「たかが乳歯」一頭ではそう思っていた。

でも、どうしても心が追いつかなかった。

子どもたちの成長の節目に抜けた歯を、私は小さな乳歯ケースに集めていた。

一つひとつに思い出があって、「ちゃんと育ってくれてる」と実感する大切なものだった。

だから、長女の歯を乾かしておいた小皿が、朝になって忽然と消えていたとき、私は何とも言えないショックに襲われた。

家中を探しても見つからず、義母に尋ねたけれど、「そんなお皿知らないよ」と笑って終わった。

腹を立てるほどのことじゃないと、自分に言い聞かせた。

すぐに片付けなかった自分が悪い。

たかが歯。なくても子どもは育つ。

そうやって自分を納得させた。揉めるのがイヤだった。波風を立てたくなかった。

でも、乳歯ケースの中で整然と並んでいた歯の隙間を見るたび、私はどうしようもない虚しさを感じていた。

感謝している、でも悲しい。

理解したい、でも納得できない。


後になって、義母は眼底出血を起こしていたことがわかった。

視界がはっきり見えていなかったのだと知って、私はようやく腑に落ちた。

アブラムシだらけの白菜をそのまま漬物にしてしまったこと。

汚れたままの食器が棚に戻っていたこと。

そのどれもが、ただの「雑さ」ではなく、老いと病のサインだったのかもしれない。


見えていなかったのは、義母の目だけじゃなく、私のほうも同じだったのかもしれない。

見ているようで、見ようとしていなかった。

そう気づいたとき、ようやく少しだけ、諦めることができた気がした。