礼に始まり礼に終わることを忘るな‼️


そして僕らは青柳館長を決して忘れない。


2022年7月6日…空手家(誠心会館館長を務め)でプロレスラーの青柳政司さんが永眠。(享年65歳)

※ 死因などは不明

青柳さんは「誠心会館」の館長であり、生前は「青柳館長」の呼び名で親しまれた。

1989年10月、FMW旗揚げ時に大仁田厚と抗争を繰り広げ、そこからプロレス界に本格参戦しプロレスデビュー。

ユニット「平成維震軍」のメンバー、新日本プロレス、NOAH、プロレスリング・マスターズなど様々なリングで活躍してきました。


青柳は水泳の各種大会で優秀な成績を収めていたので推薦のような形で名門である中京高校に進学。運動神経の良さならば誰にも負けない…だが問題は身長…当時プロレスラーは180cm以下の選手はほとんどいなかった。あこがれは中学の卒業文集に「プロレスラーになりたい」と書いて…そっと胸にしまい込んだまま。


ところが青柳の人生は高校入学3カ月で激変する!!

父は小児麻痺でもともと足が悪く炭鉱時代に落盤で腰を骨折していたのだがついに働ける体ではなくなってしまった。兄は愛知工業大学名電高等学校の3年生…2人とも私立だったので学費はかかってしょうがない。当時は学費の高い私立の高校に2人も通わせるだけの財力がなかった。父は断腸の思いで兄をそのまま卒業させ…入学して間もない青柳を中退させるという選択をするしかなかったのである。

高校を中退した青柳は運送会社に就職。そんな中…会社の近くに偶然にも糸東流の空手道場がオープン。高校を中退したことで水泳から遠ざかり体を動かしたくてウズウズしていた青柳は「何もやることないし、やってみよう」と胴着に袖を通す。そして朝から昼まで一生懸命働いて夜は空手道場へ。

最初は型から始め徐々にコンタクトありの実戦形式へステップアップ。ウエートトレーニングに徹底的に励んでいったのはプロレスラーへのあこがれもどこかにあったのだろう。空手の相手をつかまずに何も持たずに倒せるというところに魅力を感じただ強くなるために精進を続けていった…。

青柳館長に歴史ありですね…逆境に挫けず様々な困難を乗り越え壁を打ち壊し空手と出会い…そして憧れだった夢のプロレスラーにもなれたんですね✨



空手家でも十分にプロレスに通用すると魅せてくれた青柳館長!















プロレス人生が始まった大仁田厚との抗争や…




獣神サンダー・ライガーとの壮絶な試合はザ・プロレスという本気の闘いを存分に魅せてくれました


なので今回は本当に正直突然の別れ過ぎて俺も仕事中にネットニュースで知った時は放心状態でした


2013年に網膜剥離が悪化し左目が完全に失明したことを告白し…2015年にはツーリング中に事故に遭い右膝から下を30箇所粉砕骨折する重傷を負いリングへの復帰は不可能であると医師に宣告を受けこの年の10月4日に引退されましたが… 2017年に引退を控える大仁田厚との対戦のため一夜限りの復活をしその後復帰されました

復帰後はまた館長の鋭く思い蹴りも見られたのでまだまだこれからもリングで暴れ楽しませてくれると思っていたのに…ただただ残念でならないです

最近はガキの頃から活躍し楽しませてくれていたプロレスラーの方が次々と亡くなられてしまうのは淋しいばかりです

この間まだターザン後藤さんが亡くなられたばかりなのに…またFMWで活躍されたレスラーがこの世を去ってしまった


館長は空手家でもありましたがプロレスラーとしてプロレス愛を感じられる素晴らしいレスリングを魅せプロレスファンを楽しませてくれました


青柳 政司

(あおやぎ まさし)
1956年12月27日
空手家・プロレスラー
身長172cm、体重93kg。
デビュー 1989年10月6日
☆空手道場・国際空手拳法連盟「誠心会館」の館長であり、通称・青柳館長。プロレスへの参戦活動で知られ、数多くの団体を渡り歩いた。

福岡県で炭鉱労働者の家庭に生まれるが、いわゆるエネルギー革命の影響で父親が職を失ったため愛知県豊田市に移住。小中学生時代は水泳をやっており、県大会の代表に選ばれたこともある。


プロレスへの憧れは中学生時代からあったが、当時は身長180cmに満たない選手など稀な時代であったため、あきらめていた。水泳での活躍により中京高等学校に推薦入学するものの、家庭の事情からわずか3ヶ月で退学。運送会社で働くかたわらで会社の近所に糸東流の空手道場がオープンし、そちらに通い始め空手道に身を進める。  

その後東海地区のさまざまな空手大会で優勝し、1978年、22歳の時に他流派でありながら極真会館主催の「第10回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」に出場。ベスト16の成績を残す。その翌年運送会社を退職し上京。極真会館の本部に入門したがわずか半年で辞めてしまう、地元に戻り元・弟子達と新たに空手道場「誠心会館」を設立。以後正道会館の大会などへの参戦を続ける。

梶原一騎原作の劇画『四角いジャングル』に「愛知に強豪がいる」と描かれるなど名声があがり、1988年に開催された「格闘技の祭典」からオファーがありトーナメント参加。惜しくも一回戦で佐竹雅昭に左中段回し蹴りで一本負け。翌年89年の「格闘技の祭典」にも参加。しかし空手トーナメントには参加せず大仁田厚と異種格闘技戦で対戦。この事でプロレスとの接点が生まれる。その後、1989年10月6日に行われたFMWの旗揚げ戦における大仁田との再戦で正式にプロレスデビュー。大仁田との対戦は1勝1敗1無効試合となっていて、このまま抗争が盛り上がると思われた矢先にFMWを離脱、弟子の松永光弘を引き連れパイオニア戦志のリングで剛竜馬と抗争するものの、パイオニア戦志は崩壊してしまう。

1990年6月12日、新日本プロレスに参戦し、獣神サンダー・ライガーと異種格闘技戦を戦ったのを期に新日本に定期参戦。1992年から齋藤彰俊ら門下生を率いて越中詩郎と抗争を繰り広げる。その後、越中が誠心会館の自主興行に参戦し新日本プロレス選手会と対立すると越中と共に反選手会同盟を結成、後に平成維震軍と改名する。1994年に平成維震軍を脱退し、新格闘プロレスを旗揚げ。修斗と提携し、エースとして異種格闘技色の強いプロレスを展開するが所属選手が次々と秒殺された上に、自身も木村浩一郎に敗北。「今度負けたら引退する」とリベンジを宣言するが、再戦を行わないまま一方的に団体を離脱し、団体は自然消滅する。その後、WWFマニアツアーに参戦後、東京プロレスやレッスル夢ファクトリーを渡り歩き、2000年に三沢光晴がプロレスリング・ノアを旗揚げすると、斎藤と共に参戦。2012年11月には、長年の空手道における文化教育活動が認められ、東久邇宮文化褒賞を受賞。

その後は愛知県近郊の興行を中心に主に前座試合に出場。2007年12月8日D.E.P刈谷大会で誠心会館時代の弟子でもある、深谷友和を破り2代目D.E.P王者となった。

2013年1月、久々にノアのリングに登場、9人参加のバトルロイヤルを制しノアマットで約8年7ヶ月ぶりの勝利を挙げる。その際に以前から患っていた網膜剥離が悪化し左目が完全に失明したことを告白。しかし今後もプロレス活動を続けると宣言。

2015年5月9日、ツーリング中に事故に遭う。右膝から下を30箇所粉砕骨折する重傷を負い、リングへの復帰は不可能であると医師に宣告を受ける。これにより、同年6月1日をもって引退することを宣言。10月4日、プロレスリング・ノア「GREAT VOYAGE 2015 in NAGOYA」にて引退セレモニーを行った。なお、事故の4日前に信州プロレスの「無茶フェス2015 in 伊那」に参戦しており、これが青柳にとって最後の試合となった。

2016年からは、「魔世軍」を結成し、総裁として活動していた。

2017年、引退を控える大仁田厚との対戦のため一夜限りの復活。その後復帰し、プロレスリング・マスターズを中心に試合を行っていた。

2022年7月6日、死去。訃報は翌7日、参戦していたプロレスリングZERO1より公表された。

65歳没。


青柳政司館長名勝負





































ご逝去を悼み謹んでお悔やみ申しあげます 
とともに心からご冥福をお祈りいたします

長い間本当にお疲れ様でした


耐えがたきを耐え 
忍びがたきを忍び 
押さば押せ 
引かば押せ 
これすなわち 
自己滅却の精神也 
我が道に 
いかに険しき山あれど 
踏みてぞ越えん 
押忍の精神


さよならの代わりに


ラストコールは

押忍!

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