ひとつひとつの動作を丁寧にこなそうと思えば、時間はつきもの。
何に対して忙しくなるのか、手間を省くのか。
その時間は自分にとって何のためなのか?
そう考えれば、後は取捨選択なのだな、と思います。
数日間優れず、子どもたちに家のあれこれを一緒にお手伝いしてもらいました。
自分でも家事のことにあれこれこだわりをつけて、普段かなりハードで手間をかけていたことに気づき…
子供達でも作れるような素朴で簡素な食事を摂ったところ、お腹にも優しく届いているのがわかる。
子供達との実生活らしい触れ合い。そして共通の分かち合い。
暮らしの原点に戻ることは、より少なく、そしてより豊かになること。ご飯も素朴なものをに、と行き着きました。
幸い、家の庭に焚き火スペースを確保できています。
薪火料理を愉しんみながら、家族との共通の時間を語り合いながら、過ごしています。

目覚めると、子供たちの学校へ向かう支度を手伝い、送り出す。
朝食は、簡単でもあり素朴でもあり、感謝が芽生えるものを。
かといって、わたしの食事に添えるものは、簡単なインスタント珈琲で済ませるという日常でした。
振り返ると、一日1杯を淹れる時間さえ、その場しのぎで飲む珈琲。
それは、味わっているのではなく、その日々に疲れているわたしを労ったかのような時間。
そういうことに気づき、とにかく一日1杯を自分の時間に確保する、ことにしました。
家事や仕事、子育てに一区切りついたところでいただく。
在宅のため、なるだけハンドドリップで。
あれ、コーヒーってこんなに苦かったっけ。
自分で淹れるコーヒーはどうも安定しないもの。
毎日淹れても同じ味にはならなくて、
だからこそ、そのコーヒーを飲むまでの過程で自分の心の整理をすることになる。
改めて、珈琲1杯を飲む時間とは、なんて贅沢なひとときなんだろう、と考えるようになりました。
もうカフェで仕事を済ませるために頻繁に立ち寄り、飲む癖はやめて節制しようと思います。
こういう日常の些細な変化のきっかけとなった理由のひとつは、
「ウォールデン森の生活」という一冊を読んでからのことです。
悶々と繰り返される生活の終わりのない問いをめぐらす時間を削ぎ落とし、自分の暮らしの原点さえ忘れなければ、つつましく、本当の豊かさを持続させる活気のある満ちた生活になる。
"より少なく、そしてより豊かに。”
<作品内容をざっくりまとめてご紹介>
「人は一週間に一日働けば生きていけます。ソローは、一八○○年代の半ば、ウォールデンの森の家で自然と共に二年二か月間過ごし、自然や人間への洞察に満ちた日記を記し、本書を編みました。
産業化が進み始めた時代、どのようにソローが自然の中を歩き、思索を深めたのか。今も私たちに、「どう生きるか」を示唆してくれます。
静かな暮らしの中に潜んでいる音は、そっと身近に寄り添うということ。
私たちがいつの間にか当たり前だと勘違いしてしまうような現代の音や情景、付きまとう心配ごと…。
しかし、生きるために本当に必要な衣食住のキホンは変わっていなくて、それは天気のような変化であること。
それを受け入れられるのは、生きてきた人間的本能が備わっているからだということ。
対して、人が作り上げてきてしまった対価として支払わなければならないものは、かなりしぶとく身近に付きまとうということ。
著者は、“生きる燃料”と“それを補うための燃料”と切り分けて、話の展開を爽快にそして少し皮肉めいたように語ってくれます。
生活を過ごした著者の生活内容には説得力があり、一貫性もあり、かといって縛られてもいない。のびのびと自然と自己の変化に対応しながら根付いてゆくさま――。
読んでいる側も自分の問題と世界を少し切り離し、”どう向き合うか”と遠目で見る視点、調和のとれる暮らしを、と背筋が整うようでした。
読んだ後は、軽やかで、それは長年抱き続けた問いが晴れたようでもあり‥
彼の作品に出会ったことは、わたしにとって良書を読んだ、という感覚。
体に取り入れた栄養素と同じように、カロリーとエネルギーを補給した後のような、ずっとしぶとく付きまとう違和感ではなく、時代に合わせただけに綴られた書でもなく、本質的なところへ鈍くなっていた時間稼ぎのための一つ一つの行動へ目を光らせ、本質的な「どう生きるか」を問い直すことができるような良書です。
それからのこと、夜は寝る前の寝室で、僅かなランプの灯りを頼りに読書に励んでいます。




