1月23日(火)午後、広瀬市民センターセミナー室において、増補改訂版「愛子宿の肝入検断」をテーマとする学習会がありました。
今回の増補改訂版は、「宮城町誌」に収録の「安永風土記」「大倉村青下山渡世山落居留」「筒粥記」「暦面裡書」「天保以後年代記」「小松家に残る金子借用文」「墓地の法名碑」「広瀬村誌」などから確認できた肝入や検断の氏名、その就任時期を補充して仕上げられた大変貴重な現時点の苦心作で、前回(平成29年12月)の発表よりも、格段に充実した内容になっていました。
当日の講師は、本会会長の瀧原廣一氏。卓越した郷土史研究意欲と熱意に裏打ちされた豊富な知識と経験を基に作成された
豊富な知識と経験を基に作成された57ページ(巻末資料含む)の講義資料を用いて講義が進みました。
講義は、資料の表紙に出ている昭和30年初春とされる「愛子駅前交差点」の写真に写っていない「火の見櫓と半鐘」のことから始まっています。
以下は、当日の講義と瀧原氏作成の資料からの抜粋です。
火の見櫓の半鐘
紙面の関係で詳細を紹介できませんが、この火の見櫓と半鐘は、現在の愛子駅前交差点の東方南側に広瀬農協支所のガソリンスタンドがあった頃のことで、その東端に諏訪神社に通ずる塩柄街道の北入口があり、この付近に火の見櫓が立っていて、この櫓に半鐘が取り付けられていました。この半鐘は現在、大門寺で保管されていますが、現地にあった昭和25年頃に、通りすがりに車中から米兵が戯れに鉄砲で射貫いたことにより今でも貫通穴が残っています。この穴により鋳造年が読取りにくかったようですが、文久元年(1861)であることが判明したほか、半鐘の寄進者として当時の肝入検断名の庄子今朝蔵氏などの名や鐘銘も読み取れたということです。
この肝入検断の庄子今朝蔵氏の存在、つまり「小松家だけが愛子村の肝入検断ではなかった」ということが、この調査研究に取組むきっかけになったようです。
上下愛子村の肝入検断
宮城町誌史料編改訂版のP46ページから49まで、同町誌編纂委員長を務めた関庸憲氏調査の宮城地区内7カ村の肝入検断の名や就任時期が屋敷名ごとに掲載されています。この調査結果をベースに、とりわけ上下愛子村分について、誤りや抜け落ちているものがないかどうかを詳細に調べ上げたところに、瀧原氏の今回の研究の意義が特筆されます。
氏が明らかにしたのは年代順に次のとおりです。
初代 年月不詳 小松信濃
2代 慶長~寛永 小松藤内重敦
寛永 佐藤次郎左衛門
3代 正保~明暦 小松次郎左衛門
万治~寛文 不明
4代 延宝元年~天和3年 小松次郎右衛門
5代 貞享元年~元禄9年 小松平内重雄
6代 元禄10年~宝永元年 小松三六重次
7代 宝永2年~同7年 小松孫八郎重明
(正徳元年~同5年) 不明
8代 享保元年~同15年8月 小松弥惣左衛門
郷六村肝入兼務
享保19年(3年間不明)
~延享元年10月
9代 延享元年~安永3年 小松藤内重之
?代 安永4年~寛政2年 不明
10代 寛政3年~ 庄司庄右衛門
小松藤兵衛重邦(仮検断)
?代 享和~文化10年 不明 ※庄司久三郎?
11代 文化11年~天保7年 庄司多蔵
12代 天保7年~同12年 小松藤兵衛重喜
13代 天保13年~嘉永4年 石垣彦左衛門
14代 嘉永4年~万延元年 庄司伝四郎
(安政6年)
15代 文久元年~慶応3年 庄司今朝蔵
(注)ゴシック太字の分が関庸憲氏調査分と異なります。
大肝入を務めた岩松善蔵氏
今回の講義では、大肝入を務めた作並村の岩松善蔵氏のことが取上げられました。
大肝入は、後の宮城郡長にも並び称される役職で、仙台藩では各代官管轄下の村方の最高の役職であることから、主に由緒ある家柄の世襲職でしたが、宮城郡国分山根通り、陸方、浜方のうち、国分山根通りの大肝入に作並村の岩松善蔵が任じられ、文政4年(1821)~天保6年(1835)まで14年間にわたって務めたことが、「筒粥記」や「大倉村赤岩等三ケ銘渡世山落居留」から確認できたことが記述されています。なぜか宮城町誌本編改訂版の歴史的人物には取上げられていませんが、やっと陽の目を見たと言えるのではないでしょうか。
このほか、「検断屋敷跡地の旧家屋解体」「諏訪神社筒粥占神事」「上愛子村類族本帳」などについてわかりやすい説明がありました。
また、巻末資料として「愛子村肝入小松家文書写真及び目録使用一覧表」「愛子村小松家文書目録」「人数帳ニ曰ク寛政三年二月改」「十干十二支」「年号・西暦年代対比(干支入)早見表」が備え付けられており、講義内容や資料の理解に役立つだけでなく、今後の郷土史学習に大いに役立つことが期待できます。