1、旅の始まり

 その疑問が自分の心に生じたのはいつのころだったろうか。

 小学生のころにはすでに芽生えていたようにも思う。

 はっきり記憶しているのは、中学のとき。

 それは「何で生きているんだろ?」というものだったと思う。

 あるいは「何かしなくてはいけないことがあるような気がする」だったかもしれない。

 まあ中学のころは「生きるために生きるんだよ」というような判ったような判らないような回答で済ませられたように思う。

 にっちにもさっちにもいかなくなったのは、高校のとき。押さえつけても押さえつけても湧き上がってくるその疑問のために、私の高校時代の成績は悲惨になった。

 後で考えると、ここいらへんはトルストイの「懺悔」で語られた、いわゆる「トルストイの危機」初期段階とほとんど同一ですね。
 文豪としての名声も、大地主としての富も、何もかも無価値に感じてしまったトルストイ40代のことですね。

 ある段階で覚悟を決めた。この疑問に答えなければ、私に先は無い。

 自分がしなければならないこととは何だ?

 大学受験なんていうのは、真っ先に否定された。

 その先へ先へと思考は進んでいった。いや、進まざるを得なかった。

 この「答え」に対する渇望。あれほどの渇望を感じたことは、その後、無い。

 様々な可能性を考えては反論があがり、否定された。

 一時的に、神にすがった。神とはすべての価値の源泉であると考えた。

 トルストイも神にすがり、彼はそこで思考をやめた。やめる事ができた。
 それは彼が生来のキリスト教徒だからなのだろうか。

 私は止められなかった。では、神は何のために存在するのか?その答えを求めた。


2、旅の終わり

 また様々な可能性を考え、しかし否定せざるを得なかった。

 結局・・・・・、答えは無いという答えを出してしまった。

 数学に、答えは無いという答えを証明してしまう問題があるがごとくに、である。

 キルケゴールや、ニーチェが到達したのはここいらへんの認識だったのだろうと後で思った。

 答えを求めて、真逆のものを得てしまったのだ。

 死にたいと思ったが、死ねなかった。

 死んでもあの世とやらがあって、自分の存在を消すことができないことを恐れたのである。

 私は、白い闇に漂っていた。やってよいこともやって悪いことも無ければ何もできない。

 しかし、腹がすけば何か食べたくなる。食べたくなれば食べる。本能である。

 楽しいことをしたくなる。それはやっていけないことではない。やってよいことでもないが。

 そのときに、はっと気づいた。

 このときの感動は、今でも昨日のことのように思い出せる。

 一瞬で闇が消え、光に包まれたような感覚。すべてがクリアに見えた。

 「悟り」とはこういうものなのだろうと確信した。

 色即是空:すべては無意味である
 空即是色:無意味はすなわち有意味である

 仏教の教えとは、こういうことだったのかと思った。

 しかし、こういえば、おそらく大半の人間は、「当たり前のことじゃない」と言うだろう。結局、宇宙を一周して元のところに戻ってきただけなのだから。だから気恥ずかしいのだが、しかし、一周したということは貴重なことだとも思う。


3、再び旅へ

 その後、私は自分がやりたいことを探した。やらなければならないことではなく、やりたいことを。
 しかし、見つからなかった。あの、意味を見つけたいと願ったこと以上に、願うものなど無かったのだ。(正確に言うと一つあるが)
 私の「欲望」は、あれで使い果たされたのかもしれない。

 私は自然と、この問題に考察をめぐらしているものを探すようになっていた。

 哲学では、実存主義哲学というのが、それにあたると思った。

 仏教は最高・最強の実存主義哲学だと思った。2500年も前に、到達されてしまっているわけだ。

 他にも、小説やマンガなどでこの問題を扱っているものをいろいろ見つけた。

 小説は実存主義小説というのがあった。サルトルやカミュ、カフカなど。

 マンガはなんと言っても岡田史子。彼女のマンガはこの思索の教科書みたいだった。

 清原なつのや竹宮恵子、樹村みのりにも感じた。

 そして手塚治虫。マンガの神様は、この分野でも優れていた。

 そして音楽。浜崎あゆみはその最右翼である。

 こういうものを、初期の段階で読んでいたら、あそこまで苦しい想いはしなかったかもしれないと思う。

 しかし、一方で、それでは判った気になるだけで本当には判らなかったのではないかとも思う。

 自分で考え出さねば、本当には身につかないように思う。

 これらの人々は世評の高い人々である。その作品ももちろん評価は高い。
 しかし・・・・・、どのくらい理解できた上での高評価なのかという点で不安を感じる。
 わからないのに世評は高い、そういうことはありえるのだろうか。謎である。

 ただ、判る人は%としては多くないものの、それでも少なからざる数であるということは確かである。最後まで到達した人は多くは無いにしても。

 繰り返し繰り返し、考え続けたのだろう、人間というものは。