もちろん「宇宙考証」以外の部分でもガンダムは奇跡と言うにふさわしいレベルを示している。

 まず人物描写の秀逸さ。

 ガンダムに何人の登場人物があるかは知らないが、その誰もが生き生きしている。

 一つの歴史を持った人物たり得ているのである。

 ガンダム初回放映当時、私は、宇宙描写のすばらしさとともに、その人物描写のすばらしさに衝撃を受けたのだった。

 当時私は、スペースコロニーを舞台にした宇宙小説を書こうと、その設定を練っていた最中だった。

 その自分にとってガンダムがどれほど衝撃的だったかは、言葉に出来ない。

 宇宙描写のすごさでも負けていたが、人物描写に至っては、もはや敗北感すら無いほど圧倒的だった。

 私はペンを折った。

 折るつもりはなかったが、ガンダムほどの作品をどうしても書けないため折らざるを得なかった。

 もうひとつ、これほどすごいガンダムという作品を、SF界が全く無視したのが信じられなかった。

 当時、私はSFファンクラブに属するSFファンのはしくれで、SFというものにまだ夢を持っていた。

 ガンダム以前にスペースコロニー構想というものが持つ革新的な意義をSF界で理解したのはアイザック・アシモフぐらいだった。

 ただ、アシモフもSFにスペースコロニー構想を取り入れるのはうまくいっていなかった。

 そういう状況を何とかしたかった。

 私が茨城敬一名義で「SFイズム誌」に載せた文章は、そういう焦りの産物であったのだ。

 しかし、その結果SF界はスペースコロニーや、ましてやガンダムの真価を認めるどころか、愚にもつかぬ身内びいき、そして身内以外に対しては露骨な敵意を示すという、宇宙をどうこう論じる以前の、人として最低と思われるレベルにまで落ちていることを証明してしまった。

 私はSF界を嫌悪するようになり、SFから離れていった。

 それから約30年の歳月が流れ、私も自分の人生の終わりを自覚しないではいられない年になった。

 今こそ、ガンダムという作品について語るべきなのかもしれない。

 たとえ読む人がほとんどいないとしても。