阪急電鉄の元会長・社長で

宝塚歌劇団元理事長、
宝塚音楽学校前校長


小林公平

(こばやし・こうへい)氏が



ナルシスト de いこう!~準吾のブログ~-小林公平氏02

(C) 宝塚歌劇団・宝塚音楽学校 / 2010 MJ



1日午前6時20分、入院先の

大阪府池田市の病院で
肺炎のため死去した。

82歳だった。


東京都出身。

慶応義塾大学卒業後、

阪急電鉄創業者、

故・一三翁三男の

故・米三氏の娘婿養子となり

阪急不動産、小林家へ入る。

元阪急ブレーブスの

球団オーナーはもちろん、
宝塚歌劇団の理事長を

1974年~85年に2度にわたり務めた。

また、87年からは宝塚音楽学校の

理事長を、96年からは同校校長も兼務。

しかし、今年4月1日付で
音楽学校の役職を

病気療養の為退いていた。

宝塚歌劇を故・一三翁の次に最も愛した

人物だったのではないだろうか。


公平氏は近年、

公文健(くもん・けん)というペンネームで
歌詞を手がけたり公演にも貢献していた。
また歌劇団の機関誌「歌劇」に連載の

『花の道より』が
400回を迎えた2005年の12月には、

それを記念するイベント
『花の道 夢の道 永遠の道』が

宝塚歌劇団の本拠地、
兵庫県宝塚市にある宝塚大劇場において

開催された。
イベントは3部構成になっており、

その1部で公平氏は
オーケストラの音楽指揮をした。
その際の曲目は、

公文健こと自身公平氏が作詞を担当した
『夜明けの序曲』で

甲斐正人氏が編曲を担当した。
つまり、

公文健作詞・寺田瀧雄原曲・甲斐正人作曲の
『夜明けの序曲変奏曲』だった。

1982年8月に宝塚大劇場で初演された

『夜明けの序曲』。
松あきらさんのサヨナラ公演として

上演された作品である。
公平氏はこの作品で

公文健のペンネームとして作詞家
大劇場デビューを果たした。
また、この作品は、

この年の芸術祭大賞を受賞した。

なお、1972年3月号から連載された

「花の道より」も今年2010年5月号、

453回をもって絶筆となった。


ところで今年3月に卒業し、

4月より初舞台を踏んでいる
第96期生が公平氏が最後に観た

初舞台生である。
2008年4月、競争率21.35倍の

狭き門をくぐり見事合格した96期生。
その96期生の文化祭のプログラム中の



ナルシスト de いこう!~準吾のブログ~-文化祭 表紙
(C) 宝塚音楽学校 / 2010 MJ



「2010年に向けて」では、
次のように記述されている。



ナルシスト de いこう!~準吾のブログ~-文化祭2010
(C) 宝塚歌劇団・宝塚音楽学校 / 2010 MJ






今回病気をし、

二年ほど前には足を骨折して
つくづく自分に基礎体力が

あったからこそ、ここまで

カムバックできたんだと

感じています。

(中略)

やっぱり最後は基礎体力が

問題になってくるわけですから。

舞台人としては当たり前のこと

だけれども、健康には最大の

注意を払っていってほしいなと

思います。




ナルシスト de いこう!~準吾のブログ~-文化祭 小林氏01
(C) 宝塚歌劇団・宝塚音楽学校 / 2010 MJ




この公平氏の思いを在団している生徒、
特に故人が最後に卒業証書を手渡した

96期生はどのように受け止めているのだろうか。

「最後は基礎体力が問題になってくる」と語った
公平氏、現在、歌劇団が抱える問題に体力を
使い切ったのだろうか。
せめてあと3年、いや4年分の体力を温存して
おいて頂きたかったものだ。


公平氏が故・一三翁のもとにいった今、
宝塚歌劇における「昭和」の時代が
終わったのではないだろうか。

そして、劇団創立100年をあと4年にして、
宝塚歌劇団は本当の意味での新しい時代を
迎えるのではないだろうか。

4年後100周年記念の公演を天国で観劇する、
一三翁、公平氏、寺瀧など名ある故人たちが
納得する劇団が果たしてそこにあるのか、
楽しみである。


最後に、心より小林公平氏のご冥福を祈る。