パスタ歴史 (9) トマトパスタソースの進化 | ヴェネチアから、イタリアの歴史、文化、食のトピックスを発信

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トマトパスタソースの進化の歴史

 

16世紀にトマトはスペインを通して、イタリアに17世紀のはじめに到着し、終わり頃に料理として使われ始めます。イタリアの料理に歴史に多大な影響を与えてきた幅広い知識を持つ博識な料理人たちが、今日のイタリア料理おけるトマト料理の基本を築いてきました。

 

アントニオ・ラティーニAntonio Latini (1642– 1696)

 

トマトを使って料理を作った証明となる最初の文献は1692〜1694年のアントニオ・ラティーニ Antonio Latini による『現代的な給仕頭 Lo scalco alla Moderna』です。ヨーロッパに上陸してからほとんどの国で1世紀以上にわたって、トマトはジャガイモ同様に装飾用植物として使用されていました。アントニオ・ラティーニによってトマトの存在が変わりました。先見の明のある料理人である彼はソースを含む想像力豊かなトマトベースのレシピを最初に思いつきました。彼のおかげで、トマトは味が良いだけでなく、様々な料理の実験に使えることもようやく理解されました。

 

トマトの特徴を最初に評価して料理に使ったのはアントニオ・ラティーニがキャリアを積んだナポリでした。実はペペロンチーニも彼が最初に料理に使い始めました。ご想像いただけるように、貧しい人々に向けた料理でした。ラティーニは、料理の下ごしらえとコストを軽減する料理、カボチャ、サラダ、栗、畑の野菜などの食材、野菜、果物で作られた現代的な料理を発明しました。

 

最初にナポリからイタリア各国(当時イタリアは多くの小国で構成されていた)からヨーロッパの他国に広がりました。それほど時間はかかりませんでした。 アントニオ・ラティーニは間違いなく料理の革新者であったことを認めなければなりません。後世 何世紀にもわたってトマトはイタリアの食卓になくてはならない食物となりました。
 

アントニオ・ラティーニ『現代的な給仕頭 』

 

生涯

1642年にマルケ州で生まれ、5歳で孤児になり、住む場所と食べ物を維持するために引き換えに幼い頃から奉仕を余儀なくされました。 1690年に自伝の原稿が最近発見され出版されました。16歳のとき、マテリカの高貴な貴族の家で読み書きを学んだ後、ローマに移住して、バルベリーニ枢機卿に調理人不足で見習いとして雇われ、徐々に経験を積んで配属も高くなっていき、最終的に28歳で給仕頭、つまり料理人して、使用人の管理も担当し、食料貯蔵室、宴会の管理も任され、バルベリーニ家では、芸術、紳士のマナー、そして剣の引き方まで学びました。

 

彼は出身のマルケ州のマセラタやエミリアロマーニャ州のミランドラ、ファエンザで。彼は給仕頭のキャリアを積んで、、摂政のエステバン・カリロ・サルセドの下で、ナポリにおけるやりがいのあるキャリアを積みました。彼の名声は高まり、Speron d'oroの位の騎士の称号を授与されました。ここで、彼は人生の最後の年に、彼は論文『現代的な給仕頭 』を執筆したり、宴会を手配する真の料理の芸術を追求し、1692年から1694年の間に2巻に印刷し、1696年に亡くなりました。

 

アントニオ・ネッビア Antonio Nebbia (1723 – 1786)

 

1776年にパスタと組み合わせたトマトソースのレシピを最初に提案したのは料理人アントニオ・ネッビアでした。彼の著書『マチェラータ*の料理人 Cuoco maceratese』(1776)には有名なレシピ「ヴィンチスグラッシ vincisgrassi*」 が含まれています。

※マチェラータ:マルケ州の街

※vincisgrassi:肉の内臓を使ったマルケ州のラジャーニャ料理

 

この料理の名前と起源は歴史の中で混乱しています。最も人気のあるバージョンは、1700年の終わりのナポレオン戦争の地域にいたオーストリアの将軍ウィンディッシュ・グレッツ

Windisch Graetzの話によると、軍隊に原材料を供給するためにこの料理を考案したのは将軍の個人的な料理人だというのです。この理論によれば「Vincisgrassi」は将軍の名前に由来することになります。少々無理があるようにも思いますが。「Windisch Graetz」「Vincis Grassi」

フランス革命(1788-1789)の影響とナポレオンによるイタリア占領はナポリ王国にも及び1806年にナポレオンによってナポリは征服されました。

 

アントニオ・ネッビアの料理本「マチェラータの料理人」は1781年に出版され、オーストリアの将軍の到着よりも少なくとも20年早いので、マセラタの有名な料理はおそらくアントニオ・ネッビアの料理が起源と思われています。

 

ちなみに、アントニオ・ネッビアは『マチェラータの料理人』では「ヴィンチスグラッシ 」にトリュフを使用しており、トマトは使用していないと言う指摘もあります。このラザーニャに似たバージョンは農民が手の届かないトリュフの代わりにトマトと刻んだ肉を使用したバージョンのレシピができたのではないか、と言う説もあります。

 

アントニオ・ネッビア『マチェラータの料理人』

 

脂肪と赤身の両方とあらゆる種類の食品を使用した調理方法を教示しています。「ヴィンチスグラッシ」のレシピは、単純なラグーではありません。新鮮な卵パスタ、ヴェシャメルソース、ミートソースで作られたの一連の層(少なくとも7つ)があり、パルメザンを振りかけます。ラザーニャとの違いはミートソースの部分にあり、ここでは豚肉と牛肉に加えて鶏肉の内蔵が使われます。「ヴィンチスグラッシ」は、オーブンで調理して一番上のパスタ生地がカリッと焼き上げることが特徴です。とはいえ、焼き加減は各自の好みで焼き上げます。「ヴィンチスグラッシ」は下記の写真のように様々な仕上がりになっています。同じレシピでも、出来上がりが異なりながら、どれも美味しそうですね。

 

        伝統的に表面をカリッと焼き上げた「ヴィンチスグラッシ」

 

「ヴィンチスグラッシ」は、マルケ州の歴史的なパスタ料理ですが、ラザーニャとの違いは、粗くカットされ、みじん切りにされていない肉で調製されたミートソースとよりコンパクトにするための固めのヴェシャメルソースで作られます。さらに、スパイスの風味をしっかり感じさせることは大切です。

※ヴェシャメルソースは、小麦粉とバター、牛乳」によって伸ばされることで作られるこの基本の白ソース

 

ヴィンチェンツォ・コラード Vincenzo Corrado (1736 –1836)

 

トマトソースレシピは、ヴィンチェンツォ・コラード(1736 –1836)の著書『優雅な料理人 クオコ・ガランテ』(1773年)で、肉や魚を豊富に料理するメニューが推奨されました。スパイスの使い方や少量の油しか使用しないことが特徴とされました。この時期のナポリは支配的だったフランスの美食用語へのこだわりはなく、基本的にイタリア料理、特にナポリの伝統的な慣習に忠実であり続け、徹底してシンプルで簡潔な文章のこだわり、外国料理と地元料理を統合する努力をしました。

 

ヴィンチェンツォ・コラード 『優雅な料理人』

 

アントニオ・ラティーニ(1692~1694)が、ゆでた肉を味付けするためのスペイン風のトマトソースについて説明しています。ただし、それはソースに限定されていました。一方、ヴィンチェンツォ・コラードはトマトを使用した、そして複雑なレシピを紹介します。

※アントニオ・ラティーニ:1692年トマトを使った料理を作った最初の文献『現代的な給仕頭』

 

18世紀の終わりに、トマトはまだ黄色であったため、ポモドーロ(Pommo d'oro 金のりんご)という名前が付けられました。約10年間ペルー王からナポリ王に贈呈されたトマトをサレルノ平原で栽培していました。この黄色いトマトは、今日この平原で16世紀から栽培されているピエノッロ・ジャッロの元祖と想定されています。

 

サレルノ平原のチレント(Cilento)の黄色いトマト ピエノッロ・ジャッロ(piennolo giallo)は歴史的に重要な農産物です。この地域では、昔からこの黄色いトマトを栽培しない家族は存在せず、どの家族も冬は貯蔵庫やキッチンに吊るして生活するのが普通でした。特徴は黄色くてしっかりした果肉で力強い風味、レシピは自然と黄色いトマトが主人公になります。

 

 

コラード最初の料理法は、野菜を詰め物で作ることです。これは彼が発明したよりシンプルで、より調和とバランスあるメニューです。トマトは、ニンニク、パセリ、オレガノで味付けされた風味で満たされ、のちには脱塩されたアンチョビの断片を追加し、パン粉を振りかけオーブンで焼いて理想的なレシピになりました。

 

コラードはまず第一に、彼の時代の文化、特にフランスの文化に敏感で知的な人物でした。彼の『貴族と文学者用ピタゴラス風またはハーブ食材メニュー』の「ピタゴラス風」というレシピのタイトルは、フランスの啓蒙家たちとルソーの自然への回帰によって提唱された菜食主義の文化を反映しています。

 

コラードは、ナポリのフランカヴィラ王子のチェレマーレ宮殿で働いていました。王子が宮殿の庭で壮大な食事会を行いました。彼はロシアのエカテリーナ女帝のためにも料理するフランチェスコ・レオナルディ*と一緒に料理を作りました。

※フランチェスコ・レオナルディ:ローマ近郊生まれ、若い頃にパリに移り、そこでフランス料理の最初の概念を学びました。料理技術を身につけた後、彼はイタリアに戻り、フランカヴィラ王子で侯爵の家でナポリに定住しました。

 

料理人とフランスの美食文化をナポリにもたらした啓蒙専制君主と呼ばれたスペイン王カルロス3世(1735-1759年)がナポリ王国を君臨しました。啓発的な王はトマトだけでなく、さまざまなかたちのマカロニ、そして多種多様なキャベツ、果物などの農産物も開発しました。フランスの料理本では知られていない食材をナポリの宮廷のキッチンにもたらした大規模な農業改革も行いました。コラードが『優雅な料理人 クオコ・ガランテ』を出版したのは1773年で、王カルロス3世の在位期間1735-1759年の下で、豊富な食材を使った料理が作られたことが想定されます。

※カルロス3世(1716-1788)は、ナポリ・シチリア王(在位1735-1759年)、のちにはブルボン朝のスペイン王(在位:1759-1788年)となった

フランカヴィラ王子の宮殿では、思い出に残るパーティーが開かれ、それらの料理では、フランス料理の一種の「ナポリ化」がゆっくりと実験されました。 sartù、culì、fricandò、fricassèなどの名前は残りましたが、料理の特徴や風味が変わりました。ヴィンチェンツォ・コラードがナポリで発明したこうしたレシピは「フランス風」とは対照的に「イタリア風」と呼ばれています。
ヴィンチェンツォ・コラードの1781年ナポリ出版
『貴族と文学者用ピタゴラス風またはハーブ食材メニュー』記載
トマトソース添え子牛のラグー入り卵パスタのラビオロ

 

ヴィンチェンツォ・コラード『優雅な料理人』記載

マッケローニのティンパニー(タンバル型のパイ料理)

練りパイの中にパスタ、トマトソース、豚肉、玉ねぎを詰めたパイ

 

生涯

 

ヴィンチェンツォ・コラードは父親のいない慎ましい家族に生まれ、まだ10代の時に両シチリア王国(ナポリとシチリア王国)の貴族の宮廷の小姓としてナポリに連れて行かれました。彼はこのナポリの貴族の宮廷で優雅な宴会を準備し、執事、使用人、小姓の小さな軍隊を管理していました。彼のランチとディナーには、想像豊かな多種多様な料理が含まれ、豪華で洗練された振り付けで提供されました。彼の論文優雅な料理人 クオコ・ガランテ』は、特定の章に分かれており、それぞれがテーマ別で(スープ、家畜と野生の肉、魚、卵、乳製品、野菜、パイ、お菓子、風味、保存法)に捧げられています。短い段落で食べ物の調理法が規定されています。

初めて「地中海料理」を書面で定義し、イタリアの郷土料理を強化した最初の料理人でした。
 
イポリト・カヴァルカンティ Ippolito Cavalcanti
(1787 – 1859)

 

イポリト・カヴァルカンティのトマトソースのレシピには、ヴェルミチェッリ(vermicelli)を使ったパスタ料理とサルトゥがあります。

 

1837年にナポリで初めて出版された論文『理論的・実践的な料理 La Cucina teorico-pratica 』は、1839年の第2版には付録『家庭料理 Cusina casarinola』を追加し、幅広い社会的階級の数多くのレシピを示しています。この本には1837年から1865年までの9つの版があり、著者によって絶えず拡張されていたため、各版全く異なっていました。

 

イポリト・カヴァルカンティ『理論的・実践的な料理』

 

カヴァルカンティの著書『理論的・実践的な料理』は、伝統的なナポリ料理の大要であり、貴族や中流階級の食卓のレシピのいくつかはフランス料理のインスピレーションに、一方で付録は家庭料理に基づいています。この学術論文は、現代のイタリア料理で最も人気のあるレシピのいくつかを説明しているため、歴史的な観点からも非常に重要です。たとえば、トマトソースをのせたパスタ ヴェルミチェッリの最初の記述があります。他にも多くのレシピがあり、そのうちのいくつかは、現代のナポリ料理の特徴がはっきりと認識できます。

 

ヴェルミチェッリパスタのトマトソース

 

ヴェルミチェッリという用語は、11世紀(vermishelsh)にさかのぼるいくつかのヘブライ語のテキストにすでに存在します。その後13世紀から14世紀の間にナポリ地域の無名の著者によって編集された『料理本Liber de Coquina』に「uermiculi」として登場します。

 

 

サルトゥ(ティンパノまたはティンバロ)

ケーキのように見える南イタリアの典型的な料理

 

 

生涯

イッポリト・カヴァルカンティ公爵は、イタリア人の料理人兼作家でした。『神曲』で有名なダンテの友人で有名な詩人グイド・カヴァルカンティが祖先の貴族の一族の子孫です。家族は1311年にトスカーナを離れてナポリ王国に移りました。そこで1331年にジョヴァンナはカヴァルカンティ家の1人を副王に任命しました。1795年にカヴァルカンティ家はブオンヴィチーノ公爵の称号を授与されました。

 

ペレグリーノ・アルトゥージ Pellegrino Artusi 1820–1911

 

1891年にフィレンツェで発行されたペレグリーノ・アルトゥージの著書『料理の科学 食の芸術』は、直訳すると「美味しく食べる芸術」と言うタイトルで、ローマとエミリア・ロマーニャ州の料理について始まり、1911年までの重なる改訂版によって、ナポリ、ロンバルディ州、ヴェネト州などの料理が紹介されています。ペレグリーノ・アルトゥシが自費出版しました。

 

ペレグリーノ・アルトゥージ

 

ペレグリーノ・アルトゥージの作品は、作者の名声と不朽の人気を確実にして圧倒的な成功を収めました。最初は困難な状況で始まりましたが、20年以上にわたって個人的に編集し、常に自己負担で15版を発行し、言語とレシピを継続的に更新しました。多様性を求めて再構成された各地の伝統を集めて各国の料理を語る「料理の科学」は、100年以上にわたって継続的に編集されました。英語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語、ポーランド語、ロシア語などの様々な言語に翻訳されています。

 

『料理の科学 食の芸術』

 

田舎風スパゲッティー Spaghetti alla rustica

材料:にんにく2片, パセリ, トマト, 塩, コショウ, オリーブオイル

 

古代ローマ人は最下層の人々にニンニクを食べさせました。そしてナポリ王カスティーリャのアルフォンソ1世(在位1442-1458年)はそれをとても嫌っていたので、ニンニクの匂いで法廷に現れた人に罰を与えました。

 

 

ニンニクが褐色になるまで炒めたら、すぐに6つまたは7つの刻んだトマトとパセリ、塩とコショウで味付けします。よく調理したら、ニンニクは取り除き、4〜5人用分のスパゲッティーをソースに加えてよくかき混ぜて、水分が少ないようだったら水を少々加えて仕上げます。ポイントはソースを加えた後、スパゲッティーがジューシーであることです。最後にすりおろしたパルミジャーノを好みでかけます。

 

ラグー(ミートソース) Il ragù

 

ロマーニャ風 カペレッティ Cappelletti all'uso di Romagna

 

マレンゴ風鶏肉料理 Pollo alla Marengo

 

生涯

 

ペレグリーノ・アルトゥジは1820年にエミリアロマーニャ州のフォルリンポポリ(Forlimpopoli) で生まれました。ベルティノロセミナリーで学んだ後、彼は父親の仕事を始めました。1851年に一家でフィレンツェに移り、そこでペレグリーノは30代前半に、成功を収めて商業活動に専念し、トスカーナ州に住み続け、1911年に91歳で亡くなりましたが、常に故郷との関係を維持していました。

 

フィレンツェに住みながら、文学と料理への情熱を失うことなく、快適な生活を楽しんでいました。1865年にフィレンツェが首都になったとき、アルトゥシは実家に戻りました。フルタイムで彼の文化活動に専念し、最初の自費出版2冊は大きな成功はありませんでしたが、1891年に改めて自費出版した『料理の科学 食の芸術』は大成功しました。彼が亡くなった年20年後には全て自費出版で15のエディションを編集しました。1931年に版は32のエディションに達し、著書は今では彼自身の名前『アルトゥジ』で呼ばれています。アレッサンドロ・・マンゾーニの歴史小説『いいなづけ』や『ピノッキオ』と並んでイタリア人によって最も読まれた本の1つでした。今日でも多数の版があり、非常に幅広く、前菜、パスタ、スープ、メイン、デザートから、リキュールまで790のレシピがあります。 レシピは教訓と機知に富んだスタイルで書く一方で、著者の反省と逸話が伴います。 

 

1861年のイタリア統一によって、長年にわたり、外国支配された国も含めてモザイクのように別々の国に分かれていたイタリア半島各地域の自尊心に美食文化の伝統を介して初めて尊厳したのがアルトゥジであり、彼の著書『料理の科学 食の芸術』でした。

 

このようにイタリア人にとっては、重要なペレグリーノ・アルトゥジのフォルリンポポリの生家は、他の有名な歴史的人物同様に博物館になり、今日訪問できるようになっています。