「お騒がせな娘」

昭和三十二年、世間は少しづつ時代の移り変わりをみせていた。

その中でも子供達には“ロバのパン屋さん”の音色が響いては心躍らせていた。

(ロバが車を引いて売りに周るパン屋。主に蒸しパンを売りに来ていましたが、地方によってはまだ見掛けることがあり、並ぶ商品も数を増やしていますが懐かしい雰囲気や素朴な味が今では子供や大人にも親しまれています。ただし姿はロバからワゴン車などに変わっているようですが今でも“ロバのパン屋さん”と呼ばれています。)

そして農家のお百姓さんは荷車に野菜を積んで売りに来ますが、夏になると砂糖黍(サトウキビ)を1メートル位の長さに切り売りしていました。

私はその荷車を見つけると必ず砂糖黍を1本買って貰い、一日中その甘い砂糖黍をしがん(噛む)では喜んでいました。

その時、母(絹子)が教えてくれました。

『まぁちゃん お砂糖はね、この砂糖黍で作られるんだよ。』




まだまだ知らない事だらけで好奇心旺盛な子供、私だけではなく子供達の誰もが見る物・触る物・作られる物を見つけては「これは何?あれは何?あっちは何?」と聞いたものです。

そんな止まらない質問の嵐にも母(絹子)はいつも微笑みながら分かるように私に話してくれていました。

まだ電化製品も普及してない時代、朝10時ぐらいにやってくる紙芝居屋さんが子供の娯楽でした。

もう一つはラジオ。

夕方17:30からはラジオドラマ“まぼろし探偵”が話題を賑わせていました。

外で遊んでいた子供達も17:00になると蜘蛛の子を散らしたように家に帰って行き、その姿が当たり前でした。

当時、家の近所にある工場や市役所などは17:00になるとサイレンを鳴らしては時間を知らせていたのです。

子供達もそのサイレンが鳴る時間を基準に遊んでいました。

因みに12:00にも鳴っていたので生活には便利でよく出来た世の中でした。




私はわんぱくな弟の恵造より勝るほど探求心が強く、そしてよく両親に心配を掛けました。

ある日、私は外で遊んでいるとロバのパン屋さんを見つけると嬉しくなって着いて行きました。

歩く距離や時間さえ考えずに何処までも行く私に気付いたロバのパン屋さんのオジちゃんは優しく進んできた道を引き返してまで家まで送り届けてくれました。

そして又ある日は、紙芝居のおじちゃんにも着いて行くとオジちゃんの家まで着いて行く始末です。

もともと父(清規)の知り合いだったオジちゃんなので父(清規)が迎えに来てくれましたが、その紙芝居のオジちゃんの家には三~四回は着いて行っていたのです。

初めて紙芝居のオジちゃんの家に着いて行った時に、色々な鳥達がいっぱい飼われているのを知り、その鳥達に逢いたくて付いて行っていたのです。

何度も着いて行く私の理由が分かった両親は私を怒りませんでしたし、紙芝居のオジちゃんも笑っていました。

そしてオジちゃんは私にひと言いってくれました。

『鳥ちゃん達に逢いたい時は、これからはお母さんと一緒に来たら良いからね。』

そう言って何度も困らせた私を優しく許してくれました。




私はその頃 あらゆる音にも興味が深く湧き、電車の音が聴きたくなると電車道まで一人で歩いて行き、危ない線路を石で叩いては耳を近付けて音を聴いて楽しんでいました。

『まぁちゃん!まぁちゃん!』

遠くからは私を呼ぶ母(絹子)の声が聞こえましたが、電車の音とは違う音が聞こえてきたので面白くなった私は耳を線路から離さずに応えました。

「ここですよ。」

私はそうしてまだ音が聞こえるのを待っているとフワァと母(絹子)に抱き上げられたので驚くと同時に電車が走り去って行ったのでした。

その時、母(絹子)は初めて涙を流しながら私を抱きしめながら言いました。

『見つけられて良かった…』

そして何度も、何度もきつく抱きしめました。

暫く母(絹子)は泣きながら強い力で私を抱きしめると、しっかりと私をおぶって家に帰りました。

家から少し歩いた場所にあった線路、なのにあの時 何故私が線路で遊んでいることを母(絹子)が分かったのかが今も不思議でなりません。

次の日、母(絹子)とお散歩の時間に線路がある所に連れて行って貰いました。

そこで母(絹子)は私にこう言いました。

「線路で石を並べて遊ばない事。昨日はね、まぁちゃんの頭が無くなってしまう所だったんだよ。」

そう少し目を潤ませながら私に説明してくれました。

その出来事があってから暫くすると、父(清規)が楽器店から私の体のサイズに合わせた“木琴”を買ってきてくれました。

とても嬉しくて、今でもあの躍る気持ちを思い出します。

色々な音が出る木琴は宝物でした。

あの木琴、そして小さな和太鼓もありましたが今ははどこに行ってしまったのか…。

私が次から次へと両親に心配ばかり掛けていたので、若くして他界した長男(勝介)や長女(良子)の事を父(清規)や母(絹子)はしみじみ思い出しては話す時間をも無かったかも知れないと今では思うのです。

弟(恵造)の恵くんが歩けるようになると、逆に私が恵くんに子守してもらっていたのかも知れません。

そんな懐かしい日々、やはり夕方の17:00になると私は弟(恵造)の手を繋いで帰宅し、ラジオのある部屋に仲良く正座していたのが良きあの頃の思い出です。

~つづく~


思い出せば出す程  私は冒険者であり
困ったちゃんだとね
そんな私を、頭ごなしに怒ること無く
説明をしては、何が興味有るのか
話を聞いては、父が
打楽器を注文して、プレゼントしてくれる
ある日 父に聞いた事が有ります
「プレゼントして貰って嬉しかった
けれど何故 わざわざ注文してくれての」
するとね父の返事は
「音痴にならない為には、打楽器が一番
良いんだよ だからね  専門店で
注文したんだよ」
その時に、いつも父は子供の事を聞いては
専門店で注文する  凝り性な優しい人
両親の仲の良さも感じる思いでした


今日も御訪問  ありがとうございます
m(_ _)m