邪馬台国はどこにあったと思うかを述べてみましょう。あくまで現時点における仮説ですが。

 以前述べたように、邪馬台国自体は北部九州に大きな勢力を張る大国であったと思っています。

 それは朝鮮半島の国々の描写から、当然導き出される考えであると思います。朝鮮には8万戸ある扶余から数千戸の小国まで幅広くあります。
 7万戸ある邪馬台国が8万戸の扶余と同じぐらいの面積を持っていると考えるのが当然でしょう。

 従って、邪馬台国の位置は?という問いは、事実上邪馬台国の首都はどこか、すなわち女王の宮殿はどこにあったかを問うに他なりません。

 多くの邪馬台国論者には、そもそもこの認識がありません。それでは惑うばかりでしょう。

 邪馬台国に至る途中の国々は、まず対馬国、一支(壱岐)国、末盧国(松浦)、伊都国(糸島)、奴国(福岡市)、不弥国の6国は人口や、長官の名前など詳しく書いています。

 ここまでは、魏使が直接行って経験したことでしょう。

 これらの国は、伊都国を除いて王がおらず、長官・副官によって統治されています。そういう意味で、国というよりも州に近いものかもしれません。

 おそらく、行く先々で長官等の歓待を受けたと思われます。

 近畿説だと、この後の瀬戸内海や、途中の国々について何も書いていないとなり、それまでの詳しい描写に比べて極めて不自然ですね。

 さて、不弥国の次に投馬国の記述があり、そこまで水路で20日かかるとあります。

 日数というのは変ですね。邪馬台国までは総距離が示してあるのですから、日数で示されなければならない理由はありません。私は投馬国までの行程は、邪馬台国までの行程とは無関係と考えます。そう考えるのが合理的ですね。

 投馬国に行ったのは、2回目以後の「倭」行きのはずです。一回目は、卑弥呼に謁見して親魏倭王の金印を渡す。それが目的ですから、卑弥呼の宮殿より遠くに行ったはずがありません。

 そうして投馬国の記述を外すと、邪馬台国は不弥国の南にあることになります。

 さて、陸行30日水行10日の記述ですが、これも投馬国と同じ理由で、総距離の一部に日数を入れる必要はありません。それに仮にそうだとしたら、たかだか100キロ程度の距離に40日もかかることになり、不自然です。これは、やはり帯方郡からの所要日数を書いていると解釈すべきでしょう。

 不弥国=宇美町であるなら、宇美町の南にあるのは、すなわち大宰府です。

 女王の宮殿は、今の太宰府市のあたりにあったと考えてよいでしょう。

 大宰府というのは、玄界灘沿岸と、有明海沿岸(筑紫平野)を結ぶ地峡になっています。ここ以外は山で阻まれます。

 また、この時代の交通手段は川(船)ですが、大宰府というのは、御笠川を使えば北の博多湾に、宝満川を使えば南の筑後川から有明海に至ることができる、まさに交通の要所です。

 また二方が山であるため、防衛上も有利です。

 後に遠の朝廷と呼ばれ、九州、そして対大陸の拠点が置かれた大宰府の地勢的な優位性は、邪馬台国の時代も変わらないはずです。
 ここには、水城という巨大な防壁がありますが、案外これは、邪馬台国時代のものかもしれませんね。

 では何故邪馬台国の遺跡が発掘されないか?

 とうに発掘されているのに、後の大宰府時代のものと錯覚されているのではないか。
 また、大宰府時代の遺跡の下に眠っているのかもしれません。

 発掘に力を入れれば、出てくるかもしれません。ロマンですね。