教室に突然響いた自分以外の声に驚いて机からずり落ちる。
さっきまで誰もいなかったはず。
ぶつけたお尻を撫でていると、白く長い指が伸びてきて静かに本が奪われた。
自然と目がその手を追うと制服の黒いズボンが見えて、顔を上げる。
そこに居たのが知った顔で少しほっとした。
だって夏だし、スタンドの可能性も捨て切れなかったし。
…いや、もしもオバケの類が本当に存在して、私にも見えるものなら少し嬉しくもあるけれど。
「…それ、君の本?」
「図書室の本ですよ。把握してないんですね」
国語教師なのに、と付け加えて薄く笑う若者は、補習で使っているこの教室3-Cの生徒。
私が3-Cの国語を担当していることを除いても、彼のことは知っている。
この学校にいて彼を知らない者はきっといない。
目の前で本をぱらぱらと捲る彼は、床に座り込む私に手を貸すつもりはないのだろう。
教え子に手を貸して貰うのもばつが悪いけど、これはこれでなんだか釈然としない。
とりあえず立ち上がって何食わぬ顔で腕を組む。もちろん、先刻の失態はなかった体で。
「君は補習ないよね。学校に何か用事?」
「この本を取りに来ただけです」
「ああ、ここ君の席だったか。受験組なのにのんびりしてて…平気だよね。君は苦手な教科なんてなさそうだし」
彼、石神秀樹はどうしてこんな平凡な高校に通っているのか分からないくらい頭脳明晰、成績優秀で、細身な見かけによらず運動神経も抜群、おまけに素行も良いとくる、何かの学園モノ漫画にでも出てきそうな完璧すぎる優等生。
そんな彼が目指すのは世界最高峰と称される海外の大学だ。
担任でもない、国語の授業でしか会うことのない私はその程度しか彼のことを知らないけれど、彼ならどの大学でも軽々受かるだろうと楽観視してしまうくらい、欠けているものがないという印象だった。
返事の代わりにふっと息を吐く気配がして、彼に視線を向ける。
「国語は苦手ですよ。先生の補習、受けたいくらいです」
指先で眼鏡をくいっと直して、口端を上げながら態度とは裏腹な事を口にする。
「私のテストで満点しかとったことないのに?むしろ私が君に教えて欲しいくらいだわ」
何だか見下されているような、そんな気がして自然と声が低くなってしまった。
あーあ、子供相手にムキになって、バカらしい。
これだから夏は嫌だ。普段なら気にも留めないのに、暑さのせいでちょっとしたことでもイライラしてしまう。
「先生の授業の賜物です」
その上お世辞まで言わせてしまった。ますます虚しくなって、深いため息が出る。
「それはそれは、どうもありがとう。…それじゃあ、気をつけて帰りなさい」
形ばかりの礼を言って会話を切り上げ、彼の横をすり抜ける。けれど、
「…僕は好きですよ、先生の授業」
思いがけない言葉に立ち止まってしまった私を追い越して、教室を出て行く彼の後姿をぼんやりと見送る。
本当に、いつからここに居たんだか。
私の授業なんて君には物足りないものだろうに、よく言うよ。
嫌味の一つでも言ってやろうと思っても、口から言葉は出てこなかった。
教員になった今でもまだ、出来ていないことも改善しなければいけないことも山積みで。
けれど生徒にとって"教師"は"教師"であって、そこに駆け出しもベテランもない。
初めて教壇に立った瞬間から、私はただの"先生"だ。
毎日の仕事を必死にこなして、頼れる大人であろうと必死に振舞って。
『あの先生の授業って分かりにくいし眠くなんだよねー』
そして自分の無力さを、改めて痛感する。
そんな日々を飽きもせずに繰り返して数年。
過ぎてゆく時間は子供も大人も変わらないのに、あっという間だといわれる高校の3年間。
私は生徒たちと同じように、忙しなく過ごしている。
落ち着ける時間が欲しいなんて一度も思ったことがない。むしろ忙しくあることを望んでいた。
暇がなければ何も考えないで済むし、ふと振り返った時、全てが過去の思い出としてそこにあるのではないかと期待して。
『佐藤先生の方が面白いしまだ良かったよね』
だけどまだ、立ち止まると私の時間は止まってしまう。
忙しさの中に隠していた感情が一瞬であの頃に連れ戻し、あの人で塗り潰されて、前へ進めなくしてしまう。
あの頃のように、泣き虫だった自分が顔を出して叫んでしまう。
先生になりたかった訳じゃない。
教壇に立ちたかったのは私じゃない、と。
過去が思い出に変わるのは、いつ、どんなタイミングなんだろう。
私が目指すその先にあるのだろうか。
私の目標、あの人の夢だった、"良き先生"になれたら、その答えに辿り着けるのだろうか。
*** to be continued...