「母親の鏡」

ある日、外から聞こえる子供達の声。

その声を聞いて赤子であった私は“歩行器から出て外に行きたいよ”と思っていたのです。

すると母(絹子)は、私を歩行器から出して籐で出来た乳母車に乗せ変えてくれました。

私は嬉しくて堪りませんでした。

外へ出ると、乳母車に乗った赤子の私を近所の子達が見つけて寄って来ました。

乳母車を覗き込んで私より少し大きな子供達が嬉しそうに次々と話し掛けてくれたのを母(絹子)は見て『まぁちゃんのこと見てくれるの?』と聞くと子供達は「良いよ!」と言ってくれたので母(絹子)は子供達に私を預け、15分程の子守を頼んで用事を済ませに離れました。

その15分間の出来事です。

母(絹子)の姿が見えなくなると、子供達は仲良く私の子守をしてくれていましたがどうしてか急に男の子達の喧嘩が始まったので女の子達は家に帰ってしまいました。

男の子達は私の乳母車を挟みながら喧嘩は止まりません。(怖かった)しまいには乳母車の中に石が飛び込んできました。



乳母車の中でお座りしていた私は、男の子達の大きな声が怖かったけど何が始まってるのか知りたくて手を上のほうへ掛けて掴まり立ちをしようとした途端、顔に石が当たってしまい私はビックリして大きな声で母(絹子)を呼びました。

顔には温かい何かがが流れはじめ、今まで感じたことの無いジンジンとする痛み、顔から感じるすべての感覚に驚き泣き叫びました。

「タータン(お母さん)、お顔がジンジンするよぉ!タータン!タータン!」と呼び続けました。

すると近所のおばさんが私の泣き声を聞きつけ、走って来て私を抱きかかえ近所の病院に連れて行ってくれました。

私の眉間には、その時の一生傷がいまも薄っすら残っています。

幼い頃は泣くとその傷が膨らみ、その度にこの時の出来事が思い出されました。

母(絹子)は、例え15分間でも子供達に子守りを任せた自分を責めていました。

泣きべそをかいて私の眉間の傷が膨らむのを見る度に『ゴメンネ、ゴメンネ、痛かったね』と摩りながらあやしてくれた母(絹子)を昨日の事のように覚えています。

またその時、喧嘩をして石を投げた子供達を母(絹子)は責める事なく子守の御礼を言い、その中の一人の親が病院に連れて行ってくれた事の御礼をしに手土産を添えて行った事も私は覚えています。



母(絹子)は常に我が子の負に成る事は自分が悪いからと自分を責める母親でした。親の鏡です。

眉間の傷の抜糸も済んだ頃もまだ痛々しい顔だったんでしょうね、外へお散歩に行ったりする事が無くなり、お出掛け場所といえば良子姉さんが入院する病院と喘息治療の為の通院ぐらいでした。

近所の子供達はというと、親御さん達に叱られていたのか あの時以来 ぎくしゃくしている様子だったので、それを見ると父(清規)がハンモックを買って来て私を遊ばせて居ると近所の子供達の表情も変わり遊びに来ました。

子供達は嬉しくてハンモックに釘付けです。

私はといえば今度は揺られ過ぎて気分が悪くなったのだけど子供達はキャッキャッと遊び続けて揺られてる私はそっちのけになっていました。

そう、だからハンモックも一日で父(清規)がどこかにあげてしまったのでした…。

~つづく~


あの時の傷痕は、今はシミの様に
顔に残ってるけれど
ファンデーションで隠しています。
位置はズレましたが
眉間に有った時は、気になりましたね
正直辛い傷痕でした。
泣くと膨らみ傷痕が分かる時は
「何故いつまでも有るの」ってね
自分で自分に問い続けた事も
有りましたが。

私の記憶がいつまでもある事の証です
その時は幾つ時に出来たか?
思い出せる様にね・・・

この頃は、その様に思えます
何故かわかりますか?
歳を重ねるに連れて前世の記憶が
以前以上に分かる事が
あるからね  幸せです



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m(_ _)m