先日行われた日本舞踊市川流三大襲名披露では、市川翠扇という大きな名跡が41年ぶりに復活しました。

 

それにちなんで、二代目翠扇、三代目翠扇のことをもっと知りたくなり、先日読んだ二代目翠扇著『鏡獅子』に続いて、三代目翠扇著『九代目團十郎と私』(1966)という本を読みました。三代目翠扇の自伝です。

 

 

三代目市川翠扇(1913 - 78)は、本名堀越貴久栄(Wikipediaでは喜久栄と書かれていますが、この本では貴久栄と書かれています)。九代目團十郎の次女堀越扶伎子(二代目市川旭梅)と五代目市川新之助の長女で、九代目團十郎の直系最後の人物です。

 

この本は、『鏡獅子』に比べて新字体で読みやすく、日記のように気軽に読めました。Amazonでも2,000円ぐらいで入手でき、国立国会図書館の無料デジタル資料も閲覧できます。

 

ブログではそのなかから特に印象に残ったことを、自伝に沿って、幼少期、小学校時代、女学校時代、初舞台、市川翠扇襲名という順で綴りたいと思いますニコニコ

 

 

 幼少期(1913年/大正2年~)(p.9~) 

九代目團十郎がなくなって10年後に生まれたのが著者の三代目市川翠扇(貴久栄)です。没後10年たっているものの、生活様式は九代目が生きていたころと変わらず、家も築地に四百坪ぐらいあった九代目團十郎の家で暮らしたそうです。

 

また、18歳の時まで生きていたおばあちゃんから九代目團十郎についていろいろ聞いて育ちます。貴久栄曰く、九代目團十郎は芸を相続させる人を物色しながら世を去ってしまったのではないか、と。

 

5歳になると九代目團十郎十五年祭の口上に出演。

 お弟子さんは男児を望んでいたことから、貴久栄がかなり大人になるまで家族やお弟子さんから「坊や」「坊ちゃん」と呼ばれます。

 

しかし、貴久栄自身は男でなくてつくづく良かったと。そんな彼女が男に生まれていれば、と一度だけ思ったのは九代目海老蔵(十一代目團十郎)の『助六』を見たとき。

 

幼少期の記述からは、おばあちゃんが家の中で一番偉いという、年功序列の生活世界を懐かく感じましたニコニコ

 

 

 

小学校入学(1919年/大正8年~)(p.18~)

6歳の6月6日から築地の藤間へ行き、踊りのお稽古を始めます。お弟子さんたちにお守りをされて育ったので、幼少期から男子顔負けのおてんば娘爆  笑

 

小学校ではことあるごとに踊りを披露し、その時三味線を弾いてくれたのが四代目中村雀右衛門のお姉さん。おどりのおさらい会で『近江のお兼』を踊ったときはクラス中の友達が総見に来てくれたという。

 

役者の子なのでお金について全く知らず、小学校の先生を心配させたこともあったそう。おばあちゃんは、「役者自身、自分は芝居をしていくら収入を得ているのか一切知らないし、知ろうとしない。自分の芸が金銭に換算されると一体いくらぐらいになるのかなんて考える人があれば、その心を下劣として、その役者の芸はそれで止まりだと信じられてきた」からと、小学校の先生に説明したそうです。

 

毎月、成田山からお札やお守りを持って使いに来る人がいたことや、季節ごとの物売りの話など、築地周辺の下町情緒のある生活が感じられましたニコニコ

 

 

 

女学校入学(1925年/大正14~)(p.24~)

この頃もまだ築地の九代目團十郎家で暮らしています。踊りだけでなく、お琴、お茶、お花、習字などさまざまな習い事をし、伯父三升からは画や俳句を習ってたしなみます。

 

踊りに身を入れだしたのはこの頃からで、神楽坂の藤間勘次へ習いに。ここへは若かりし頃の高麗屋三兄弟(後の十一代目團十郎、八代目松本幸四郎、二代目尾上松緑)が通っており、貴久栄は豊(二代目松緑)とよく喧嘩をしたそう。

 

謡が苦手だった九代目團十郎は、築地の家の神殿にこもって血の吐くような思いで謡曲の練習を重ね、やり遂げたそう。九代目の芸にも蔭に苦労工夫・猛訓練があったことをおばあちゃんから聞き、貴久栄は意欲を掻き立てられます。

 

この頃よりどうしても女優になりたくなるのですが、家族は貴久栄が女優になることに全員反対。というのも、九代目團十郎の娘、実子扶伎子は九代目存命中から二代目市川翠扇と市川旭梅の芸名で女優として舞台に立っていましたが、九代目の没後、これまでの権威に対する嫉妬や反動から手のひらを返したようにことごとく周囲から迫害を受けたそうショボーンそんな劇界の空気が厭になり、フッツリ劇界から身を引きました。それで、貴久栄には同じ目に合わせたくないと反対されます。

 

それでも貴久栄は諦めきれず、おばあちゃんと一緒に六代目尾上菊五郎のところに相談へ行き、菊五郎が「坊やを女優に、というのは九代目からの伝言で・・・」と嘘の証言をして、家族はやむなく貴久栄が女優になることを許します。

 

1923年の関東大震災では、築地の家から一家13人(内弟子や使用人含め)命からがら逃げたお話もありました。家宝の九代目團十郎の似顔でできているお不動様と、九代目團十郎の似顔に彫られた勧進帳弁慶の人形を背負って。九代目團十郎門下の筆頭といえる七代目市川中車の家へ身を寄せようとしますが、門前払いを食らいます。九代目の妻升子はこれを忘恩の見本として中車のことを死ぬまで怒っていたそう。結局、一門の市川團之助に助けられ世話になったそうです。

 

 

 

歌舞伎座で初舞台(1929年/昭和4年~)(p.74~)

1929年(昭和4年)、16歳の時に歌舞伎座で市川紅梅を襲名し正式に役者として初舞台を踏みます。出し物は『戻り駕』で十五代目市村羽左衛門と六代目尾上菊五郎と共演という豪華な配役。両者からもまだ「坊や」と呼ばれていました。

 

初舞台の際には、歌舞伎座の表には魚河岸からの積み樽が飾られ、大間いっぱいに積み物飾り物が飾られたそう。同級生にも魚河岸の子がたくさんいたという話には、役者と魚河岸の深い関係を感じます。

 

初舞台後は、歌舞伎座で守田勘弥『切られ与三』の女中などに出演。当時の歌舞伎界は、五代目中村歌右衛門のようにいかなる理由でも女優と共演しない役者もいれば、六代目尾上菊五郎のように日本俳優学校を設立し女優を育て、積極的に共演する人もいたそうです。

 

1932年(昭和7年)、19歳の時に歌舞伎座で行われた九代目團十郎三十年祭では、伯父三升『解脱』に腰元として、また六代目菊五郎の『鏡獅子』に胡蝶で出演。

 

この頃九代目の『紅葉狩』のフィルムを見てショックを受け、自身も旅興行で『紅葉狩』をつとめたりします。

 

(初舞台の『戻り駕』、写真は『九代目團十郎と私』より)

 

 

市川翠扇襲名(1957年~/昭和32年)(p.175~)

1957年に新橋演舞場で十一代目團十郎花柳章太郎にはさまれて襲名披露をします。

 

1957年の第1回俳優祭では、中村歌右衛門尾上梅幸水谷八重子市川翠扇で4人『京鹿子道成寺』を踊ることになり、六世藤間勘十郎が熱心につきっきりで稽古をして下さったそう。当時奥さんの藤間紫さんともお友達だったそうです。

 

1962年/昭和37年には十一代目團十郎襲名披露興行の口上に列座します。その時、十一代目團十郎は「では今日は翠扇さんが見得を披露します」と振る茶目っ気たっぷりの人だったそう爆笑

 

十一代目團十郎は、あまりにも潔癖で正義感が強いので、知らない人からは誤解されやすく、大変気難しい、近寄りがたい、怖い人のように思われがちだが、内実はあんな愉快な茶目っ気の多い、物分かりのいい、闊達な人も珍しく、翠扇にとっては本当によいお兄さんだったそう。

 

團十郎襲名興行では、夜の部の切に『近江のお兼』も踊ります。

 

苦しいときに思い出されるのは、祖母が語る祖父の話(天覧歌舞伎の時に神殿に籠って稽古をし、げっそり痩せたなど)が励みになったといいます。

 

後半は、新派でどの作品に誰と出たというようなことや、舞台裏話、役者の人間模様が記されていました。新派をよくご存じの方が読むと、とても興味深いお話と思います。

 

 

 

最後まで読んで・・・

幼少期から女学校入学ぐらいまでは市川團十郎家の独特な生活、特に九代目團十郎の残り香が感じられる家族の生活が興味深かったです。私はそのなかでも、おばあちゃん(九代目團十郎夫人升子)について興味を持ちました。

 

升子は夕飯時にはビールを飲みながら九代目團十郎とのおのろけ話を聞かせるなどしたそうです。明治、大正、昭和と三代にわたる日本の劇界を眺めてきたその目に、娘も孫も夫のその一本の小指ほどの働きも継ぐことのできぬ現状をもどかしがり、嘆き、あきらめながら亡くなった・・・という言葉が印象に残ります。升子についてもっと知りたいと思いましたが、これはさすがに本などには残されていないのでしょうね。

 

また、これまで他の本で書かれてきたことと内実は違うというところもありました。例えば、刃物が忌物となっている理由について。八代目團十郎が亡くなるときに手にした村正の刀は、七代目が形見としてずっと刀架にかけていたそうです。それがもらい火で火事になって逃げるときに隣の家との間に落としてしまい、その後見つからず。いつどこで巡り合うかわからないから刃物は絶対におろそかにできない、ということらしいです。

 

役者として初舞台にたってからは、歌舞伎の家に生まれた女性が、時代の荒波のなかで奮闘する様子に興味を持ちました。特に幼少期から聞かされていた九代目團十郎という偉大な人物の孫であるということと、劇界の変革期に役者としてどう自己を確立していくのかについて。

 

本人も書いている通り、この本には九代目のことは直接出てこないのですが、祖父九代目市川團十郎の名を傷つけたくない、名門に生まれたという意識が知らず知らずのうちに自分を厳しくを律してきたため、ここまでやってこられたそうです。

 

歌舞伎の世界は男系中心で、女系についてはあまり注目されないので、このような本を残してくださりありがたいです。令和の時代の四代目翠扇さんはどのように活躍されていくのか楽しみですラブラブ

 

 

 

さて、明日から9月8日まで日本橋高島屋で市川海老蔵展が開催されますね。次はこれを見に行きたいと思いますニコニコ