皆さんは、忠実という言葉を聞く時に、思い出す聖書の句はどれでしょうか?

ルカによる福音書16:10(口語訳)「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」


ルカ16:10 新世界訳)「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です。」



多くの場合、次の句とあわせて使用されている事が多いです。


ルカによる福音書16:11(口語訳)「神と富とに兼ね仕えることはできない」


ルカ16:10 新世界訳)「あなた方は神と富とに対して奴隷となることはできません」


多くの場合、簡単に上記の句を用いて物質主義 はダメだよ!という話にするのですが、今回はしっかり読んで見ましょう。



16章の前半は、主人のお金をちょろまかしていた家隷がクビになるときに、取引先の負債を減らして自分の再就職先を確保するという、まるでどこかの国の役人が天下り 先を確保するための手段と同じ事を行うというお話です。(そしてこれをイエスは褒めています。)


そして11節には(一部の方にとって)驚くべき言葉が・・・


ルカによる福音書16:11(口語訳)「もしあなたがたが不正の富について忠実てなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。」


ルカ16:10 新世界訳)「あなた方が不義の富に関して忠実であることを示していないなら,だれがあなた方に真実のものを託するでしょうか。」

忠実なのは富に忠実ですか・・・。イエスって実は物質主義者

ルカによる福音書16:11(口語訳)「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。」


ルカ16:10 新世界訳)「不義の富によって自分のために友を作り,そうしたものが尽きたとき,彼らがあなた方を永遠の住みかに迎え入れてくれるようにしなさい。」


金で友達を買収しろ・・・?イエスって実は悪党


イエスの例え話は前後の話と文脈を理解しないと理解できない事が多いですね。

特に心が素直ではない人には、都合よく曲解できるという利点(?)があります。


さて、このお話の鍵はどこにあるのでしょうか?

ルカによる福音書16:11(口語訳)「欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。 そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のまえでは忌みきらわれる。」


ルカ16:10 新世界訳)「金を愛する者であるパリサイ人たちがこれらのすべてのことを聴いていて,彼のことを冷笑しはじめた。 そこで[イエス]は彼らに言われた,「あなた方は人の前で自分を義とする者たちですが,神はあなた方の心を知っておられます。人の間で高大なものは,神から見て嫌悪すべきものだからです。」


ここで、話をまとめてみましょう。

この部分でイエスは、パリサイ人の考え方について述べた部分です。

パリサイ人の事を「光の子」とさえ呼んで、その高潔さと義を認めておられます。

しかし、そんな「光の子」よりも「世の子」を実益があって賢いとして評価しておられます。

富に対して正しい使い方を知っている者が、イエスにとっての評価できる人であるという事なのです。

イエスは物質の富に忠実でない(使い方を知らない)人は、霊的な富にも忠実でない(使い方を知らない)という事を述べているのです。そして「光の子」は「世の子」よりも評価できないと。(「「義人」は評価対象にならないという判断です。このあたりはイエス前と以後での大きな違いの部分ですね。ある人タチに言わせれば旧約と新約では別の神だといわれるぐらい。)


わかりやすく言えば、富(物質的/霊的)を貯金し続けるのをやめて富を使えって事です。何故でしょうか?使えば景気(物質的/霊的)が良くなるからです。

聖書の神は「生きている者の神」ですから。(この点はまた別の時に書きます)


金は貯めるのが目的にとして存在するのではなく生活に役立てるために存在するのであり、聖書の知識も自分の義を実証するためにではなく人々に愛を広げるために存在するのである

イエスの述べる言葉は、全体素直に受け止めれば簡単に理解できます。

全体を見て素直に読んだとき、他の読み方があるのでしょうか?


この句が述べる忠実とは、富に対する(真の)忠実の事であり、富に対する忠実は人は神に忠実と同じである。 これが結論です。


ちなみに、ちょろまかし家隷の話は・・・僕は好きではありません。「そんなのありかぁ!」と思ってしまいます。僕の心の中のパリサイ人が文句を言ってます。(;^_^A


えっもしかして、不忠実?


良い人と一緒にいれば、良い人になるのでしょうか?
悪い人と一緒にいれば、悪い人になるのでしょうか?


に交わればくなる」という言葉は後者の意味を持つ言葉です。


さて、聖書からこの点に関係する句を選ぶとすれば皆さんはどの句を選択しますか?

多くの場合、コリント人への手紙から例証することがあるかも知れません。


コリント第一15:33(口語訳) まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。


コリント第一15:33(新世界訳) 惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣を損なうのです。


さて、この句の悪い交わりとは誰との交わりなのでしょうか?


これは"如何にも悪人"との交わりや、"異教徒の交わり"の事だと考えている方が多いのですが、実際にはどうなのでしょうか?


前後をよく読んでみますと、コリントのクリスチャンの間での「死人の復活」に関する意見の相違に関してこの句が書かれています。そして「死人の復活」がないとする人たちの事を「悪い交わり」としています。


しかし、この句のすごい!('-^*)/ ところは、パウロは彼らのことを「罪を習わし」(15:34)と激しい口調で断罪しているのに(さすが元強烈ユダヤ教徒)、その「罪人」をクリスチャン仲間としていることです。そして神に関する知識を持たないクリスチャンがいることもわかります。(このあたりのパウロはクリスチャンらしいですね)


今日の結論。悪い交わり」とはクリスチャン内の交わりの事です。

では、良い交わりは?

聖書は誰が書いたのでしょうか?

勿論、人間が書いたのですが、書かせたのは神である という認識がユダヤ教徒やキリスト教徒の考えです。

(神直筆は聖書によれば十戒 だけです)

さて、なぜ神が書かせたといえるのでしょうか?その証拠は?

聖書からその根拠を・・・と、よくこの句が用いられます。

テモテへの第2の手紙3:16(口語訳)「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」


テモテ第2 3:16(新世界訳)「聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。」


はっきりと書いていますね。

「聖書は神の霊感により書かれた」 他にどんな読み方があるのでしょうか?


さて、今回の話のポイントは、ここでいう「聖書」はどの本の事か?ということです。

テモテが幼い時から読んだというこの「聖書」、パウロがテモテに書いているこの手紙を含むのでしょうか?

どう考えてもそうではないですね。


ここでパウロが述べているのは、今の言い方で言う旧約(ヘブライ語)聖書です。

新約(ギリシャ語)聖書は含みません。

なぜですか?この時には聖書として認識されていなったからです。(といういより大体この時期には多くの新約(ギリシャ語)聖書の各書は書かれていないし・・・)

新約(ギリシャ語)聖書が聖書として認識されたのは2世紀から3世紀と考えられています。


大体パウロ自身、書いた時点でこのテモテへの手紙が聖書に含まれるなんて考えもしなかったことでしょう。


素直に読めば、誰にでもわかる事です。



では、なぜ聖書全体について述べていると勘違いする人が多いのでしょうか?
それは、聖書が神の霊感を受けていることを何らかの形で証明したいと言う気持ちが、目を曇らせてしまうのしょう。

何を願うかは人の勝手なので、好きにしていただいて全然OKなんですが、聖書に書いていないことを勝手な妄想で解釈するのはあまりよろしくないのでは?(思い込むが激しいのでは?)


勿論、この句は"聖書は人間の本"といっているのではありません
しかし、間違いなく新約(ギリシャ語)聖書が神の霊感を受けて書かれたといっているのではありません


聖書をしく読みましょう。