「両親の通わす心」
昭和四十三年
私の中学校生活の中で、三年生での一年間には不思議と数多くの出来事がありました。
母(絹子)と二人で行った初めての喫茶店。
その喫茶店は、母(絹子)の友人が開店したお店でした。
開店祝いとして一緒に出向いたのですが、私は勿論 母(絹子)も喫茶店に入るのは初めてだったのでとても新鮮だったのを覚えています。
意気揚々とお祝いに伺ったまでは良かったのですが、お店へ入ったものの席に着くにも注文するにも全てが何をどうしたらいいのか分からず、二人揃ってドキドキと緊張していたのが可笑しくてなりませんでした。
あの時の母(絹子)と私、お店を出てからゆっくりと顔を見合わせて笑いました。
『お父さんと一緒に来たら良かったね。』
思わずそう言った母(絹子)でしたが、やはりいつまでも母(絹子)にとって父(清規)は頼りになる存在だったのだと思います。
ある日のこと、母(絹子)は近所の人と連れ立って出掛けました。
両手いっぱいに紙袋を提げて帰って来た母(絹子)に驚くも、その紙袋にはチョコレートやクッキーというお菓子がたくさん見えました。
甘いおやつの山に私も弟(恵造)も目を真ん丸くして何処に行って来たのだろうと気になりましたが父(清規)は驚くことなく知っていました。
『社会見学は楽しかったですか?』
父(清規)の言葉に母(絹子)は嬉しそうに答えました。
「はい、楽しかったですよ。でもね、他の人達は皆さん同じ景品を貰ってましたよ。こんなにいっぱいお菓子が頂けるのにね。」
『そうですか、変ですね。』
笑顔で話す母(絹子)の言葉に父(清規)は終始微笑みながら優しく会話に耳を傾けて聞いていました。
子供ながらにも何となく母(絹子)が出掛けた先がパチンコだと分かりましたが二人の楽しそうな様子に入り込めず、その時は不思議に感じた母(絹子)の行動についてそれ以上聞けずにいました。
不思議というのも、我が家での団欒には当時流行っていたトランプ遊びも"ばば抜き”、そして可愛い子供用のサイコロで“双六(すごろく)”をして遊ぶのが主流でした。
たとえ遊びでも賭け事のような真似事は一切禁止だったのに、やはり今考えても母(絹子)の行動は不可解な行動だったのです。
それから三ヶ月程たった頃、また母(絹子)が遊びに行くと言うので気になった私は父(清規)にどうして許しているのか訊ねることにしました。
「お父さん、お母さんが明日も遊びに行くって言ってたよ。」
『飽きるまで遊ばせてあげるつもりですよ。お菓子をいっぱいに提げたお母さんは本当に嬉しそうに帰って来るでしょ。』
『お父さんは、そんなお母さんの顔を見るのが好きですからね。』
何か納得のいかない答えでしたが、父(清規)は母(絹子)の育って来た環境や歩んできた苦労を理解し、無垢で純心な妻にこれまで経験することの無かった事や知らなかった事をできるだけ体験させてあげているような気がしました。
すると、父(清規)の言葉の通り、母(絹子)はある日からぴたりと遊びに行かなくなりました。
「他の人達はね、景品とお金に引き換えていたのですよ。」
「お母さんも同じように思われたら嫌ですからね。遊ぶのは止めました。」
そう、母(絹子)は私に話してくれました。
経験をして分かる事、そして意見できる事。
きっと母(絹子)にとっては一番楽しかった社会見学、だけどまた母(絹子)も父(清規)の想いを分かっていたのだろうと感じます。
二人の心の絆をそれまでもその時も、そしてそれから幾度も行動や言葉で教えて貰っていたのを思い出します。
また赤蜻蛉が飛ぶ頃、いつも通りマラソンの自主トレに行く私に母(絹子)が言いました。
『まぁちゃん、もうすぐだね。今度が最後のマラソン大会だね。家族みんなで応援してるからね。』
『今日、帰ったらお父さんに足を見て頂きなさい。』
そう言って背中をポンと叩いてくれました。
いつもの何気ない言葉ではありましたが、その時の私には凄く励みになりました。
背中をポンと叩いてくれた時の母(絹子)の想い、そっと感じた手の平の温もりも、今でも思い出す度に安心できるような力さえ感じます。
~つづく~
今 思えば本当に純真で無垢な母でした
そんな、母の冒険がパチンコ遊び
其れも2回で、止めましたからね
其の事を父は、分かっていたが母の初めての
冒険とでも言える行動でしたからね
行く事も父に話し了解を貰い出掛けた事
そして、遊びだと思っていた事が周りの
方々は、遊びでなく別の事で遊んでいた事を
知った母の世間の善と悪が背中どうしである
不可解な事で二度とその遊びはしなかった
母の純真で無垢な心は保たれて居ました
父が母に対する理解と護る優しさの
心の深さは、愛の深さと大きな心
強い絆を分かる事が出来ました。
御訪問
ありがとうございます
m(_ _)m