大学の同級生の友人が死んだという噂を聴いたのは去年の今頃。
全く信じていなくて、その話をした友人(そいつも噂としてしか知らなかった)に、「あいつが死ぬわけないってか殺しても死なねーよ、殴っても効かなかったし(二十歳にもなって殴り合いをしたことがある)」「どうせ女絡みで名前変えて隠れてるとか、借金嵩んで○○人に戸籍売って飛んでるとかじゃねーの?」とか言ってまともに考えていなかった。
つい最近、周辺の人と連絡を取ったら、やはり本当みたいだ。
これで同年代の知人・友人が亡くなったのは知っている範囲では4人目。
僕はいま36歳だが、多いのだろうか少ないのだろうか。どうでもいいけど。
一人は病死、一人は山で遭難死、一人は自殺、冒頭の一人は不明。やはり信じたくないので積極的に確認はしていない。
3人は大学時代の友人知人、1人はメッセンジャー時代の先輩。
18歳までに転居15回(くらい)、続いている一番古い友人は大学時代(それ以前の友人はfacebookを通じてつい先日連絡してくれた一人だけ)という僕だから、ちょっと調べればもう何人かは亡くなっているのだろう。
先に「どうでもいいけど」と書いたのは、その人の死がどうでもいいという意味ではもちろんない。
...ってそんなの当然伝わると思うけど、震災の時に大臣かなんかが「友人にも逃げなかったバカな奴がいた」と言ったのを叩いていたあり得ないレベルの低能を目にしているので一応。
どう考えてもそんなの、強い哀しみの反語的表現に決まってるだろう。分かった上で言葉尻を捉えているなら(センスはないが)まあ理解できるが、本気で糾弾したり報道見て尻馬乗ってた人はもう、日本人やめてもらいたいよ。
知らせを聞くたびにずしんと重く、「死について」「永遠について」「生き切るということについて」考えてきたつもりだけど、こうして(走り書きのようなものでも)文章にしたことはほとんどない。
つもりをちょっと越えたのは、やっぱり猫が死んだから、という自分はちょっとおかしいのだろうか。
...とか考えていた、猫様2度目の月命日。