週末は早めのクリスマスパーティに
お呼ばれしてきました。
友人がとても敬虔なクリスチャンで
私が歌と食べる事が好きなのを知っているので誘ってくれました。
仏教徒でも別に良いらしいです。
参加者はほぼクリスチャンなのですが
欧米に見られるように元々家が
クリスチャン、というよりも
何かきっかけがあってクリスチャンに
なったという人が多い印象

クリスチャンホームで育った友人も
いますが
彼らよりももっと熱が入っている
感じがします。
そして明るい。
不安定さを感じないように
自分を安定させるための安定感。
特定の信仰を持っている人を見ると
信じる対象を持つ人は安心するんだろうな、と思います。
前の大家さんは良く家でチベット仏教のお経聞いてたし
その前の大家さんは
いつもコーランを読んでたし。
私に信仰、宗教は必要なのか

という疑問が湧きます。
今のところは必要ない。
と思っています。
クリスチャンになる前と
なった後の一番大きな違いは何か
質問すると
Peaceとかno emptiness と言う答えが
返ってきます。
でも。
無条件に受け入れてくれる(ように見える)人達や
その集まりの中にいたい、という人もいるんだろうなと思います。
それはそれで一つの担うべき
役割りなのだと思うけど。
なんだかモヤモヤするのは
なぜなんだろう

両親と異なる信仰を選んだ人は
元々その信仰を持つ家庭で
育った人より学び始めるのが
遅いです。
ラオスで会った仏教徒の人達に
違和感がなかったのは
先祖代々の信仰を受け継いでいるから。
お祈りの準備も真心を込めて、
と言うよりも手慣れていて
言わば流れ作業的。
もう体が覚えてると言う感じ。
大人になって新たに信仰を自分の意思で選んだ人は真面目に熱心に学び
空白を埋めようとするし
学んだことを他人に伝えようとする。
信仰に限らず山歩きとかマラソンとか
自分の価値観が変わるきっかけになった素晴らしい出来事を人に伝えたい、という欲求があるのかもしれません。
一抹の不安や疑念を感じながら
それを払拭しようと自分に言い聞かせて醸造された安定感が苦手なんだと
気がつきました。
そういう気持ちは相手に伝わるからね。
フラットな気持ちでそこにいられないなら
歌いたい
とか食べたい
とかそんな気持ちで行ったらいけんのよ
と反省しました。
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