今朝の最低温度は-13℃台

今日も放射冷却の進んだ朝

今朝外へ薪ストーブの灰を捨てに5時半頃出たけど寒くて身震いした、温度を見たら真冬並みだった、おそらく-15℃なんて紹介する人もいるのでは、温度計に因ってはかなりの誤差が有ります、我が家の窓ガラスに張るタイブのは-16℃越えしてた、(笑)
これは3℃~4℃低い温度を出す、バイメタル系の温度計は誤差が大きいのだ、バイメタルは温度差でバネが延び縮みするので正確な温度は計れないおおよそなのだ、
育苗には気温が0℃前後は大事なので正確な温度計が必要で新しく買って
吊るす時には何本か一緒に吊るして、誤差を確かめる位シビアです、プラス2℃なら凍みないけれどそれ以下だと凍みる事もあるし、±0℃はその時の状況で上にも下にも凍みはぶれるので温度計の誤差は少ない方が望ましいのです、

まぁこの時期には今朝は寒すぎる朝だった、

明日は少し冷え込みが内場になるだろうと、自動灌水機の準備、タンクを洗って水を貯めておいて、今年初めて動かすのでストレイナーなど洗ってゴミを取り除いてから、動かして見た、途中動かすには少し時間が掛かりそうと、手灌水で苗が乾くのをふせいだ丁度12時に自動灌水機での灌水作業、午前中に動かせて良かった、動かしながらブームの噴霧口の詰まりが出る度に掃除して無事灌水終了



今の内はホットカバーの被覆をするので高い所から灌水してますが暖かくなって凍みる心配が失くなり、被覆用のアーチパイプを片付ければ苗から20センチ位まで下げます、
今日から灌水装置やポンプの水抜も始まります、それに手灌水よりもホットカバーに水の掛かる量も多いので、ホットカバーを掛けるにも水で濡れて重くなる、被覆するにも大変になるのです、

午後からはネギの種蒔き、288穴トレイに2枚蒔いてから、キャベツの苗の仮植作業
4時半までやって気温が低下、今日は次男と苗の被覆して、
この数日、苗に差すラベルを再利用するために落書き消しクリーナーで去年の書き込みを消して、また使えるようにした、前には100円ショップで50枚で100円プラス税だったけど去年だか一昨年だったか30枚で100円に消費税だったかなかなり値上がりしていた、何か蒔く度にラベルを書いて差しておく、キャベツの場合最初と最後には差して立てて置いて一枚は畑に差しておく、もう1枚は回収してリサイクルしているが持っても3年だ、少し力を入れて、磨くとポッキリ行ってしまう、なのでたわませてポッキリいつたのは捨ててます、今回は4枚ほどポッキリ割れました、



この数日間30枚ほど使ったのでその補充、まだ足りない分は150枚位は一昨年買ったのがストック済みです、全部で200枚は有るので今年は足りる予定です、品種と播種日、を油性ペンで書き込んで有ります、水性ペンだと灌水したら消えてしまいます、油性ペンを消すにはこれもDAISOの落書き消しスプレーを使ってます

昨日3月10日は我が家の初代自分の祖父家族が第2次大戦末期の東京大空襲で当時住んでいた葛飾区の長屋から焼け出された日、着の身着のまま祖父は東京職業訓練所で僅かな研修期間の末にここに入植した歴史がある、その長屋で隣だった人は今でも隣の家で農家をしています、不思議な縁に結ばれている、そしてこの土地に入植したのも縁を感じてます、なぜなら僅かな訓練をしてから入植先を割り振るのはくじ引きだったそうだ、もう一方の入植地は富士山麓の上九一色村(字が違うかも)オーム心理教のサティアンで有名になった所、
近所で7~8名訓練を受けて入植したけどこちらの浅間高原へ入植したのは38名近く入植したけど同じ長屋の人は3名だけだったそうだ、都内にある数ヶ所の訓練所から寄せ集められて入植したのです、
過酷な環境下だったので開墾を諦めて離農した人は半分以上逃げ出したそうだ、国の政策なので2次募集を掛けて地元の中之条町から2軒、鎌原の集落から次男とか3男の人が3軒で今は21軒でこの部落は構成されてます、お袋は当時一家で川崎に自分の祖父が工場に勤めていて住んでいた、兄妹7人の大所帯、川崎からも東京方面が空襲で真っ赤に燃えていたのを覚えていたそうだ、お袋、叔母達が我が家で花札遊びを時々やっていて、その時テレビで東京大空襲の話しが出た時にそんな事を話していた、そして祖父の出身地の嬬恋村干俣へ疎開して、帰って来て、上田の繊維工場で奉公して、親父と知り合ったのは親父が農閑期勤めていた干俣の林業会社の社長が斡旋してくれて嫁いで来たそうだ、
東京大空襲がなければ自分はここに居なかっただろうと思いますよね、我が家で生まれた生命の最初が自分なのだから、
そして今日は東北で東日本大震災が起こった日、2時46分に役場の黙祷のサイレンに合わせて黙祷した、サイレンで黙祷するのは終戦記念日の正午と今日だけだ、正月元旦の能登の大地震も本当に酷かったけれどあれから13年まだ復興半ばだ、能登で被災した人達の復興はこれからだ、大変だろうけれど、生きてれば何とかなる
我が家だって何も無い荒れ地に昭和20年に祖父が鍬を入れたのが始まりなのだから、

余談になるけれど大震災で仕事を失った人にキャベツの収穫作業のアルバイトを村で募集したけど一人も集まらなかった、金額面では農家と補助金で普通のバイトの2倍の金額月に50万くらい稼げる募集を被災地の自治体でしたのですが、地元をはなれられなかったのと、きついだろうと敬遠されたようだ、(笑)
群馬県は福島県の復興の手助けをする県に指定されて
吾妻郡の宿泊施設でも原発の被災者をかなり受け入れたけど、誰もキャベツ切りには応募しなかった、何もする事も無いので上げ膳据え善でおしゃべりばかりで暮らして他の宿泊施設へ移動して行ったそうで、支援金を全部パチンコで暇つぶし、有金全部擦って帰って行った人もいたそうだ、そんな悪評も聞こえて来た、火の無い所に煙は立たないのでそんな人も居たのでしよう、吾妻の知人がそんな事を言っていた、あまり良いことは言われずに帰って行ったようだ、