体制が作れるかどうかが問題になるだろう。恒常的にベッドを増やすことではなく、野戦病院的なものをスクラップ/ビルドする体制だ。2020年の春に中国で既に実施されていたアレだ。

 

 

3. メディア

主にマスメディアによる情報番組や報道番組におけるコロナの取り扱いは端的に害悪でしかない。

メディアを変えることは難しいので、我々にできることはテレビを消すこと。

「今日の感染者数◯◯人 ◯日ぶりに◯人を上回る」のような情弱による情弱のためのネットニュースの見出しをスルーすること。

 

可能ならどこかで煽り報道を定量化してみたい。

 

 

4. 教育

ファクトからの論理的な推論ができない大人、それも政策に責任を持つ立場の大人が多い。妄想や願望を事実であるかのように変換することに焦点を当て、強い負の価値を与えるべし。

 

 

5. ムラ思想

「県境に検問所を設ける」だとか「県外」ナンバー排斥だとかウレタンマスク警察だとか視野の狭い人たちが騒いでいたのは記憶に新しい。愚民のみならず愚為政者すらそのようなことを言う。山形県は宮城県を恐れ、都民は多摩川を慎重に渡る。こっそり帰省したと思えば怪しい脅迫状が届き、親戚は会いに来ない。

 

若い田舎の人よ、今こそ、故郷を去る時だ。都会にもこのようなムラ的志向をする人はいるが、田舎よりも考え方に多様性があり同調圧も弱い。

 

「ルールはルールだからねぇ」このようなムラの掟を重視する考え方は、人権無視校則が根絶できない問題と同根だ。

 

 

6. 誰のためのコロナ対策?

語弊を恐れずに言えば「主に、高齢者や持病がある方のために、全国民の経済的な自由を止めている」ということになるだろう。そこに他の疾病と比べて過剰となる点はないだろうか? 

コロナ対策のために経済を止めることがOKとされるのなら、なぜ交通事故死を減らすために自動車の走行制限はなされないのだろうか?

 

 

誰しも理不尽な形で命を失いたくない。個人的には疫病や老衰による死よりも、事故や事件による死の方が耐え難い。

 

コロナだけでは無く多くの事物で溢れるこの世界、そろそろピントを調節する時ではないか。

 

 

 

昔聴いた時は「普通に良い曲だな」ぐらいの印象だったのが、一周りして再会すると「すごく良い曲」に変わってゆくことがある。今日再会した標題の曲もその一つ。秋風感が脳幹に響く。

再会のシチュエーションや季節にもよる。

木犀の香りがどこからともなく漂い始めるこの季節は、重ねた月日が感傷の源泉になる。

Googleのような外部記憶が発達したせいか、自発的に取り出せる記憶を失い、同時に個人的な記憶も失った今、頼りにできるのは偶然の五感刺激のみ。

何度も聞き潰したはずの曲も、長いブランクの後に再会すると、初めて強く刻印された時の記憶が蘇る。

最近、音楽ストリーミングが日本でも熱くなってきた。たまに、完全に忘れていた曲が完全に忘れていた記憶を無理やり連れ出してくるのが面白くて、結構はまっている。

La la love me うしろゆび
Hold me さされぐみ

とかね。
かつて、書くことがあろうが無かろうが、ひたすら駄文を重ねていた日々があった。別の時間には、書くことがあるのかどうかわからないまま長い沈黙があった。

そして今、書いている。

なぜ書くのか?

緑道のベンチに半分だけ腰掛け、中華居酒屋のネオンを見ながら、なぜ書くのか?

尻尾の短い野良猫が、目の前を横切っているのになぜ書くのか?

ぼくは知らない。

このことに関して、文豪はすでに何か上手い答えを見つけているのかもしれないし、あるいは理論家が難しい言葉を駆使して理論を組み立ててしまっているのかもしれない。

そういうことを考えると、なぜ書くのか、という疑問は、なぜぼくは書くのか、と修正したくなる。

なぜぼくは書くのか?

なぜぼくがぼくであるのか?

なぜ書き続けなきゃならないのか?

なぜ緑道で中華居酒屋の看板を尻目に通りすぎる野良猫を見ながら、ぼくはぼくであるために書き続けなきゃいけないのか?

それはこの胸にはまだわからない。


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銀座の外れのとある桜並木。行き交う人々は足を止めるも、桜を愛でる暇も惜しいとばかりにシャッターを押している。老いも若きもこの特別な季節に飲み込まれることを楽しんでいるのだろう。
イモーションが動かないとピアノを弾かなくなる。
最近は心というより胃が体を動かしている。

物置の中の曲。
思い出があったりなかったり。

古い荷物など無く、あるのは現在と未来だけ。
古いiPodの中、あるのは何かの痕跡。

Bachの有名な曲。
遠い昔の記憶が蘇りそうで蘇らない。
すべては事実述定の検索エンジン。
イモーションまでは返せない。

イモーション喚起性が強い刺激によって、
必ずしも人のイモーションが刺激されるわけではない。
調子の良い時に悲しい曲が聞きたくなったり、
調子が悪い時に安っぽい曲が聞きたくなったり。

曲が持つムードから楽曲の推薦をすることは
まだ未解明のことが多い。

フーガのイモーションは神の音?
あるいは使われなくなった玄関に差す西陽?
月初に環境が変わり、以降の数週間は、毎日頭が心地よく疲労している。
そのせいかどうかはわからないが、夢を見ることが増えた。

その中で、
忘れていた人に再会したり、
知り合い程度だったはずの女性と深い関係になったり、
中2が抱きそうな欲望を抱いたり、
年相応の欲望を抱いたり、
知らない国へ行ったり、
知っている国へ行ったり。
不快なことも、愉快なことも、
ありとあらゆる意外なことがこの世界では起こるのだ。

有限の素材から無限の世界を編み出す夢の世界に
私は、昔から強い関心がある。

経験が増えると、多少のことでは狼狽しなくなる。
しかし、その反面、好奇心で胸躍らせることも減ってしまう。
夢の中では、そのいずれも含め、
まるで多面サイコロにより決められるかの如く、
情景やオブジェクトが出現しては消える。

将来、この秘めたる世界を他人に読み取られてしまう時代も来るのかと思うと、
恐怖を覚える。

♪The dream police, they live inside my head,
 The dream police, they come to me in my bed.