ヤマトとヤマタイ。よく似た発音ですね。

これが出雲(イズモ)ぐらい違えば関係ないとも思えますが、ここまで近ければ両者には深いつながりがあると考えるのが妥当でしょう。

 近畿説は卑弥呼の時代にも邪馬台国は近畿にあり、それがそのまま大和になったという考えです。

 九州説は、元々は九州にあった邪馬台国が近畿に移ったという東遷説が主流のようです。

 しかし私は、言わば遷都説ですね。

 東遷説には、国自体が九州から近畿地方に移ったように取れますが、そうではなく同じ国の中で首都が九州から近畿地方に移ったという考えです。

 近畿地方というのは銅鐸文化圏でした。それがある時期から消滅してしまいます。
 これは邪馬台国による近畿地方の征服と考えていいでしょう。
 大和の地は、邪馬台国の植民地だったわけです。

 その植民地に卑弥呼の血族の神武が派遣された。
 彼はそれまでは宮崎の一地方にいて、王家とはいえ余り重視されてはいなかったのでしょう。
 地元の独立派の妨害があったものの、神武は制圧に成功した。
 そして地名をヤマタイ国にちなんでヤマトとした。

 大和は次第に発展し、国力は増大していった。
 そのうち、九州の王家が途絶え、傍系の大和の王が倭国全域を治めるようになった。

 その際に、倭国の首都は、太宰府から大和の地へと遷都になった。
 官僚や常備軍、その家族も等も、それと一緒に大和へと移住した。
 万単位の大移動だったでしょう。

 こう考えるのが一番無理が無いように思います。
 少なくとも、何も無いところに国ごと移動したと考えるよりは。

 つまり、邪馬台国は卑弥呼の代までは九州・朝鮮半島南部を領土としていたが、卑弥呼の後の世代にそれが拡大し、近畿地方をも飲み込んでしまったという考えですね。

 そういう意味では邪馬台国近畿説も間違いではないのかも知れません。
 卑弥呼の宮殿近畿説は間違いですが。

 古事記に出てくる地名は、九州の地名が圧倒的に多いのだそうです。
 それも九州から大和朝廷が渡ってきた証拠なのでしょうね。

 言うまでもなく、神武東征は古事記や日本書紀に書いてあることです。

 しかしながら、邪馬台国近畿説論者は、それを認めない。

 彼らはあろうことか、そういう資料を重視するのは、皇国史観に汚染されている考えだと言います。

 大和朝廷が、その発祥から近畿にあったと思う方がよほど「皇国史観」だと思いますけれどねえ。近畿中心史観ともいいますね。

 最近も卑弥呼の宮殿が発見されたとマスコミによって報道されました。

 それが祭祀施設だとしても卑弥呼のものだという証拠など何もない(壱与や、その後の祭祀者のものかもしれない)のに無理矢理なこじつけですね、例によって。