長女彰子(988-1074)はすでに后定子のいた一条天皇の2人目の后となります。この一帝二后という前例のないことは、道長が強引にすすめた結果です。

一条天皇は道長の姉詮子の子です。

彰子のもとには、和泉式部、赤染衛門、紫式部など教養高い女房が配置されハイレベルサロンと化し、一条天皇は大変に興味を持ち、足しげく通ってきたとされます。

結果、彰子は男児二人を生み、その二人は後一条天皇、後朱雀天皇となります。

つまり母后となったわけで、彰子の力が増すとともに、道長の権勢もいや増します。

 

次女の妍子(994-1027)は、三条天皇の皇后となります。三条天皇は道長の別の姉超子(954-982早世)の子で、道長とは叔父甥の関係ですが、不仲でついには道長により退位させられます。このことも道長の強大な力によるものです。

妍子は、道長の娘のなかで一番の美形といわれますが、男児が生まれることはありませんでしたので、この家系はいったん表舞台から退場することになります。

 

 

四女の威子(1000-1036)は後一条天皇の皇后となります。これで3代続けて皇后がうまれ一家三后の成立、立后の宴で「望月の歌」が詠われます。

この時、威子19歳、天皇とは9歳年上で、コンプレックスとなったと伝えられています。そして男児が生まれることはありませんでした。

 

 

さらに、実は、六女の嬉子(1007-1025)がいて、後一条天皇の弟(のちの後朱雀天皇)に入侍します。

男児が生まれ、のち後冷泉天皇となりますが、嬉子本人は19歳で崩御。後冷泉天皇にも男児が生まれることなく、道長の直系血統は実質2代で絶えることとなりました。

 

しかし、しかしです。次女の妍子には、三条天皇の間に娘の禎子内親王(1013-1094)がいて、禎子は嬉子亡き後の後朱雀天皇に嫁し、二人の間には後三条天皇(1034-1073)が生まれます。そして禎子は宮中で大きな力を持つようになります。

 

後三条天皇は、藤原彰子、妍子の血を引くも、父母ともに皇族であって、170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇となりました。その後、統治体制から藤原氏の影響力を削ぐことに注力していくことになるのです。

 

道長に話を戻すと、「望月の歌」の翌年、1019年出家する。すでに体調は不良がちであったが、1021年御堂関白日記の筆を置き、最後の日は、「念佛十七万遍」の一行のみ。仏の慈悲と救済に頼る日々ではなかったか。そして1028年没。62才。

 

その後、自らが退位を迫った三条天皇の孫にあたる後三条に藤原氏が大打撃を受けることになるのは知る由もありませんが、

権勢を極めた人の最後はやはり無常の世を物語るものであるようです。

 

それで、「望月の歌」の自分なりの見解ですが、道長の人柄云々を別にすると、「源氏物語」に代表される貴族文化が爛熟する一方、貴族中心の統治体制の制度疲労の進行が大きくなっていくその象徴であると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

蛇足の蛇足ですが、禎子内親王のことを記すにつけ、眞子内親王に少しは、国民、皇室のことを考えていただきたかった。