「絹子の心遣いと思い」

十二月、師走も20日頃になると、あちらこちらで大掃除をしている光景が見られます。

畳を新しくする家、畳表を替える家、その頃は天気の良い日にあちらこちらの家々で畳を干していました。

藺草(いぐさ)の香る畳屋も、この時期はとくに忙しく年の瀬の寒い日でも汗だくで畳を交換をする作業をしています。

世話しなく時間が進むなかで、子供達の楽しみは何といっても障子の穴空けです。

障子の張替えがお決まりの大掃除、その日は穴を空けても破いても大人に怒られませんが、その代わりに障子の格子を洗う手伝いが待ってます。

それは今では見られない、昭和の懐かしい師走の光景です。

冷たい風に襟を立て、そんな様子を見ながら絹子は清規に教えて貰った長男の働き先と寮の場所を確かめに行きました。

清規が書いてくれた地図はとても丁寧で、絹子への優しさが見えました。

その地図は、絹子がもし道に迷っても大丈夫なように父が勤める会社も地図にも書いてあり、その周辺も詳しく書いてあったので絹子がどの方向から進んでも辿り着くように事細かく記してあるのでした。

絹子はその清規の優しさが詰まった地図を見て、長男(勝介)をすぐに訪ねるのではなく 此れから勝介の心に少しでも近づく為にどう行動するべきかを自分なりに考え、道を確認し、行き先を迷うことが無いようにどの道を選んだら少しでも近いかなど、行きと帰りの道を変えてみたりして勝介の職場と寮までの道のりを懸命に調べた。そうして時間も計り、絹子らしく自分の足で覚えたのです。

(時間を無駄に使いたくないという時間厳守の母(絹子)だからこその行動だと思います。)

絹子はまた決心していました。そしてその帰り道、絹子は夕飯の食材を買いながら明日からの一日をどのように動き、どのように行動すれば良いか考えました。

(そんな母(絹子)の決心もさることながら、父(清規)は母(絹子)が長女(良子)の世話をしてる事を知ってはいても長男(勝介)の心の扉を開けるために母(絹子)が朝から動きまわるなどとは思ってもいない父(清規)だったので母(絹子)はそれはもう大変だったと言っていた事を思い出しました。)





母(絹子)の気遣いは本当に大変だったと思います。

毎日 朝から家事をこなし病院へ行き、入院する良子の世話をしに行っても洗濯物を届けても、良子は横にそっぽを向いているしまつ。

だけど、そんな事は承知の上で世話を始めたので絹子は気にしないフリをしていたが、そんな絹子に良子は挨拶もお礼の一言もいわない様子が同じ病室の年配者からしたら良子がお行儀の悪い娘と思われるのが絹子にとっても辛く耐え難い事だったので今まで以上に使用人の様なフリをし、周りに違和感を感じられる事が無いように振る舞っていた。

母(絹子)は、そんな良子の世話を一段落終えると勝介が住む寮に行き、お菓子や果物 又は良子と同じ様に祝日や誕生日には散らし寿司を届け、そして日曜日にはお弁当を届けていたそうです。

世間は師走の頃 あと数日で年は明け、お正月を迎えます。

家族で迎える新年の準備に近所のあちらこちらから世話しなく掃除を進める声や子供の遊ぶ声が聞こえます。清規も仕事が休みの時に畳替えをし、絹子は障子の張替えをしていました。

だけど家には“息子”も“娘”も帰っては来ません。

母(絹子)にとっては、この家で迎える初めてのお正月、とても心寂しいと感じていた思います。

しかし絹子は一切それを口に出さず、おせち料理を作ると娘(良子)が入院する病院と息子(勝介)が生活する寮に届け、二人の子供にも家庭で送る温かい正月を思い出して欲しかったのだそうです。

そして迎えた新年、絹子は一日でも早く一緒に笑って過ごせる親子に成れるように願いを込めました。

しかしその願いが届く日がいつになるか分からないという日々の虚しさに いつの間にか絹子を無口にさせていた。そんな気持ちの表れを清規に気付かれないようにと絹子は“編み物をしたり良子の寝間着を縫ったり”などして無口でいても不自然に見えないように心掛けていた。

ある日、久し振りに清規は絹子に娘(良子)の話をしました。

『良子は躰が弱く、正月も病院で外出許可が出ないままなので晴れ着を着せてやる事も出来ないよ。』

清規の言葉に耳を傾けてる絹子だが晴れ着など自身も着た事はない。だが清規の親として娘を不憫がる様子を見ると絹子も“何とかしてあげたい”と思いました。

「今まで晴れ着を着せてあげられる事が無かったとしても、退院した時に着せてあげれば良いじゃないですか、その時の為に着物を作って用意しておきましょうよ。私が知り合いに頼んでみます。」

絹子の言葉に清規も嬉しくなり、二人はそうする事に決めました。

次の日、絹子は早速 時間を作ると仕立て屋に行き注文を伝えました。後日 反物を持って行くだけです。

その晩、絹子は清規に“仕立て屋に行き晴れ着の仕立てを頼んで来た事、あとは反物を持っていけば仕立てができる事”などの話をすると今度二人で反物を選びに行く事を決めました。

それは父(清規)と母(絹子)、我が子を想う親の会話でした。その他愛の無い時間こそが絹子の心に温かい刻音を残しました。

(父(清規)は嬉しかったと思います。男では気付かない細かい事を一日で段取りして来た母(絹子)に感謝していたことでしょう。)

一方の絹子は、娘(良子)の為に着物を仕立てる段取りができて少しでも親として動けた事が嬉しかった。一つでも何かをしてあげられる事が嬉しかったのです。



一月 (睦月)、晴れ着の仕立ては絹子にとって楽しい思い出の一つに成りました。

二月(如月)、たとえ一緒に節分を迎えられなくても煎った大豆に甘い砂糖をまぶした豆菓子を作り、散らし寿司と共に良子と勝介に届けました。

三月(弥生)雛祭り、四月(卯月)清規の誕生日、五月(皐月)端午の節句。

そうして毎月必ず絹子は分け隔て無く、ちらし寿司や巻き寿司を作って勝介と良子に届けました。

良子の様に長い間入院していると、季節の移り変わりも窓の景色を見るだけに慣れてしまい肌から躰で伝わる四季が感じられないけれど、季節野菜などで彩った“お寿司”を味わうだけで硝子窓を通した景色よりはずっと肌で感じられる様になるのではないかと思い、絹子は欠かさず“お寿司”も“惣菜”も一生懸命に届けました。

それと共にベッドの横には季節の花が目に止まる様に飾り、いままで無かった事一つ一つが、良子の心に少しずつ刻まれていきました。

そして勝介も、良子と同様にしてもらっている事に心が開き始めかけて来ていた。

絹子にしてみたら“母親”として当たり前の事、毎月 楽しい思い出作りのように過ごしていた様です。

六月(水無月)、梅雨を凌ぎながら薄着へ衣替えの時季です。

絹子は二人の子供に浴衣を縫い、良子には寝間着の替えに浴衣を二枚縫いました。病弱で入院生活を長く過ごしていても女の子、口には出さなくても新しい浴衣は嬉しかった事と思います。

七月(文月)、夜空に星が流れる七夕。笹に飾った短冊に書かれたのはやはり子供二人の健康だったのでしょう。

八月(葉月)、お盆には“お墓参りとお墓の掃除、お迎え火から始まり送り盆(御供え物を市役所前で集めていた事を覚えてます。)”

夜にはあちらこちらで盆踊りの囃子や太鼓の音が響き渡り、皆 浴衣を着て夏の夜を楽しんでいます。

現在は知りませんが、大きな花火大会もあり、病院の屋上からは美しく夜空に輝く花火を見る事が出来、入院中の良子も気が紛れたことと思います。仲の良い兄妹、きっと母(絹子)が縫った浴衣を着て病院の屋上で花火を見ながら母(絹子)の話しをしていたのかもしれません。

~つづく~



母の自叙伝をブログにアップした時と
同じ様に、今でも
母との語らいの時は、
「そうだったんだ」なんてね
言いながら、真剣に聞いてた私

その時には、もう母の寿命を知る
私は、覚えてる事と一緒に
見守り乍 母の気持ちは、どうだったのか?
聞いていた、気がします。
その時の二人だけの時間が懐かしく
目頭が熱く成ります

いつも  御訪問ありがとうございます 
m(_ _)m