【沖縄】「軍曹が命じた」62年前に見た集団自決の現場-自決命令の存在を示す重要な証言
沖縄戦の戦没者ら約24万人の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。
糸満市摩文仁(まぶに)に立ち並ぶ碑の前で23日朝、元中学校教諭の吉川嘉勝さん(68)は妻の英子さん(68)と一緒に静かに手を合わせた。
礎には米軍の艦砲射撃で亡くなった父の名がある。
62年前、吉川さんは「集団自決」の現場にいた。
那覇市の西約30キロにある渡嘉敷島。
周囲25キロの島に米軍が上陸したのは45年3月27日のことだ。
住民らは土砂降りの雨の中、島北部の通称「北山」を目指した。
吉川さんと家族もその中にいた。
当時6歳だった。
「集団自決」が起きたのは翌28日。
たどり着いた山中で家族や親類ごとに円陣を組んで座った。
村長の短い訓示の後、「天皇陛下万歳」の叫びとともに、あちこちで手投げ弾が爆発した。
吉川さんの家族ら約10人が輪になった中でも、義兄らが手投げ弾を石に打ち付けた。
だが、爆発しない。
父は「火を燃やして、投げ入れろ」と指示した。
母が叫んだ。
「手投げ弾を捨てろ」。
生きられるだけ生きるべきだと必死に訴えていた、と吉川さんは振り返る。
家族はその場を逃れた。
母が教えてくれた「命の重さ」を伝えるため、吉川さんは教師になった。
校長を最後に教職を退き、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役を務める。
「自分たちの歴史を知り、戦争のない社会をつくってほしい」と語り続ける。
その島で、沖縄国際大名誉教授の安仁屋政昭さん(72)は88年、かつて村の兵事主任だった故富山真順さんから、ある証言を聞いている。
富山さんは45年3月20日、戦隊からの命令で17歳未満の少年と役場職員を役場の庭に集めた。
兵器係の軍曹が住民二十数人に手投げ弾を2個ずつ配り、「敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのある時は残りの1発で自決せよ」と訓示した、という。
沖縄ではいま、「集団自決」を巡る教科書検定で「日本軍による強制」が削除されたことに強い反発が起きている。
安仁屋さんは言う。
「富山さんの話は自決命令の存在を示す重要な証言だ�http://www.asahi.com/national/update/0623/SEB200706230011.html
糸満市摩文仁(まぶに)に立ち並ぶ碑の前で23日朝、元中学校教諭の吉川嘉勝さん(68)は妻の英子さん(68)と一緒に静かに手を合わせた。
礎には米軍の艦砲射撃で亡くなった父の名がある。
62年前、吉川さんは「集団自決」の現場にいた。
那覇市の西約30キロにある渡嘉敷島。
周囲25キロの島に米軍が上陸したのは45年3月27日のことだ。
住民らは土砂降りの雨の中、島北部の通称「北山」を目指した。
吉川さんと家族もその中にいた。
当時6歳だった。
「集団自決」が起きたのは翌28日。
たどり着いた山中で家族や親類ごとに円陣を組んで座った。
村長の短い訓示の後、「天皇陛下万歳」の叫びとともに、あちこちで手投げ弾が爆発した。
吉川さんの家族ら約10人が輪になった中でも、義兄らが手投げ弾を石に打ち付けた。
だが、爆発しない。
父は「火を燃やして、投げ入れろ」と指示した。
母が叫んだ。
「手投げ弾を捨てろ」。
生きられるだけ生きるべきだと必死に訴えていた、と吉川さんは振り返る。
家族はその場を逃れた。
母が教えてくれた「命の重さ」を伝えるため、吉川さんは教師になった。
校長を最後に教職を退き、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役を務める。
「自分たちの歴史を知り、戦争のない社会をつくってほしい」と語り続ける。
その島で、沖縄国際大名誉教授の安仁屋政昭さん(72)は88年、かつて村の兵事主任だった故富山真順さんから、ある証言を聞いている。
富山さんは45年3月20日、戦隊からの命令で17歳未満の少年と役場職員を役場の庭に集めた。
兵器係の軍曹が住民二十数人に手投げ弾を2個ずつ配り、「敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのある時は残りの1発で自決せよ」と訓示した、という。
沖縄ではいま、「集団自決」を巡る教科書検定で「日本軍による強制」が削除されたことに強い反発が起きている。
安仁屋さんは言う。
「富山さんの話は自決命令の存在を示す重要な証言だ�http://www.asahi.com/national/update/0623/SEB200706230011.html