以前も書いたが、原発は一定の出力でしか稼働できない欠陥発電法なのである。
その致命的な欠陥を、原発推進論者は電力を「安定供給」しているのだと言いくるめているわけである。
電力消費というものは時間や時期によって全然違うのは常識である。
ところが、原発は朝も昼も夜も、そして春も夏も秋も冬も全く同じ調子で発電を続けるのである。
需要のない時もあるときも変わらず一定のペースで電気を作り続けるわけである。
需要のない時は、作った電力は無駄に捨てられる。
今までその欠陥が目だたなかったのは、火力発電や水力発電がその需要と供給のギャップを埋めていたからである。
しかし、それでも補いきれないので、揚水型発電所を作って、原発の夜間電力を消費しようとしていたわけだ。
このような「裏技」を使って良いなら、太陽光発電も、夜間や雨の日に備えて揚水発電所(あるいは蓄電所)を作っておけば、全て解決である。
もちろんそのコストは原発に習って、太陽光発電のコストとする必要はない。
現在のところ、原子力のパーセンテージ自体が低いから、この欠陥はそうは目だたない。
しかし、原発推進論者が言うように、火力発電の代替に原子力発電所を多数作っていけば、この欠陥ははっきりしてくる。
私が「馬鹿の戯言」で批判したのは、あたかも原発が作る電力が100%有効利用されているかのように思っている書き手の馬鹿さ加減、あるいは嘘つきさ加減に怒りを感じたからだ。
この書き手によれば、需要のない時に原発が垂れ流している無駄電力も、役に立っている電力と考えているわけだ。
馬鹿の極みである。
それに対して太陽光発電はどうか?
夜間は発電しないから夜間の無駄電力問題は生じない。
最大の消費時期である夏場に発電能力のピークを迎えることも良い。
太陽光発電は、大まかに電力需要に従って供給が動くようになっているのである。
原発の一定垂れ流しよりも、こちらのほうがよほど「安定供給」という言葉にふさわしいのではないだろうか。
我々は賢くならねばならない。
そうでなければ、このような「戯言」に騙され、人類一万年の計を間違えることになりかねない。
その致命的な欠陥を、原発推進論者は電力を「安定供給」しているのだと言いくるめているわけである。
電力消費というものは時間や時期によって全然違うのは常識である。
ところが、原発は朝も昼も夜も、そして春も夏も秋も冬も全く同じ調子で発電を続けるのである。
需要のない時もあるときも変わらず一定のペースで電気を作り続けるわけである。
需要のない時は、作った電力は無駄に捨てられる。
今までその欠陥が目だたなかったのは、火力発電や水力発電がその需要と供給のギャップを埋めていたからである。
しかし、それでも補いきれないので、揚水型発電所を作って、原発の夜間電力を消費しようとしていたわけだ。
このような「裏技」を使って良いなら、太陽光発電も、夜間や雨の日に備えて揚水発電所(あるいは蓄電所)を作っておけば、全て解決である。
もちろんそのコストは原発に習って、太陽光発電のコストとする必要はない。
現在のところ、原子力のパーセンテージ自体が低いから、この欠陥はそうは目だたない。
しかし、原発推進論者が言うように、火力発電の代替に原子力発電所を多数作っていけば、この欠陥ははっきりしてくる。
私が「馬鹿の戯言」で批判したのは、あたかも原発が作る電力が100%有効利用されているかのように思っている書き手の馬鹿さ加減、あるいは嘘つきさ加減に怒りを感じたからだ。
この書き手によれば、需要のない時に原発が垂れ流している無駄電力も、役に立っている電力と考えているわけだ。
馬鹿の極みである。
それに対して太陽光発電はどうか?
夜間は発電しないから夜間の無駄電力問題は生じない。
最大の消費時期である夏場に発電能力のピークを迎えることも良い。
太陽光発電は、大まかに電力需要に従って供給が動くようになっているのである。
原発の一定垂れ流しよりも、こちらのほうがよほど「安定供給」という言葉にふさわしいのではないだろうか。
我々は賢くならねばならない。
そうでなければ、このような「戯言」に騙され、人類一万年の計を間違えることになりかねない。