母の灯火

昭和44年12月7日午前4時頃
雨が霙に成り雪に成った寒い朝

母(絹子)は喉に血痰が詰まり苦しくても声が出せなかった
看護師さんが吸引しても量が多い為に取れなかったらしい  辛い苦しい思いだったと思います。
今思い返しても、もっと早く気がついていればと自分を攻めたく成ります。

父(清規)も弟(恵造)も母(絹子)が命の灯火が消えるその時には間に合わなかったのです。

二人は、私以上に辛く悲しい思いだったと思います。

二度目の奇跡は起こらなかった
この日まで生きて居た事が奇跡だったのです。

モルモットの様に数多くの薬を投与され
輸血は一日2本それに点滴2本
白い腕は紫色に成り痛々しい針の後
胸に3度も麻酔薬も無しにボールペン程の針を入れられ心臓の近くをグリグリ探られたと母は言っていた。
その時は病院中に母(絹子)の叫び声が聞こえたが
私は病室には、入室する事が出来なかった。
辛く悔しい日も有りました。

そんな事が有った母(絹子)の入院生活だったのに
母(絹子)は微笑みを浮かべた顔で
静かに眠って居る様で
 


私に『まぁちゃん、あのね今御花畑に居るからね心配しないで良いのよ、ありがとう』って言って居る様でした。

私は泣きじゃくり、自分を恨んだのです。

父(清規)と弟(恵造)は、涙を堪えて居た。
きっと弟は父から男としての礼儀作法を私が居ない間に指導されて居たのでしょうね
立派に父の横について周りの方々に気配りをして居たのです。
そんな姿を見ながらも私は涙が止まらない
凛とした弟まだ13歳の男の子だったのに今思えば、私と同じ様に泣きじゃくりたかったと思いますが長男としての弟は立派に父(清規)のサポートをしていました。

外は深々と雪が降って居たのですが朝日が昇ると同時に雪も止みまるで母(絹子)が家に帰る事を喜んで微笑んで居る様な陽射しが射し始めて居たのです。

その日は、私と母(絹子)との別れの時を次の日が友引ということで二日間母(絹子)との時を過ごせました。
私は、皆が止めても二日間、
母(絹子)と一緒に同じ御布団で眠りました。
その時に
私は生まれて三日目から続いた悪夢を見なく成りました。

その悪夢を始めて父(清規)に語れる日がきたのだと
いや話さなければ成らないと思ったのです。


                 つづく

私が生まれて16年間 枕が涙で濡れる程
夜中に毎日 眠ると泣き乍眠っていた事
其の、話をする時が来た事を
何故ならば 生まれた時から私は
母(絹子)を護りそして寿命も分かって
いた事をね、何故ならば
泣き濡れる時 私は赤子でもない幼児でも
無い 私は其の時は、中学生でも無い
16歳の私だったからです。

きっと父も、分かっていたと今は思う
両親も、私と同じ不思議なパーワを持つ
二人で有った事を振り返る今 そして
現在 父は私と話せるからです
そう弟も勿論 守護天使の皆と同じ様に
私と話せる事は
家族皆が同じ心の持ち主だと言う事です

世の中には不思議家族が静かに
己の使命をしていると信じたい

御訪問 ありがとうございます
m(_ _)m











Android携帯からの投稿