中学校や高校と、進路の事を考える時に、
私はいつも「好きな事を仕事にする」ということに
本当にそれで良いのか?と考えていた。
二十年近く経った今も、自分の器の小ささが
好きなものに打ち込む勇気をくれない。
器用貧乏という言葉があるけれど、
器用ならまだ救われる。
私の場合は、『不器用貧乏』だ。
好きな事なのかどうかは未だに分からないけど、
取り敢えず「好きだと仮定して」打ち込んだことは
沢山あったような気がする。
でも、打ち込めば打ち込むほど苦しんだり
辛くなったり、悲しくなったりして、
一瞬の嬉しさや楽しさの快には没頭しないようにしていた。
今でも、好きが転じてのめり込んでしまうことは
避けている。
なぜなら、
そうなってしまうといつか必ず嫌いになってしまったり、憎しみを持ったりしてしまう時が私の場合訪れる。
そういった気持ちを対処できなかった時期は、
ひたすら苦しみの渦の中に落ちていった。
しかし、最近新たな対処法かもしれないことを知ったのだけれど、
いったん気持ちが一つの事に対して否定的な方向に向いたら、離れるのが一番だと思う。
離れてみたら、違う視点は必ず得られる気はするし、
少しのめり込んだ事から離れたら少なくとも忘れられる瞬間は出来てくると思ったし、
捨て難いものなら尚更程々のディスタンスを保つことは大切なのでは、と個人的に思う。
苦しみを伴うところまで感じ取れるようになることは、ある種の『愛』なのかもしれないな。
『愛』なんて照れくさい言葉だけど、
でもそういう一面はあるのかもしれない。
何かを強く愛する程の強いハートは私には備わっていないけれど、好きな事は意外にも人より多いかもしれない。
自分自身が不器用なのは本当に生きる上で困るけれど、
一方不器用で救われる事と言えば
どれだけ人に笑われても良いなと、
自分のプライドが高くなければ思えることだったり、
話のネタに出来ることだ。
だから、
人の笑顔を誘えるという意味でも
不器用貧乏で良いかな。
なんて思った一日の終わりでした。