小説や映画の中に美味しそうな料理が出てくると、僕が食い意地のはった食いしん坊だからなのかも知れないが、いつも無性に食べたくなる。
伊達邦彦が朝食に食べるソーセージのサンドイッチや、『テロリストのパラソル』で供されるカレー味のホットドッグくらいなら作れるだろうが、『ゴッド・ファーザー』のカンノーリや『ツインピークス』のチェリーパイは、食べたくても売っている所も見つからず、歯痒い思いをした事がある。
他にも、サヴァランの『美味礼讃』や、自身も料理をなさる檀一雄や名作『夫婦善哉』など、印象的な食べ物が出てくる作品は豊富にある。

その中でも、開高健の『最後の晩餐』は、食べ物を扱った作品では最高傑作だと僕は思っている。
とにかく味覚描写が尋常ではない。
本人が「言葉に出来ないと絶対に書くなかれ」と言うだけあって、ありとあらゆる言葉を総動員して、何とも軽妙で〝味″のある表現をされている。

テーマも最底辺の食事から芭蕉や007の食生活に王様の食事と幅広くフォローされているが、その中に[一匹のサケ]という章がある。

「味覚は一瞬のうちに至境に達し、それを展開するが、しばしば一生つきまとって忘れられない記憶ともなる。」という語り口で始まり、幼少期に食べたオニギリやメザシを「手術後の一杯の水」と例え「超越的な天啓」であるとし、「母親の手作りの味は、どんな気難しい抽象家や厭世家もこれにはとろけてしまう」と締めている。
こんなに美しく真理を語る人とは想像し難い風貌ではあるが、これには「参りました」としか言いようがないし、オニギリとメザシが愛おしくなる。
また、どの章にも登場する蘊蓄や挿話も実に興味深いが、同時に読者の知性が試されているとも取れる。
中でもソルジェニツィンの氷河の話は大変面白いが「はあぁ、そうなんですね」とか「へぇー」で終わってしまうくらいの迫力があるが、決して置いてけぼりにはさせない所が開高健の筆力なのだと考える。

この本は1975年に単行本として刊行されたものなので、少々乱暴な表現もあるのは確かだ。
しかし、人が生きていく上での重要な要素の一つは「全てを知りたい」という純粋な好奇心なのかなぁ、又は、こうゆう事であって欲しいなぁと、この本を読むと、必ずと言っていいほど考えてしまいます。