僕は、趣味でカメラを持ち歩く習慣がある。ただの散歩でも、出先の雑用でも、カメラはいつも肌身離さずついてくる。
ある日のことだった。週末の午後、買い物を済ませた帰りに、近所の公園に立ち寄った。子供たちの元気な声が響いていた。
ベンチで休憩しながら、ぼんやりとカメラのファインダーを覗いていた。すると、不思議な光景が目に飛び込んできた。遊具の前で、一人の女の子が立っている。柔らかな日差しが、まるで天使の輪のようにその背中を照らしていた。
直感的に、シャッターを切った。写し撮った瞬間、なんとも言えない奇跡的な美しさを感じたのだ。
帰宅して現像したその一枚は、僕の心を捉えた。構図、色彩、光と影の表情。決して偶然ではないはずの、奇跡の一枚と呼ぶにふさわしい出来映えだった。
そこには、儚くも清らかな子供の姿があった。日常の中に隠された、愛おしくも切ない何かがあった。自分でも説明のつかない、ただただ心を震わせる魅力に満ちていた。
翌日から、公園で遊ぶ子供たちを撮影するようになった。あの一枚で刺激を受けた心を、カメラに投影し続けたのだ。
撮影を重ねるうちに、普段は見過ごしてしまう子供たちの表情の奥行きに気づくようになった。控えめな恥ずかしがり屋さ、ちょっと怖がりだけど勇気を持つ強さ、些細なことに夢中になれる純真さ。
そして一方で、大人たちには失われてしまった、子供ならではの輝きがある。すべてを全身全霊で楽しむ姿勢、周りの物事に対する好奇心の溢れる眼差し。社会に染まる前の、何者にも阻まれない自由な心だ。
撮り溜めた数多の写真は、それぞれの一瞬にある宝物の在り処を教えてくれた。思わず「かわいい」と溜息が出る瞬間だってあれば、無垢な笑顔に「幸せだなぁ」と胸を撫で下ろす瞬間もあった。
そして、驚くべきことにその一枚一枚から僕は、自らの子供時代を重ね合わせて懐かしさを感じるようになった。当時の自分を、鮮明に思い出せたのだ。経年で削られた記憶の欠片を、写真が補って再構築してくれたのかもしれない。
公園で出会った奇跡の一枚がきっかけで、僕はカメラを通して、かけがえのない時間と宝物を手にすることができた。魂を揺さぶられる体験だった。
子供たちの無垢で純粋な表情を前に、一瞬で大人になってしまった心に、少しずつ子供の頃の自分を取り戻せる気がしている。写真一枚から広がった世界は僕にとって、かけがえのない瞬間の連続なのだ。