good days' diary* -14ページ目

good days' diary*

20代会社員。
旅行・読書・カフェ巡りなどがすきです。

この1年で、平たく言って「失恋」を2回ほどした。


平たく言って、とわざわざ言ったのは、なんとなく私の経験したできごとが一般的な「失恋」ではないような気がしたからだけれど、本当は自分の経験が「特別」だと、ただフラれただけじゃないんだと、思いたいんだろうと思う。

「好きな人に、同じ気持ちを想ってもらえなかった(なくなった)」という意味では、立派な失恋なんだけど、何を見栄張っているんだろう、私。


というつっこみはさておき。


失恋が苦しいこと、失恋した後の寂しさの辛いことは、私だけでなくきっと常識レベルで誰もが知っていること。


けれど、なんで、どうしてこんなに苦しいのだろうと少し考えたとき、

失恋のつらさに影響するのは、単に「想いの強さ」だけではないんじゃないかと思った。


それはつまり、「いかに相手のために居場所をつくり、どれほど相手の中に自分の居場所を見つけていたか」ということが失恋の時の辛さに影響するということ。


誰かを好きになると、その人のことが頭の中を少しずつ占めるようになる。

最初は、ふわっと「仲良くなれたらいいな」って程度に心が占拠され、

彼女いないってわかるとまた少し、デートに行くとさらに少し。

付き合い始めるともう半分くらい。お互いのことをよくわかりあえてたくさんの時間を過ごしていくならもう7割くらい。


ってそんな具合に、頭の中や、心がその人のことで占められていく。


どれくらいの割合かは人それぞれ、でも少なくとも大きくとも、誰かが心の中に入り込んでいく。


恋に堕ちる前の自分の心を占めていたものは、ぎゅっと圧縮されるか、入りきらなくなって追い出してしまうか。

そうやって、「好きな人」に占めるスペースが増えていくかんじ。


もうすっかり大好きになった頃には、その人の「居場所」が私の中にできてしまって、その人じゃないとその空間は埋められなくなってしまう。


私の恋は、そんなイメージだ。


一方で、相手の中に自分の「居場所」を見つける。

必要としてくれていること。会ってない時間でも私のことを考えてくれていること。ふと夜に連絡がくること。

そんなできごとが、私が「居場所」を見つけることにつながる。



だからそんな恋が終わるときは、

私の中につくってしまった「居場所」が何にも埋まらない。

私が見つけた「居場所」が見つからない。

そんな状態になってしまう。


だからたとえば、もう一緒にいれない、って話をしたあとでも

ふと連絡をくれたり、私との思い出につながるような何かをしていたりすることにとても救われる。


まだ私の居場所が、少しだけ残っていたんだ、と思えるからだ。


連絡がきたからといって、また一緒にいられる、と思って救われるわけでは、必ずしもないんだと思う。

また一緒になることを、夢見ている状態でインスタントな幸せに浸ってしまうときだってあるけど、本当はそうならないことだって気づいている。

それでも、私の心の中にできてしまった空白を埋めるべき人の中に、私が一生懸命見つけた居場所がまだそこにある、そんな愛おしさがそこにある。


愛おしく思い、それでも寂しく思い、恋しく思い。

傷さえも懐かしみながら、少しずつ過去になって、時間の経過とともに空白を埋めていく。

圧縮したものたちが元の大きさになることだってあるし、新しい何かが私の心を埋めることもあるだろう。


それを簡単に言って、世間は「時間が解決してくれる」と言うんだろうな。


心の中の空白を、明確に、ありありと認識してしまっている人にとっては、時間が過ぎるだけでそんな空白が埋まるわけはないと思う、だからきっと絶望する。


だけれども、ちゃんと、グズグズして前を向けなくたって、なんとか前を向こうとする気持ちさえあれば、時間がかかっても、空白は埋まるものなんだ。これは経験上の話。



さて、これから、私の中の空白を埋めるものは何だろうか。

1ヶ月ぶりの更新。

一人でゆっくりした時間が取れること自体、1ヶ月、もしくはそれ以上ぶりな気がする。


異動と、それに伴う居住の引っ越しをして、4月から新しい環境、職場へ移って、ようやく落ち着いたところ。



就職してから3年間。

3年もいると大切な人間関係もできて、たくさんの思い出もできて、去ることが惜しくなる。

離れることを選んだのは自分自身であったりするのに、どうしてこんな身を引き裂かれるような思いをしなきゃいけないの、なんて気さえしてくる。


たくさんたくさん泣いた。

本当に大好きな人たちができて、そんな人たちとの思い出がたくさん詰まった街。


感傷的にはならないように気を付けていたけれど、


それでも、今までの私の現実が、目の前にあった風景が、当たり前となりつつあった人間関係が、

少しずつ過去のものとなって、私の手の届かないところへ行ってしまうような。

そしていつかは今の感覚を忘れてしまって、すっかり「過去」と「日常」で分断されてしまう。

そんな辛さと、切なさと、苦しさ。


大好きだったあの人と出かけた場所へ、たとえば一人で出かけて、彼がかつてここにいたことを思い出すことさえ、もう簡単にはできない。

私と誰か、だけじゃなく、それをなんとなく包んでくれていた景色や、空気や、匂いに触れることがしばらくできなくなってしまう。


「思い出」「忘れないで」「今までありがとう」

送別の時期は、なんとなく、そういうしめっとした言葉を避けていた。

ただの一区切りであって、今までの関係が切れるわけではないし、少し距離が離れるだけなんだと、そう思っていたから、そして、そう思いたかったんだと思う。


一方で。

離れることは辛いものだったけれど、なぜか私には、ずっと同じ環境にいる、という選択肢を選ぶつもりもほとんどなかった。


いつか忘れてしまうことは、わかっている。わかっているからこそ、切ないし、苦しい。

環境が変われば忘れてしまうけれど、ずっと同じ環境のままでいるべきではない。

その答えは私の中で変わらなかった、大切な人たちに出会ってもずっと。



「忘れる」ということは、哀しいのだけれど、優しい行為であると思う。

高校の頃、古文では「愛し」と書いて「かなし」と読んで、かわいい、いとおしいとかそんな意味があったと知った記憶があるけれど。

かなしい、とか、いとおしい、はきっと近くにある感情で。

だからきっと、かなしくて、いとおしくて、せつなくて、やさしい。そんな感情が存在しうる。


人は過去の悲しい出来事をすべて背負って、生きていけるようにはなっていないと思う。

かつて失恋したとき。涙はとめどなく溢れてきて、いつまで私は泣き続けるんだろうと本気で絶望していたけれど、気づけば、笑い話にできるくらい乾いていた。

失恋で涙が止まらなければ、まして大切な誰かを亡くした時なんて、哀しみの総量は果たしてどれほどになるんだろう。


忘れていかないと、人は前に進めない。

そしてまた、ちゃんと忘れられるようにできているのだと思う。


いま、新しい環境に来て、新しい人間関係、新しい刺激にさらされている。

バタバタの日々で、これまでの環境のことなんて、本当にすぐ忘れてしまいそう。


これでいいんだ、と思う。

いつまでも過去の思い出ばかりを振り返って、引きずり出して、眺めていたって、何も私は前に進めない。


一方で、やっぱり哀しい、と思う。

こうやって、すぐに「現実」ではなくなることがわかっていたから。



それでも前に進まなくちゃいけない、私は。

たくさんのことを忘れて、哀しみを味わってでも、私には手に入れたい何かがあるらしい。

果たして何なんだろう。答えはきっと自分の中にすでにあるんだけど。


実はその答は明確じゃないけれど。


何かを手放さなきゃ、手に入らないものはきっとたくさんある。

これだけは、少しだけ確信を持ってる。

年に数回の頻度で、無性に本を買い漁りたい衝動に駆られる。

普段、書店で手に取っても、「まだ読み切ってない本、あったしな。。」と思い本棚に戻すような本を、躊躇いなく買いたい、という欲求。

年に数回、買っても5000円くらい。よくよく考えると服なんかを衝動買いするより安いし、飲み会1回分で済む、わりとお手軽価格なんだけれど。


そしてこの、「買い漁りたい欲求」について。


最近、よく読むのはビジネス書や自己啓発本といったカテゴリーに分類される本が多い。

そういった本を読んだからといって、一挙に開眼したり、本に書いてあることを実践して自分の人生が素晴らしいものになったり、・・・・したことは、正直ない。


しかしながら、他人の考え方や、何かしらのノウハウ、そういったものを一番手っ取り早く理解することができるのが本だと私は思っている。

だから、自分や、所属する団体の考え方(主に会社の考え方)に縛られてるな、と思ったとき。

もっとほかの考え方を知りたい、と思ったとき。この欲求が生まれるのだと思っている。


そう思って、買って読んだ1つの本が、これである。


川北義則著 「『できる女』を伸ばせる男 伸ばせない男」


普段、女性としてこれからの社会を生きていくにあたって、壁は多いように感じていて。

女性の社会進出が進んだ、とは言え、

「バリキャリ(特に結婚もせずキャリアにつっぱしる)」派と、

「専業主婦(とまでは言わなくとも、ある程度のキャリアは諦め、主婦メインで、仕事も続けられればいいと思っている)」派と、二極化しているようなイメージ。

数少ない、私の知っている例を見る限り、だけど。


私はそのどちらでも満足できないし、結婚や家族と、思い通りのキャリア、どちらも諦められない。

モデルとなるような女性の生き方がないな(もちろん私の世界が狭いのだと思うけれど)、と思い、ないならないで私の思うように切り拓いていけばいいじゃない、とも思い、しかしながらなんとなく独りよがりで、「女性の生き方」について他人の考え方を知りたくなったのだ。



本全体の感想としては、現代の社会で働く女性の悩み、活かすべき長所などなどに網羅的に触れられており、「そうそう、そうなんだよね!私だけじゃなかったんだ!」と思うポイントが多い。

自分の抱える悩みが個人のものではなく、社会的なものだと分かっただけでも収穫は大きかった。


「女性の社会進出」については、制度の整備や周囲の理解も当然ながら、もっと女性側にある「甘え」も脱ぎ捨てなくてはいけないと思う、前からそう思っていた気持ちをさらにもうひと押ししてくれる。


ただちょっと、私の苦手な決めつけ(「仕事のデキる人は、必ず○○なものだ。」といった感じ)が多い点が残念だなと思ったことと、

具体的に「女性が社会でどう生きるべきか」という点に対する著者自身が明確なアンサーを持っていないように感じられ、本の表題から期待した内容は得られなかったかな、という気はしますが。


まぁそれはさておき。


本の内容で、一つ「なるほど」と思った点があった。


「仕事のデキる人間かどうかはスーツ姿でほぼわかる。」

というもの。


これもまた、私のキライな「決めつけ」だったので、一時はう~ん。。。と思ったけれど、わが身を振り返ってみて、思い当たることがあったので、「これは一理あるかもしれない」などと思い始めた私(単純)。


今わたしが持っているパンツスーツのこと。


このスーツを買ったのは1年以上前。それ以来、幾度となく着ていたけれど特に何も言われなかった。

しかし、それがなぜか買って、着るようになってから1年以上も経った今頃になって、

「そのスーツ、かっこいい」

と言われるようになったのだ。


痩せたわけでも(むしろ太ったし)、着こなしを変えたわけでもないけれど。

なんとなく、「似合う」と言われるようになった。


もちろん、生地が少し柔らかくなって、こなれてきただけなのかもしれない。

他のスーツを何でも着こなせるわけでもないから、「仕事がデキる」ようになった表れでもないかもしれない。


それでも、著者のセオリーに従うと、スーツが似合うようになったことは、きっといくらかの自信や仕事を頑張ってしてきたことの表れではないかと。


そう言えるだろうし、そう思いたい。


そんな出来事。





そして以下は、その後日談、とでも言うべきお話。



前まで何を食べても痩せなかったかわりに、何を食べても太らなかった私。

年末を迎え、新年を迎え、久しぶりに体重計に乗ったら、、気づいたら○キロも太って、その、似合っていたパンツスーツのチャックが・・(以下割愛)


心身ともに、自分を常に磨いていたいものです。