YouTubeの関連動画の表示のアルゴリズムが変わる。教えてもらえることはちがう。おもしろい。行きつけの店から、偶然見かけた人みたいに。これも、いつ見かけるかは、そのとき次第である。

子どもたちとゲームをしているとき、進行状況も行き当たりばったりで、思わぬクリア方法が見つかる時がある。これは、一般的には進行しているのだろうけれど。それ以上どうかは、さておき。

けれども、結局、ずっと他のところでより道しながら楽しんで、飽きたときに偶然見かけるみたいなことが、たのしいのである。


*
うちの次男は、好奇心が抑えられない。
あまりにも突拍子もないことだと、危ない行為であると言うが、どうも、試さずにはいられない衝動性が強くある。
他の人からすれば、危険である行為かもしれない。親からみてもそう思う。これまで何度も周りに説得もされてきた。もちろん、褒めてもらえることもあるのだが。

けれども、最近そこに対して、違和感が生じるようになってきたのである。 理屈ではわかる。 けれども、きっと、わが子は気になったまま、なにか行動を起こさない、実感しない。そこへのひとつの理解かわ、わからないままであることが、イヤなのだと思う。

そういう狭間で、どう選択するのか。これをわたしは、ずっと次男に問いかけてきたのかもしれない。
いまも、そこに対して絶賛奮闘中であるのだ。けれども、時間をかけて、自分なりの道に気づいていってほしい。そう、心底願うのである。


“気づきは「作る」ものではなく、起きる準備をするものなのだと思う。”

最近、熱心に読んでいる「安宅和人」氏のブログに書いてあった言葉だ。刺激を受けている。





今日は、空いた時間に「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」を読む。

数日前に、図書館で借りてきたのだが、文体を読むこと自体に体力がいるようで、寝かせておいた。いまだ、いま読む時がきた。

ちょっとより道をしたからこそ、読みたくなったのである。



養老孟司の「ヒトの壁」を先に読んだり、自然学を愛す作家たちを読んできたおかげなのか、読み応えがある。


「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が書いた、生涯の記録。
多岐に精通しているかのような内容だが、すべてにおいて言おうとしていることは、芯をついている気がする、に尽きない。


ほんの少しだけ掴めたのだろうか、、。言語から考える意味が、おもしろい。いまは、その気持ちが強い。ちょっとまだ、自分のなかでは、ぼんやりしている。



バカの壁レオナルド・ダ・ヴィンチの手記

「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」岩波文庫

夕日がさす時間とともに読むだけで心地よかった。