18 夏の終わり

 

 静香にとって、あの中学での嘔吐以来初めて「楽しい」と思えた美術部の夏合宿はあっという間に過ぎた。

 忍や先輩たちと温泉に浸かり、笑い合い、夜は花火をして、そして思う存分スケッチを描き溜めた3日間だった。

 先生はあんなふうに言っていたけど、スケッチブック3冊じゃ全然足りなかった。

 あとは帰って、それらをもとに作品を描き上げるだけ。秋の学園祭に向けて——。

 

 そして・・・・。

 義務として残された教団の活動にも参加しなければならない。

 

 

「あのね・・・。」

と静香は切り出してみた。

 駅前のパンフレット配りから帰ってきた夕方のことだ。夕方といっても日は長い季節だから、もう午後の7時になる。

「秋の学園祭までに、作品を仕上げないといけなくて・・・。だから・・・、その・・・、もう少し頻繁に学校の美術室に行っても、いいかな・・・?」

 

「あら、合宿で描いてきたんじゃないの?」

 母親は夕食を作りながら向こうを向いたままで訊いた。

「あれはスケッチなんだよ。それをもとにして油絵を完成させるのが本格的なやり方なんだって。」

 静香は少しでも「布教活動」から解放されたかった。

 美術部の人たちはもう知っているから、いまさら見られたところでどうということはないのだが、それでもあれは静香にとって苦痛であることに変わりはなかった。

 

「うん。いいわよ。」

 母親はそう言って明るい顔でふり返った。

「え? いいの?」

「その代わり、頼みたいことあるんだけど——。」

 

 その代わり・・・?

 なんだろう、それ・・・?

 

 静香は不安になる。

 

「あのミロク天使の絵ね。」

「玄関の?」

「うん。あれ、教区長さんに見せたらね。集会所に飾りたいから、大きいの描いてくれないか——って。このっくらいの。」

 そう言って母親は、両手の先で15号キャンバスくらいの大きさの四角を空中に描いて見せる。

「しずちゃんの絵が教区長さんに認められたのよぉ? お母さん、嬉しいったら——!」

 母親は本当に嬉しそうに笑った。

 

「あ・・・、で・・・でもっ、今、風景画描き始めちゃってるし・・・。」

 

 冗談じゃない! 今の風景画、ちゃんと描きたいし——!

 静香は、あの宗教用の貼り付けたような微笑でその思いを咄嗟に隠した。

 

「もう1枚描けない? ずっと美術部に行ってていいから。 そうだ! 学園祭に展示してから、集会所に持って行くっての、どう?」

 

 布教活動に出なくていいのは、助かるけど・・・。

 

「うん・・・。わかった・・・。やってみる。」

 

 

 なぜ、そんなふうに答えたのだろう・・・。

 駅前に立たなくていいと思ったから?

 そのくらいで美術部の活動が認めてもらえるなら、悪くない取引だと思ったのか・・・。

 

 静香は美術室で描きかけの下呂の風景と、真っ白な15号キャンバスを眺めながら呆けたような表情で手を止めている。

 

 下呂の風景を描きたい。

 でも・・・、ミロク天使も描かなきゃ・・・。

 

 そう思って真っ白なキャンバスと描きかけの風景画を交互に眺めていると、あれほど色彩にあふれていたはずの下呂の風景がどんどん色褪せてゆく・・・。

 色彩が失われて灰色に近づいてゆく・・・・。

 

 なんなの? これ・・・。

 こんなことしてるから、頭の中に残してきた色彩が霞がかかったみたいにして遠のいていくんだろうか・・・?

 

 2つを比較してちゃダメだ。

 分けて考えないと・・・。

 

 こっちから先にやっつけちゃおうか。ミロク天使から・・・。と静香は思った。こっちは上手く描けてさえいればそれでいいんだから——。

 ちゃっちゃとやっつけて、あの色彩を取り戻さないと・・・。肝心の風景画が描けなくなっちゃう・・・。

 

 静香は風景画を諦めて白いキャンバスの方に向き合うと、鉛筆で当たりをつけ始めた。

 色の着け方も技法も、前のと同じにすればいい。それでそこそこ誤魔化せる程度のものは描けるはず。

 

 

「あれ? 何描いてるの? 風景画の方は? 行き詰まった?」

 遅れて美術室に入ってきた忍が、絵筆で別の絵に色を置き始めている静香に声をかけた。

 

「違うよ。これは、親用・・・。」

 静香が抑揚のない声で答える。

 

「大変だな・・・。萌も・・・。」

 忍にはそれだけしか言えない。どうフォローしていいか分からない。

 この問題ばかりは、忍にはどうすることもできないのだから———。

 

「これさえ描いておけば、夏の間中美術室に通ってても大丈夫みたいだから・・・。」

 

 

 静香は毎日登校してきて、暗くなるまで美術室にいる。

 

 美術室はいつも開けてあったが、於久田先生は準備室で自分の絵を描いている時もあれば、どこへ行くのかいない時もあった。

 朝、静香が美術室に来ると安心したように鍵を静香に預けて、

「帰る時には施錠して、鍵は警備室に返しておいてください。」

とか言って出かけてしまうことがあるのだ。

 

 その日も先生はお昼頃から出かけて、静香は独りで美術室にいた。

 

 ミロク天使は完成に近づいていた。一応・・・・。

 静香は無表情で、背景の色を重ねている。乾きを早くするために、こってりと絵の具を乗せることをせず、テレピン油で薄めた絵の具で表現する方法を取っている。

 全体にモナリザの背景みたいになっていて上手くは描けているのだが、絵自体が力弱い。

 

 力のない絵だ。というのは静香にもわかる。

 ・・・・でも・・・。

 

 これでいい。

 どうせニセモノなんだから・・・。

 

 ・・・・・・・・・

 

 静香の筆が止まった。

 筆の先が小さく震えている。

 

 突然、静香は筆の先を筆洗液の中に突っ込むと、絵の具のチューブを握りつぶすようにしてパレットの上に原色の絵の具を絞り出した。

 カーマイン。 鮮血のような赤だ。

 

 それをペインティングナイフに付けると、ミロク天使の顔の上に、ガッ! と叩きつけるように押し付けて、そのまま平たく横にこすり付けた。

 

 静香は、その激しい破壊行動をキャンバス全体に広げてゆく。

 

 無言だ。

 歯を食いしばり、目は狂気を帯びたように光っている。

 

 

『いちばん初めのカード』はこちらで最初から読めます。

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