邪馬台国論者には、いわゆる「倭人伝」の部分だけ読んで論を展開する人が少なくないように思えます。(下手をすると倭人伝すら読んでなかったりするが)

 しかし、倭人伝以外にも三国志には倭について書かれた部分が少なくないですし、それでなくても、言葉の使い方などで他の部分にも参考になる部分は少なくないです。

 私は三国志から邪馬台国に入ったので、三国志全体から見る目を最初から持っていました。そこに違いがあるのでしょう。

 そこでおもうことですが、一般の邪馬台国論を読むと、邪馬台国を現代の市町村レベルの小さなモノと思い込んで論を展開している人が多いように思えます。

 しかしその根拠は何もありません。

 私が邪馬台国(女王宮殿)と書いたのは、女王の宮殿がある場所と邪馬台国は別物だということですね。

 ここで「倭人伝」以外も読んでいるかどうかの差が出ます。

 東夷伝に出てくる国の中で、最大の大国は扶余であり、その戸数は八万戸であり国土は二千里ほどであると、書かれています。またその中には四つの国があるとも。

 そして邪馬台国は七万戸と書かれています。それならば扶余と邪馬台国は同じぐらいの規模であり、当然面積も同じぐらいと考えて良いでしょう。二千里四方と考えると面積は二万平方kmぐらいとなります。

 まあ、北方の扶余と南方の倭では単位面積あたりに養える人口は倭の方が多いと思いますが。それでも北部九州一帯を支配するような大きな国であったと考えるべきでしょう。少なくとも県単位であったはずです。

 そういう意味で、北部九州に散在する、「こここそが邪馬台国」は、あっているということになりますね。