昨年3月よりガン闘病生活を続けていた西村修さんが2月28日に息を引き取った。享年53。
西村さんは1971年9月23日、文京区出身。91年4月21日、新日本プロレスでデビュー。95年に海外武者修行から帰国すると藤波辰爾が主宰するクラシカルなレスリング主体の「無我」の思想に賛同し参戦。その後、再び海外武者修行に出て98年に帰国すると2月にIWGPヘビー級王座に初挑戦。以後はトップ戦線で活躍するも同年8月にガンを告白。治療のため欠場し2000年6月に復帰。以降はフロリダにも住まいを持ち日本と行き来し、カール・ゴッチやドリー・ファンクJr.を師事。「無我」の思想を強く打ち出し、オーソドックスなスタイルで独自の価値観を確立。
06年1月末で新日本を退団すると藤波に追従して新団体「無我ワールド」に参戦。しかし試合数の少なさや団体運営に対する藤波との見解の相違などから07年10月に無我を退団。その後、藤波とは絶縁状態に。無我 退団後は武藤敬司率いる全日本プロレス所属に。11年2月に退団すると、同年4月に文京区議選に当選。文京区議会議員となり、以後はレスラーと二足のわらじで主に全日本を主戦場に活躍。
24年4月に食道ガンのステージ4と診断され治療を続ける。同年8月には大仁田厚のデビュー40周年記念興行に師であるドリーとのタッグで参戦。同年12月8日にも大仁田のFMWE鶴見大会に参戦もそれが最後の試合出場となった。
伝統を重んじるクラシックスタイルを踏襲。黒のショートタイツ姿でグラウンドでの関節技などを得意とし、マイクアピールは独特の哲学と言い回しで「西村ワールド」と呼ばれた。11年には文京区議会選挙に出馬し当選。区議会を優先しながらフリーとしてプロレスにも参戦し“戦う区議”として注目を集めた。リングの上で見せる鋭い視線、そして燃える闘志は人々の心に刻まれた。
3月の退院には、西村さんの強い希望があった。最愛の息子は6歳。小学校入学を来月に控えていた。「昨年5月に息子のランドセルを夫と買いに行きました。3月の卒園式や4月の入学式…出席するのを楽しみにしていたんです」。息子と2人で温泉旅行に行くほど溺愛。パパっ子に育った息子は「退院したら一緒に熱海に行きたい」と、西村さんに伝えていたという。そんな大好きなパパの最期に立ち会った。恵さんは「“パパと熱海に行けなくなった”と泣いていた」と振り返り、声を震わせた。
この日、本紙の取材に応じた妻・恵さんによると、1月30日に体調不良を訴えて入院。すでに肝臓にも転移していたが、放射線治療を受け一時的に数値も良くなり「4日に退院することも決まっていた」と明かした。死去前日の27日も「早く退院して息子と遊びたい」と明るく話していたという。28日午前4時ごろまでは看護師と話していたそうだが、午前6時ごろに急変。「連絡を受けて駆けつけた時には、心臓マッサージを受けている状態。7時56分ぐらいに息を引き取りました」と静かに語った。
そして… 最期までかなわなかったのが〝確執〟のあった師匠・藤波辰爾との再会。
昨年3月に食道がんが発覚し、4月から闘病生活に突入。不屈の闘志でリングに上がり続けたが、出場予定だった1月31日の『ジャイアント馬場没25年追善大会』(後楽園)を欠場した。
同大会で西村さんの代わりに出場したのが、かつての師匠・藤波だった。西村さんは07年10月に「亡命」という過激な表現を使って、無断で無我を退団。師弟に確執が生まれ絶縁状態が続いていたが、藤波は試合後に「頑張ってリングに上がって来い」とエールを送っていた。
西村さんの訃報を受けて取材に応じた藤波は「本当に無我の最初からいたわけだから、思い出は尽きないですよ。性格的には本当に穏やかだったよね」と振り返りつつ、2人の確執にも言及。
「(退団から)今日までとうとう会わずじまいで終わってしまったんだけど、俺が彼を憎んだとかではなくてね。馬場さんの大会で代わりに出たのが、俺の気持ちのすべてですよ。彼のしたことに対して、俺は何も思っていないよということ」と説明した。
藤波は「人づてに『いつかは俺に対しておわびしたい』というのがあったというのは、聞いたけどね」と明かしたが、実際に周囲は師弟の和解に向け、動いていた。
新日本プロレス学校の先輩で、西村さんが高校2年生の時から付き合いがある新日本の三澤威トレーナーは「藤波さんが代わりに出た時に『涙が止まりません』とメッセージでやり取りしてたので、これは会わせた方がいいなと思って」と、関係者の間で連絡を取り合っていた。
西村さんが昨年9月に死去した小林邦昭さんを見舞っていた際、小林さんが望んでいた坂口征二さんとの対面をかなえてあげられなかった心残りがあり、そのことも知っていたからこその行動だった。
西村さんは近く退院する予定だったが、2月28日の朝に体調が急変し、帰らぬ人となってしまった。三澤トレーナーは「とりあえずは退院しないと面会も禁止だったので。そこから藤波さんに連絡すればと思っていたんですけど、こんなに早いとは…」と突然の別れにショックを隠し切れなかった。
それでも西村さんの思いは藤波に届いている。「悔いは残りますよ。申し訳ないという気持ちを持ったまま、旅立たれたことを思うとね…。(思いが天国に)通じるものなら『俺はもういいよ』と。恨んでもないし、旅立ってくれと。長い時間、闘病生活ご苦労さまという気持ちと、冥福を祈ってます」(藤波)。
無我の理念に共鳴した師弟の絆は、
永遠に不滅だ。
2月28日にがんのため53歳で亡くなったプロレスラーの西村修さんの通夜が7日、東京都文京区の護国寺でしめやかに営まれた。多くのプロレス関係者をはじめ、約1000人の参列者が故人を悼んだ。
リングをイメージした祭壇にはベルトなどが飾られ現役時代の栄光がしのばれた。ひつぎには背中に「無我」とかかれたガウンがかけられ、参列者は早すぎる死を悼んでいた。
戒名は「豪徳修栄信士霊位」となった。
《主なコメントは次の通り》
藤波辰爾「(頭が)全く真っ白で…(目に涙を浮かべ、数十秒間、絶句)。本当にお疲れさんって、手を合わせた。自分の中でいろんなものが(あふれてきて)、さっき顔を見たけど、彼、俺に何も問いかけてくれなかったな。(かつて師弟関係で、確執のため約18年絶縁関係にあったが)もっとこう(病状が酷く)なる前に会いたかったね。お互い性格がどこか似ていて、ちょっとつまらない意地を張ってね。胸に(わだかまりがあって)スッキリしない部分があったでしょうけど。だから、(確執について)もういいよ。もう何も思ってない。色んな思い出がある。彼は人とのふれ合いが大好きで、寂しがり屋だった。本当にゆっくり休んでくれと。無我を背負って旅立った」
蝶野正洋「去年くらいから会おうという連絡はしていたが、結局会わずじまいで、ちょっとそこは悔いが残る。新弟子で入ってきたときは(線が細く)、第三世代(天山広吉、小島聡、永田裕志、中西学ら)の中では残れないだろうなって(思っていた)。キツかったと思うが、それを乗り越えて、彼は魂があって、さらに病気(新日本所属時にがんを克服)とも戦って。ずっと戦っていたイメージしかない。本当にお疲れ様だよね。最後まで頑張ったって。(西村さんは)自分のスタイル、考え方があって、周りがどうのではなかった。例えば石原裕次郎が好きだとか、いろいろこだわりがすごくあって。社交的で、文京区の区議会議員とか、社会活動も積極的にやっていた。なんか去年の吉江(豊)にしても(後輩が亡くなってつらい)。さっきお子さんも初めてお会いしたけど(まだ)小さいので、そこだけは本人も悔いが残ってると思うんですよね。でも上から見守ってくれていると思います」
征矢学「(かつての師匠で)プロレスデビュー前からつながりがあるので、今僕がこうやってプロレスをやってこられているのも西村さんのおかげ。(最後に会ったのは)正月の集まり。西村さんは人が集まってワイワイするのが好きなので定期的にやっていて、お正月に会ったのが最後だった。お酒が大好きな方だったが、お酒を断ってお茶を飲んでいて、『私は(リングに)必ず戻ってきますから』と。それを見ちゃうと、戦っているっていうのはすごく伝わってきた。西村さんと僕は真逆のスタイルだが、僕の中に根本的にあるのは無我だなと思う。技うんぬんより、魂は西村さんから教えてもらったことが財産。リング上でもリング外でも、プロである以上はちゃんとしなさいと。プロレス以外では食事、お酒の飲み方、言ってしまえば女性の口説き方まで。人生の全てのことを教えてもらった。(一番の思い出は)千葉の道場を西村さんが借りていて、僕はデビュー前から1人で泊まって西村さんの言ったメニューをやっていて、時間が合ったら見に来て指導してもらったっていうのが僕のプロレスのスタートなので印象に残っている」
大仁田厚は涙を流しながら「僕、最後の戦いの相手ですからね。だから自分の中で、責任も半分感じてたんですよ。でも奥さんから一言、『本当に良い思い出を作っていただきました』って言われた瞬間、ちょっと涙が出てきて。ちょっと肩の荷が下りましたね。議員やっておられたけど、半分はレスラーですから。リングに上がるエネルギー、リングに上がろうとする目標意識がないとやっぱり。だけど奥さんの一言で救われました」と話した。
諏訪魔は3冠初防衛戦(諏訪魔が36分57秒、ラストライドで西村さんから3カウントを奪取して勝利)を振り返り「初めての防衛戦は難しかったですね。本当に西村さんの、あえてこうプロレスの難しさをたたきこまれた感じでしたね。でもあの初防衛戦があったから今があると思っているんで」と話した。 さらに「今まで俺、防衛戦で勝つまで、多分ね、大した呼び方されてなかったんですけど、防衛戦が終わった後からずっと、俺に会ったら『ヘイ、チャンピオン』って。チャンピオンって絶対言ってくれるんですよ。そこは何かうれしかったですね」と西村さんとの思い出をかみしめていた。
◆主な参列者 藤波辰爾、蝶野正洋、佐々木健介、北斗晶、藤田和之、秋山準、丸藤正道、諏訪魔、征矢学、大仁田厚、ジョー・マレンコ、鷹木信悟、ヨシタツ、高木三四郎、AKIRA、中嶋勝彦、ブル中野、羆嵐、河野真幸(以上プロレスラー)、和田京平(レフェリー)、竹村尊氏(プロレスラー・政治家)、田中康夫(作家)=順不同、敬称略
2月28日にがんのため53歳で亡くなったプロレスラーの西村修さんの告別式が8日、東京都文京区の護国寺でしめやかに営まれ、多くのプロレス関係者をはじめとした参列者が故人を悼んだ。新日本時代からの先輩にあたる武藤敬司、師匠である藤波辰爾が弔辞を捧げた。
《武藤の弔辞は次の通り》
「弔辞。西村修選手。闘病生活をしてることは聞いておりましたが、こんなに若く帰らぬ人になるとは思いませんでした。
西村は俺にとって新日本プロレス時代に付き人を務めてくれた大切な後輩です。
たくさんの思い出がある中でも特に記憶のにあるのは、当時俺が新車で買ったばかりの赤いフェアレディZにワックスをかけてほしいと頼んだ時のことです。どうやら研磨剤入りのワックスをかけたらしく、泡が真っ赤になり、こすった通りの傷がついてました。それを見た俺は西村を責めることもできず泣きました。
若い頃、俺もタンパ、フロリダが大好きだったけど、西村は俺以上にフロリダが好きになり、永住するかと思っていました。西村が最初にがんを患ったと国際電話で相談された時、俺自身もショックでかける言葉に苦慮しましたが、お前はプロレスラーだ。それもプロレスだ。戦え、プロレスを続けろ。プロレスは人生そのものだと言ったら、お前は泣きながら返事をしていましたね。そのあとは免疫力を高めて強い体になると言って、死体が浮いているインドのガンジス川で沐浴したり、朝一番の尿を飲んだりして、常に癌と戦っていました。
興行の切り札として西村を武藤(社長時代の)全日本に誘い、所属選手になってくれたこともありましたが、その時は本当に助かりました。
また、亀井静香さんから頼まれて西村を指名した時、本気で一生懸命国政の政治家を目指しました。それがきっかけで文京区の区議になった西村を俺は陰ながら応援してました。本当はプロレスにしても政治家にしても、やりたいことはまだまだいっぱいあったはずです。
今年1月31日1日の太陽ケア引退興行(ジャイアント馬場追善興行)に参戦する予定だったのに来ないと知った時はとても心配しました。でもその時に奥様と息子さんにお会いして、ここに西村の遺伝子がいるんだと思いました。息子さんにはこれから大いに羽ばたいていってほしいです。人になびかず、自分の意思を曲げずに貫いた西村修の人生と共に。
令和7年3月8日、武藤敬司。」
《藤波の弔辞は次の通り》
「突然、あなたと突然の別れにこういう時が来るとは信じられません。そして君の弔辞を私が読む。こんなに切ないことはありません。
共に新日本プロレスで育ち、私が立ち上げた無我に旗揚げから参加してくれました。そして共に行動することも多くなりました。プロレスの原点の挑戦、それは西村修というプロレスラーのスタイル作り、そして多くのファンの皆様に愛される1つのきっかけになったと思います。
世界を共に旅をし、共にチャンピオンベルト巻きましたね。その一つ一つの瞬間は私にとってかけがえのない思い出となりました。忘れることができません。無我という2文字によって我々は繋がり、長い時を経験しました。(確執により)その別れが18年も続いたという長い年月は、私たちの傷を癒してくれました。
あの日のように語り合える日がまた来ることを信じて、そしてもう一度共にリングで戦うことを信じてました。結局、再び君と会うことができませんでした。
しかし、君のメッセージや思いはしっかりと私に届いてましたよ。
だからもう何も(過去のわだかまりを)気にすることはありません。安心して、安らかに休んでください。
無我と共に歩いた君のプロレス人生。その人生の最後の時まで誇り高く生き抜いた君に無我を捧げます。お疲れ様。」
◆主な参列者 藤波辰爾、武藤敬司、渕正信、諏訪魔、天山広吉、小島聡、永田裕志、後藤洋央紀、SANADA、新崎人生、KENSO、征矢学、ジョー・マレンコ(プロレスラー)、寺地拳四朗(プロボクサー)、文京区の成沢広修区長、山田邦子、せんだみつお(タレント)=順不同、敬称略
出棺では、藤波、天山、小島、SANADA、人生、征矢ら西村さんとゆかりのあるレスラーがひつぎをかつぎ最後の別れを告げた。
土方隆司選手のブログが泣けます
議員タッグもまた観たかったですね
ってか、2人に睨まれると怖いですね😅
西村修選手…さよならが早過ぎます。
デビュー当時の西村修選手は俺の中ではヤングライオンの象徴的な手本となるレスラーのイメージでした
線の細い優等生的なプロレスラーがデビューしたな〜なんて思ったものです
西村選手もプロレスを丁寧に分かりやすく魅せてくれるプロレスラーの一人でしたよね
グラウンド中心のレスリングって独りよがり又はふたりよがりな世界になってしまい…観ている側が置いてけぼりな《ポカーン》状態になってしまいがちですが…西村選手はそこを飽きさせずグッとその世界に引き込ませる術を持ってるレスラーでした
喜怒哀楽のあるそして時には毒のある鋭いレスリングを披露し楽しませてくれました
ストロング・スタイルという僕たちが慣れ親しんだプロレスを魅せてくれた
ただ藤波辰爾選手と仲違いした時は正直ショックでした…しかし今年…西村選手が欠場した1月31日のジャイアント馬場さんの追善興行に藤波選手が代役で出場
「いつまでも尾を引くつもりはないし、連絡を取っていない間もリングに上がる姿を見ていた。代わりに出たことが自分の答え」だと語ったドラゴンの男気を感じました
そして藤波選手は試合後「まだ若い彼がね、またリングに上がってこられるように、その祈りを込めて(リングに)上がりました。彼との間には誰にも入ってこられない、そういう中でね。まだ若いんだし、頑張ってリングに上がってこい!それだけです。」と西村選手へ熱いエールを送った
きっとプロレスの神様が最期に2人を和解させる為に仕組んだ粋な計らいだったんだと俺は睨んでいます😄
藤波選手はもうとっくに西村選手の全てを受け止めていたようなそんな気がします…
そして西村選手もずっと藤波選手に謝りと思っていたと…自分の過ちを認める事って一番勇気が要りますよね?そう思えた西村選手も素晴らしいと思います
18年に渡り関係が途絶えていましたが…お互い誤解していた所も多々あったと思うけど…でもそこは師弟不二‼️プロレスラーはリングでそしてプロレスでまた分かり合えるんだと思います
もう一度藤波辰爾と同じコーナーに立ち師弟無我のタッグチームを観たかったですね
そして藤波選手とのこれぞプロレスという緊張感の伝わる手に汗握る芸術的なシングルマッチも観たかったです
それにしても早過ぎる…まだまだ西村選手が伝えたかったプロレスが攻防戦があったはずなのに…本当に残念です
【西村修選手追悼メモリアル】
きっとプロレスファンは忘れません
ご逝去を悼み謹んでお悔やみ申しあげます
とともに心からご冥福をお祈りいたします
追伸…西村選手、どうしてますか。
第三世代としてプロレス界を
盛り上げてくれた西村修選手
そしてプロレスラーとして
人生を全うした西村修選手に
合掌🙏
【無我】
我意・私心が無いこと。没我。我を忘れること。