猛烈な勢いで過ぎ行く桜並木は、鮮やかな桃色をした花びらを夜闇に溶かすことなく散らせていた。こんな状況でなければ車体を路肩に寄せて、見事に咲き誇る桜をのんびりと眺めていたところだ。とくにこんな、時計の針が頂点を越えた時間帯となれば、貸し切り気分で春らしい見事な景色に浸ることができる。しかし今はそんな余裕などありはしない。目の前を走る機械人形を追うので精一杯だった。
電都・東京府の夜闇は深かった。これが海の向こうの大都市メトロポリスなら、客引きのネオン看板やら飛行船を迎えるサーチライトで昼間同然の明るさと賑わいだったかもしれない。世界の先進都市であるメトロポリスは「眠らない街」だとよく形容される。東京府では考えられないほどショウビジネスが盛んで、ケバケバしい光を放つネオン看板のほとんどが舞台のタイトルを示し、楽しげな雰囲気で紳士淑女の興味を引いていた。
それは商店の地味な手書き看板しかない東京府とは比べ物にならないほどの楽園ぶりである。東京府には真新しいビルディングが増えてはいるものの、まだまだ発展途上と言わざるを得ない状況だ。夜道を照らす裸電球の心細い灯が強情を張るだけで精一杯。路地裏はもちろんのこと、等間隔で配置された裸電球と裸電球の間でさえ不気味な闇が淀みを作っていた。
「射撃許可さえ出ていれば……たかが機械人形に!!」
<彼>がそんなことを考えていると、助手席にしがみつく、カーキ色の軍服に身を包んだ青年が忌々しげに吐き捨てた。左腕には「憲兵隊」の腕章。彼は陸軍に所属する上等兵で、この一帯の治安を守る警察任務に就いていた。歳のほどは20代半ば。それで上等兵とはなかなかの出世頭である。
「仮に弾丸が命中したところで、上等兵に弁償できる金額じゃあないでしょう。なあに、首の後ろにある制御スイッチを押してやれば済むことです」
運転席でハンドルを握る<彼>が緊張感のない声で答えた。そして乱暴にならざるを得ない運転のせいで斜めになった中折れ棒を、しっくりくる位置にかぶりなおす。
「手間を取りすぎだ」
「急いては事を仕損じます。それに、輸入車より国産の機械人形ってことでしょう。我が国の技術も捨てたもんじゃない」
「気楽なものだよ、探偵は」
<彼>と上等兵の眼前では、今まさに機械人形が夜闇を引き裂く騒々しさでガシャガシャと疾走していた。鏡のようにキラキラと輝く銀色の胴体から伸びる細い手足を、まるで喜劇俳優のような滑稽さで懸命にバタつかせている。
「左だ!」
突き出された上等兵の指先に従い、<彼>が「えいやっ!」と方向転換させる。するとハンドルを切るのと同時に、まるでカブトムシのようにずんぐりとした車体が、タイヤをきしませながら右方向へと傾いた。キキキキキッ! それでも間一髪のところで踏ん張り、左折した機械人形の背中を捉える。すると一息置いて、後方の交差点で交通整理をしていた別の機械人形が「ピー」と、やや間の抜けた笛の音を響かせた。彼にしてみれば暴走する機械人形よりも交通違反を犯した<彼>らのほうが問題だ。だが上等兵からすれば今は交通整理の機械人形に関わっている暇はない。そのため<彼>に鋭く「止まるな」と告げた。
東京府が「電都」と呼ばれるのには理由があった。あれは20年ほど昔。ヨーロッパから広まった産業革命の波は、機械人形の導入によって人々の生活に劇的な変化をもたらした。その普及率で言えば英国とメトロポリスに続く世界第3位。交差点で交通整理をする機械人形、車と一体化した自動運搬車、議会の書記もオートメーション化が進められている。現代の東京府は機械人形とともにあり、彼らなくして都市は機能しなかった。
その一方で、目に見えないところでは様々な電波が飛び交うようになっていた。機械人形の遠隔操作だけではない。我先にと開局した放送局が提供するラジオ番組、いち早く無線通信が導入された緊急車両……。ひと昔前では考えられない未来都市として発展を遂げつつあり、順調に行けば、いずれ個人単位での通信や、映像のやり取りも夢ではない。府民の誰もがそう思っていた。
「右へ!」
再び上等兵の鋭い声。「はいよ!」と<彼>。機械人形の冷たい背中にピタリとつけた車体が、機械人形の進路に合わせてお尻を左に振る。
「届かないぞ!」
窓枠に腰かけた状態で手を伸ばす上等兵の目の前には機械人形の背。どうにか首の後ろの制御スイッチに触れようとするが、機械人形は少しばかり背が高く、人差し指が虚しく空をかく。
「……つかまってください!」
機械人形がまたもや角を曲がろうとしているのを見て、<彼>が加速ペダルをグッと踏み込んだ。勢い余ってカーブに突っ込んだためにフワリと浮き上がる車体。見事な片輪走行だ。これで長かった追いかけっこにも幕。車体が斜めになったことで上等兵の指が機械人形の制御スイッチに届き、ようやくその動作を停止したのだ。
車を降り、安全を確認した上等兵が人の良さそうの笑みを浮かべながら自分よりも10歳は上だろう<彼>に握手を求める。
「いつも済まないな、探偵」
「いえ、まあ……」
いつもながら<彼>の曖昧な返事。そして照れた顔を隠すように中折れ坊のつばで目元を遮る。そして落ち着いた声で告げた。
「機械人形の保全が仕事ですから。御用の際には、またいつでも」
「そうだな、ロボット探偵」
「その呼び方は、どうも慣れませ……」
その時だった。「ピピッ、ピピッ」。僅かな電子音。そこで<彼>はいつものように適当な言い訳を並べると、素早く裏通りへと滑り込んだ。
周囲を伺う。……誰もいない。トレンチコートの内ポケットから懐中時計を取り出す。……やっぱりだ。文字盤の12時のところが赤い光を発している。
<彼>がトレンチコートの襟の部分に手をかけると、「カチリ」。小さな機械音がしたのと同時に、トレンチコートが漆黒のマントに姿を変えた。それはさながら吸血鬼の装い。実体が掴めず、黒い霧のように実体を持ったり失ったりを繰り返しながら<彼>にまとわりついている。
続いて<彼>はマントの後ろからガントレットとゴーグルを取り出し、手と顔に装着すると、腰の後ろに隠していた短剣をスラリと抜いた。それは柄の部分に赤い宝石が埋め込まれており、一見して由緒ある芸術品であることが分かる。よく見れば塚の部分にも刃の部分にも、古代文字らしき記号とレリーフが刻まれていた。
<彼>がその宝剣を目の前で振ると、不思議なことに彼の皮膚がまるで影のように変化した。変色したとか塗料を塗ったとか、そんなものではない。本来、皮膚に反射することで色を認識させる可視光線が宝剣によって断たれたのだ。つまり光を吸収するブラックホールと同じような原理。この宝剣には電磁波を操る能力があり、その能力で可視光線を断ち、彼の姿を見えなくさせたのだ。
<彼>のもうひとつの姿……それは怪人「影男」である。スーツに中折れ帽という紳士のいでたちの上に吸血鬼のような不気味なマント。暗黒に包まれて目視することができなくなった顔には、目の部分に赤く輝くゴーグルを装着している。
<彼>……いや影男は、目の前にそびえるビルディングを路上から見上げた。すると唐突に漆黒のマントが彼を包み、瞬く間に彼を屋上へと運ぶ。壁面を這うように上昇するその姿はまさに影。人の姿をしておらず、不定形の何かがススッと上がっていくようにしか見えない。そして屋上に到着すると人の姿に戻り、足先からふわりと降り立った。
屋上からは夜闇に包まれた東京府が一望できた。だが影男には、それとは違う、もうひとつの現実が見えていた。赤いゴーグルを通してのみ認識できる、電磁波を視覚化した世界だ。それはまったくもって奇妙な光景。頭上を、目の前を、いくつもの光の糸が走っており、それぞれ触れると、例えば胸の前を通る青い糸ならラジオの深夜放送を頭の中で感じることができた。もちろん素手で触れた程度ではそんな現象は起こらない。両手に装着した特殊なガントレットのみ、自由に電磁波に触れることができるのだ。
影男は再び懐中時計に目を落とした。赤い信号はまだ小さな光を放っている。これは『合図』だ。影男は衝動的に<財団>の研究施設がある方向に目を向ける。白亜のビルディングの所有者は、研究施設の責任者であり<財団>の令嬢だ。そして懐中時計に『合図』を送ってきた相手でもある。<令嬢>は影男との関係を決して明かすことはない。あくまで他人。怪人「影男」は、令嬢の意図を汲み取り、自らの意思で汚れ仕事をこなす。
影男は研究施設から懐中時計へとまっすぐに伸びる赤い糸を目で追った。そう、懐中時計の赤い輝きは研究施設から発せられている電磁波によるものだ。でもそれ自体に情報があるわけではない。懐中時計を赤く光らせるだけ。いま何が起こり、令嬢が何を求めているのか……。目の前を行き来する無数の光の糸に触れて、ようやく彼は電都・東京府で発生している事件を知る。
「……古代の遺物? なるほど例の……。……ふむ、<スイッチ>と呼ばれているのか」
彼は光の糸から手を離し、東京府の夜景を見やる。ちょうど数台の警邏車両が現場に急行しようとしていた。あれだな、彼は確信する。だが彼は足を踏み出すことをためらった。そしてある可能性を思い付き、研究施設から懐中時計につながる赤い糸に視線を移す。
もしこの赤い糸に触れ、信号の内容にメッセージを乗せたらどうなるのか? 彼の脳裏に、ふとそんな想いがよぎる。宝剣を使えば電磁波を改変し、メッセージを送ることなど容易い。……いや、やはりだめだ。影男は再び研究施設のあるほうに視線を移す。いつでもできることなのに、それがはばかれる令嬢との関係。見えない壁は想像以上に厚い。そして彼はこれまで何度も繰り返してきたように誘惑を跳ねのけ、警邏車両の向かう先に視線を据えた。タタタタッ……助走をつけてビルディングの屋上から大きく跳躍。そして宙を舞う影となって気流に乗り、音もなく現場へと向かった。令嬢が危険視しているであろう、古代の遺物を手に入れ、封印するために……。
<つづく>