最終回です。

 

 

     52 夜明けの雛

 

 静香は歩いている。

 夜の田舎道を1人、歩いている。

 

   *   *   *

 

 扉さんが天ぷらにした山菜をテーブルに並べながら、

「これぁ酒のつまみにも最高なんだよ。ビールならあるぞ?」と言った。

「わたし、まだ19なんで・・・。」

 それを聞いて扉さんが見るからに残念そうな顔をする。

「どうぞ、扉さん、やってください。」

「いや、あんたを駅まで送るからな。暗くなっちまったし。」

「大丈夫です。歩きたいですから。」

 静香が何の屈託もなくそう言う。

「いや、しかし・・・。若い娘さんの夜道は・・・」

「来るものは拒まず、去るものは追わず、なんでしょ?」

 静香はずいぶん打ち解けてきている。

 いや、昼頃とは別人のようになっていると言ってもいい。

 

「そ・・・そうか?」

 扉さんもそう言うと、ちょっと嬉しそうに冷蔵庫にビールを取りに行った。

「美味ぇんだよ、これが!」

 

 扉さんの求めに応じて、静香はスケッチブックをテーブルに広げて見せた。

「きれいだなぁ、おい。」

 扉さんは1枚1枚、食い入るように眺めながらスケッチブックをめくってゆく。

「これが・・・俺の農園・・・。俺の家か・・・?」

 そう感心したように言いながら、あるスケッチのところで手を止めた。

「これぁ俺か?」

 

 扉さんが、作業している絵だ。

 そこに描かれているのは確かにヒトの形はしているが、あたりの風景の一部であるようにも見えた。

 溢れるような芳醇な色彩の中で、それはまるで・・・。

 そう。まるで、その地に棲む1匹の美しい野生の獣(けもの)のようにも見えた。

 

「気に入った!」

 扉さんが、にたあ、といった表現が似合うような笑顔を見せた。

 

「よかったら、もらってください。」

「え? いいのか? 大事な作品なんだろ?」

 そう言いながら、さっきビールを取りに行った時よりもっと嬉しそうな表情を隠せていない。

「はい! ずっと大事にしてもらえたら、そのうち値が出るかもですよ。」

 

 静香はこんな冗談が言える子だっただろうか。

 

   *   *   *

 

 お礼をたくさん言って、静香は扉さんの家を出て山道を下った。

 

 見上げれば、満点の星空。

 

 夜空って、こんなにいっぱい色があったんだ。

 星以外は全て同じ色——なんかじゃない。

 わずかにかかった薄い雲。

 遠くの街の明かりの反射光。

 黒々とした木々の梢付近と、中天あたりの色の違い・・・。

 

 静香は道端の石垣に腰掛けて、夜空を描き始めた。

 月明かりだけで、色を置いてゆく。

 

 昼間見たら、全然違ってたりしてね。

 でも・・・

 今、わたしはこの色を見てる!

 それでいい。

 

 海岸近くまで下りて、なお静香は歩くのをやめない。

 海岸沿いの道を歩きながら、時々堤防の上に座って海を描く。

 凪いだ海。

 ゴツゴツとした岩肌ばかりの海岸。

 その岩肌の上に残された水面に、空の星が映る。

 まったく眠くならない。

 

 静香は歩いている。

 夜の海岸の堤防の上を。

 車1台通らない海岸道路を。

 

 道端のお地蔵さんの脇に、丘に登る小道があった。

 それを登ってみると、海が見渡せた。

 

 わずかに丸い水平線。

 

 夜明け前の海には、遠くに漁り火がいくつか見えた。

 やがてそれはゆっくりと明けゆく空の色に呑み込まれてゆく。

 

 静香はスケッチブックの上に小さなポストカードを1枚乗せ、鉛筆の下描きもせずに絵筆で水彩絵の具を乗せた。

 初めから、どこに何の色を置けばいいのかわかっているように、静香の筆には迷いがない。絵の具が乾くのがもどかしいように、次々に新しい色を置いてゆく。

 

 それは『普通』の人が見たら、目の前の風景とは似ても似つかないと思うような、豊かな色の世界だった。

 それでいて、誰が見ても、それは夜明けの海だとわかるような、そんな何かだった。

 

 静香は瞬く間にポストカードを4枚描き上げた。

 少しずつ時間の違う4枚。

 

 カードの裏面に宛名だけを書く。

 文字のメッセージは何も書かない。

 書く必要もない。

 この色彩の中に、万感のメッセージを込めたのだから。

 

 萌百合雄策様・心美様

(こんな素敵な世界に産み出してくれてありがとう)

 

 阿形忍様

(ずっと寄り添ってくれてありがとう)

 

 三谷歩夢様

(最初に手を引っ張ってくれてありがとう)

 住所が変わってなければ、お母さんかお父さんに届くよね?

 

 於久田良荀先生

(絵の道を教えてくださってありがとう)

 

 

 コツン

 

 コツン

 

 卵の殻を雛が突つく音がする。

 固い殻にヒビが入る。

 

 空はさらに色を増し、やがて繊細な青へと変わろうとする。

 まだ朝陽は見えない。

 

 やがて美術界に小さな旋風を巻き起こす、萌百合静香という色彩の天才の魂が今、新たな世界に生まれ出ようとしていた。

 

 長い長い時をかけて、ようやく殻を充(みた)すまでに育ったその雛が——。

 

 フーセンはもう、どこにもなかった。

 

 

 

          了