『沈黙』『ディパーテッド』『パリより愛をこめて』『響け!ユーフォニアム』『エヴァQ』 | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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▼2017年1月31日
『沈黙 サイレンス』

 上映時間161分は全く長く感じなかった。むしろ短いと感じるほど、終盤のロドリゴの日常生活や、当時の日本の仏教以外の宗教文化を思わせる習俗、情景などへの描写が、もっと盛り込まれていて欲しかったとわがままを言い出したくなるくらいに、鑑賞直後の私の高揚と充実感とは並々ならぬものだった。
 クライマックスでロドリゴがフェレイラの「彼らを救えるのはお前(の転び)だけだ(※うろ覚え)」に対して「それは悪魔の囁きだ、失せろ(※うろ覚え)」と遮り、極限の苦悩に耐えつつ辛うじて自らの信念を繋いだかのようにみえた直後で彼に聴こえた「私は只黙っていたのではなく、常にお前の苦しみと共にあり続けてきたのだ。踏みなさい(※うろ覚え)」という神の声が、はたして先に彼によって語られた筈の悪魔の巧妙な誘惑の囁き、そそのかしではないと断定できる如何なる要素も、この映画では発見できないのではないか。スコセッシ作品群の脈々たる作風に、善悪、善意と悪意、良識と狂気、聖職とマフィア、パンと愛、…等の対抗軸、既存の判断基準への手加減無き批判精神というのがあって、これは何も革新左翼的で浅薄なロック精神だとか反権力精神だとかでは決してなく、そもそもの古典的教養、良識、知性に裏打ちされた伝統保守的な精神から、浅薄な似非ヒューマニズムが作り出し、国際社会的規模の純粋無垢故に無頓着過ぎる群衆の良心をたぶらかしミスリードし続けてきた、正に罪深き、人間の死生観における伝統性故の多様性への侮辱としてのグローバリズムを弾劾する、こういった意味での反骨精神と、私は理解している。スコセッシがグローバリズムを意識的に批判していることは、前作の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でほぼ明白だろうと思うが故に、今作の映画『沈黙(スコセッシ版)』にも彼の反グローバリズムとしての多元主義的な国際共存社会秩序を標榜する思想的ビジョンが貫かれているだろうとする私の推測は、しかし必ずしも無根拠な飛躍ではない。つまり映画『沈黙(スコセッシ版)』では、そもそも人間の苦悩を救済するのは、「沈黙と、沈黙から現実逃避して捻り出された欺瞞としての神からのお告げと」の、はたしていずれなのか?或いは、「それは神のお告げだったのか、それとも悪魔のそそのかしだったのか?」、「信仰の勝利だったのか、それとも自己欺瞞による背信、敗北だったのか?」、いや待て、そもそもキリスト者の信仰における本質とは、それらのこれまで散々使い古されてきた対抗軸を、そもそものイエス・キリストその人が述べた筈の神の愛、許し、救済の精神まで遡るといったいわゆる伝統保守的な視野にまで立ち返った時に潔く捨て去って、「神の愛、許し、救済に優先され得る如何なる信仰も布教も宗教的組織活動も無いのであって、これはたとえキリスト者的なそれらについても決して例外ではないし、このような本質的な判断基準には、神か悪魔か、善か悪か、信仰か背信か、…等を逡巡する精神的な手続きは、この限りにおいては無駄と言う他無い。答えは既にイエス・キリストの述べられたところで与えられていたのだから」と、この反グローバリズムとの整合性も保有していて当然の相互尊重(愛)の精神にまで立ち返るべきところのものだったのではないか、といったかたちで、その似非ヒューマニズムへの反骨精神が貫徹されていたと、私は解釈しているわけだ。
 私の記憶が確かなら、映画『沈黙(スコセッシ版)』には劇伴の一切が聴こえてこなかった。江戸初期の日本における隠れキリシタンの歴史を全くノーリスクな鑑賞者の立場、これはあたかも神の立場そのものから傍観させる際に、制作者の意図による過剰な鑑賞者の情感、感傷の誘導を抑制するといった意味での劇伴演出の抑制、などと私には思えたのであり、これは正に制作者たるスコセッシから鑑賞者への「沈黙」に被せたパフォーマンスの一種とも取れるし、或いは天地創造主たる森羅万象の制作者が自身以上の他の頂点的な存在を見出しようも無い孤高の立場における「沈黙」的な状況に鑑賞者の無意識的な感情移入を誘導するための、スコセッシによる手の込んだ演出だったのか、まぁこれら全てを含める以上の様々な意味合いによる完成度を極めた芸当の一側面であったには違いない。この点に関して、私は素直に素晴らしいと思っている。
 鑑賞後、スコセッシの『最後の誘惑』と『沈黙』とを比較して一考した。少なくとも、映画『沈黙(スコセッシ版)』においては、「これまでにない信仰をもって、神の愛に報いるのだ(※うろ覚え)」に象徴されるように、組織化される以前のイエス・キリストの精神の本質に立ち返ったが故の「これまでにない信仰」、或いはそれまでにはなかった形式上(といっても不法入国及び禁教の布教の咎で、この見せしめの意味から生涯出国を許されず監視下で拘束され続ける永い時間の振る舞いの一切において)の信仰の敗北という比類無き十字架をロドリゴは「沈黙」の内に、派手さも無く、地味に、惨めに、背負い続けた後に、スコセッシ独自の解釈によるあぁいったかたちでこの生涯を全うしたという部分だけ見ても、勿論『最後の誘惑』には福音を集成したところからヒントを得た原作小説を元に制作した分の相応の深みはあったものの、愛を極めた超人イエス・キリストの派手な伝承と、これに続こうともがく一信仰者ロドリゴの地味な物語との比較という意味においては、より後者が、決して超人足り得ない鑑賞者としての信仰者、或いはその他大勢的な一般的鑑賞者の人の感覚に対して、切実さを増して迫ってくるものなのだろうと、他でもない私の鑑賞がそういった臨場感で絶え間なく終始したところから、思わされている。ここまでくると私にとって『最後の誘惑』や『ミッション』は最早娯楽映画の範疇であり、映画『沈黙(スコセッシ版)』はここと一線を画した思想哲学映画と呼びたくもなる位置付けとなる。ここまで思想哲学的要素の色濃い映画を、私は他に知らないといった意味である。従って、私は映画『沈黙(スコセッシ版)』を娯楽映画としては好評できない。しかし、映画が娯楽映画に留まらない可能性を秘めた精神媒体だと解釈することがどの加減まで許されるのかにも依るが、私はもうこの際、映画として云々はどうでもいいところで、映画『沈黙(スコセッシ版)』が『最後の誘惑』や『ミッション』以上に大好きだとだけ書き残しておきたい。その、多元的国際共栄秩序の要足れよう相互尊重の精神と深く真っ向から向き合ったスコセッシの、遠藤周作の原作との出会い以来約30年の積み重ねの結晶から受ける、より突出した、宗教的に生々しい切実さとこの充実を極めた作中の雰囲気が、私を過去のどの作品にも優って、宗教文学的な精神の範疇で満足させた。そもそも文学も漫画も映画も音楽も、個の自由と公けの秩序とへの標榜を中庸させたところで、人類平和のテーマ性と普遍的に不可分であらざるを得ないと信じて疑わない私にとって、例えば映画『沈黙(スコセッシ版)』と劇場アニメ『この世界の片隅に』とを比較した時、見えてくる違いは作品同士の優劣ではなく、前者における思想哲学的な人類平和のテーマ性へのアプローチと、後者における飽くまで娯楽作品的な人類平和のテーマ性へのアプローチとの差といった、手法の違いが主立って際立つかたちとなる。つまりここで私が言いたいのは、ここ数ヶ月の内にそれら二つもの奇跡的な傑作映画と出会えたことに感激してるということだ。
 ところで、ガルペが半ば自殺する形で自信の信仰と命を全うしたことを考えれば、作中のクライマックスをロドリゴの転びのシーンと捉えるのはおかしいのではないか(何故ならロドリゴ只一人の見せしめ的な転びのためだけに、既に転びの宣言を済ませた元隠れキリシタンの日本人百姓らが依然「穴吊り」を強いられ続けていて、この状況でロドリゴが自身の自殺で奉行所が百姓への拷問を止めるだろうと合理的に判断し得えたことは、奉行所の方針が飽くまで禁教撲滅にあって隠れキリシタンへの問答無用な処刑そのものではない、極めて文明的な冷静さで貫徹されたといった描写があったことからも明白なのだから)という疑問が仮にあった場合、これは誤解だ。カトリックの教えでは自殺は自身の命の創造主たる神の愛への背徳行為であり、ロドリゴの生きて味わい続けた屈辱の十字架と、その自殺の背徳行為とのどちらがより教理上で罪深いかといった検証の議論があり得たとしても、少なくとも自らの意志で自身の命を犠牲にする判断が、生き恥を晒す地味で惨めな十字架よりも優った信仰の現われだと、カトリック的な常識感覚から明瞭に断定されることは決してないわけで、他でもないロドリゴやガルペはこのカトリック的な常識感覚に宗教的なアイデンティティを置いていたからこそ、あそこまで八方塞的な逼迫感で苦悩しまくっていたのだ。暴論するなら、ガルペどころかイエス・キリストこそ磔刑に自ら赴いた自殺の急先鋒じゃないかと突っ込む余地を、キリスト者でない外野の感覚からは見出せるかもしれないが、そこには飽くまで自ら命を絶つ明白な意思が無い限り、創造主の愛に刃向かう自殺とされない微妙な基準があるようだ。従って、ガルペは飽くまで処刑される百姓を庇うことを装った自殺を敢行した分、組織化かされて本質から乖離したキリスト者の常識感覚からの苦悩から、少なくともその置かれた状況がどさくさ紛れの自殺を一切許さなかったロドリゴの場合よりも比較的楽に解放されたと、映画『沈黙(スコセッシ版)』のテーマ上で解釈されるのであり、必然的にクライマックスはロドリゴの比類無き転びの十字架の開始のシーンとならざるを得ない。これは原作小説でも同様であり、こう考えると、遠藤周作が『沈黙』を著した理由として述べた「彼らとその苦悩を歴史の影に語られずじまいに埋没させたくなかった(※うろ覚え)」というのは、正にロドリゴが生涯を終えても尚背信者の烙印としての十字架を背負い続けていた凡庸な歴史記述の状況において、彼の深奥のディテールに文学的な記述を加えることでその十字架を下ろしてやるか、これが無理でも共に背負ってやりたいくらいの気概を意味していたとも考えられるし、これを更に視覚的に如実に描写せしめたのが映画『沈黙(スコセッシ版)』だったとも思える。 私は映画『沈黙(スコセッシ版)』は日本でヒットしないと思う。否、米国は勿論、世界的にもヒットしないと思う。イエス・キリストが登場するでもない『沈黙』の表面上の地味さが『最後の誘惑』の興行実績すらも超えることが困難だと推測するなら、むしろその本質的なテーマ性への誤解だけが茶を濁すだけに留まって、理解も記憶もされない惨めな映画となるかもしれない。これは合衆国の新大統領が度々口にする保護貿易主義の時代的な意義を国際社会や諸国それぞれの民主主義的精神が認知できるか、できないかくらいに絶望的に困難な前途の様相である。多元主義的国際秩序を嫌う覇権主義的グローバル利権に洗脳されっ放しの多数派の群衆が民主主義を体現できている錯覚に陥っている限り、映画『沈黙(スコセッシ版)』の本質が世界的な映画市場に理解されることも、果てはキリスト者的な信仰の本質が西欧諸国の精神文化に復古することも、決して叶いはしないと、私はここに断言したい。まぁ、そもそもそこに善悪の基準を差し挟んで目くじらを立て過ぎたところで、人類嫌悪の闇を抱える徒労に終わることも又明白だから、常に諦めず、もてる限りのアプローチの活路を見出す建設的発想に身を委ね続けていたい。所詮は映画の好みの話に過ぎないのだし。
 
▼2016年3月7日
『ディパーテッド』

●本稿まとめ
 『ディパーテッド』は、多様性社会の左翼的理想の欺瞞への皮肉と、過去の遺物と捨て去られたキリスト教的精神文化やこのダイナミズムへの喚起をテーマに込めた、合衆国版真正保守主義の傑作映画なんだろうなぁ。
●以下本文
 遠藤周作の原作で映画『沈黙』が今年中にも公開されるかもしれないのだが、私は、これを手がけるマーティン・スコセッシのにわかファンだ。『ディパーテッド(2006)』という、救いようの無い惨劇で終幕する映画がある。マサチューセッツの州警察とアイルランド系アメリカ人マフィアとのスパイ合戦の物語。
 「この国(合衆国)はねずみの国だ」。
 本作品のアイリッシュアメリカンマフィアは、決して合衆国の人種差別問題が白人vs黒人による一方的で単純なものなどではなく、イタリア系、ヒスパニック系、アジア系…、他様々な移民人種への過剰な寛容を煽ってきた合衆国民主主義の政治経済思想の欺瞞の成れの果てとしてのカオスに対する、世界の映画市場向けの分かり易い嘆きの切り口といった風な位置付けの題材なのだと思う。これはスコセッシ監督による『ギャング・オブ・ニューヨーク』の「ファイブ・ポインツ」のくだりでも語られていた。合衆国の多民族多文化共生の実態は、相互差別的な民族感情衝突の入り乱れであり、これを人種の坩堝とか理想的な共生社会とか如何様に言い換えるのは勝手だが、少なくとも私はそんな欺瞞に対して無批判であることは無理だ。ブキャナンのような合衆国の保守論客の言説によれば、オバマ大統領の「我々はキリスト教国だとは思っていない」に象徴されるように、合衆国連邦政府の党派を超えた、新規票田欲しさに目が眩んだが故の軽薄な移民受け入れや所得移転政策(バイリンガル教育援助、フードスタンプなど)により、最早合衆国は伝統的キリスト教精神での社会統合はなせず、代わりに、自由、平等、博愛だとか、多民族多文化共生を標榜する多様性(Diversity)の理想こそをこのナショナリズムやアイデンティティの拠り所に求める他なくなったそうだ。省み、依って立つべき伝統をその政治経済思想的な腐敗によって放棄した理想主義国家は、フランス革命以来のリベラルな理想(自由、平等、博愛)だけに偏重した挙句、理性のみに依拠した脆弱なナショナリズムの底の浅い限界に慢性的に苦しめられ、感情や情念といった根本から公共や歴史に貢献したいと衝動を掻き立たせるような、塩梅のいいナショナリズムを喪失し、ただ自由競争市場への放任のみを尊重し、レバレッジ資本主義に無抵抗であらざるを得ない没規範の統治理念に身を持ち崩し続けている。移民は所得移転政策で保証される恩恵を欲しいままに要求集団としての性質を肥大させ、一方的に要望を適えてくれる福祉機構としてだけの意義を合衆国に見出す。多様な要求集団としてのマイノリティに、連邦政府議員が党派を超えて迎合するので、最早自己本位的という意味合いの強すぎる「多様性」に富んだ合衆国ナショナリズムの乱立は、収拾がつかない。こんなものはナショナリズムではないし、ハミルトンの『ザ・フェデラリスト』の合衆国建国精神とも断絶している。伝統を失った理想に未来は無い。マフィアであろうと州警察であろうと関係なく、組織のまとまりを脅かすスパイ合戦の疑心暗鬼の重圧に終始振り回され続ける物語展開や登場人物らの辛苦が、アイリッシュアメリカンマフィアの存在感と相まって、現代の合衆国の理想にのぼせ過ぎたナショナリズムの欺瞞を象徴しているようにしかとれない映画である。合衆国はねずみで溢れかえっていると。
 私は、人類が死を普遍的宿命とする限り、死後への不安に対応する習俗としての本質の定義に適った、いわゆる「宗教」という概念もまた人類普遍の尊厳だと考えている。ただし概念としての「宗教」が人類普遍だというだけで、この実態としての、多様な気候風土に根付いて必然と多様に展開せざるを得ない宗教の多元性、或いはこれを否定する一神教的な普遍宗教、これに対する嫌悪感も又、私の宗教観における一貫した持論である。で、私のおおざっぱな内観哲学によると、人は情念と理性とによって衝動を抱き、これを源に生活し、ともするとこれらによって幸福如何を計ったりもする存在だが、先述の死を含めた、生、性、死の普遍的宿命と、これによって帰結される文明、愛、宗教といった普遍的習俗(の概念)と、更に彼らの生存拠点たる地球惑星の気候風土の多様性などが前提に併せられたところから導き出される、人類にとっての至上の尊厳とは、人類の集団化を促す、この媒介の要としての「信頼」とか「愛」とかいったものであり、しかしこれは関係性当事者に限定された主観を本質とした衝動であるため、第三者による阻害やこれに対応する排他性をも想定させざるを得ない尊厳でもあり、従って人類は、集団化した経済(利害)圏における主体を個人(家計や私的自治や投資家や労働者など)や企業(公益的経営理念とかギルドとか)ばかりでなく政府統治機構にも見出すべきとする当為の集結(社会契約)が、これもまた人類普遍的に迫られざるを得ない存在であり、これは現に歴史学、考古学、文化人類学の成果が立証するところである。ところでここから先、社会統合における社会統制(法制度)の誕生が先か、それとも土着的慣習や宗教的な規範の誕生が先かの疑問については、私はとりたてるほどの見識も興味もないが、しかし少なくとも、そういった様々なレベルの規範の中でも宗教的規範が示す存在感や影響力は看過できないことは確かだと思うのであり、これは繰り返すが、人類の死の不安払拭の目的を本質とした「宗教」から生まれる当為の体系や伝統や精神が、どれだけ人々の暮らしに切実に寄り添った知恵の蓄積であろうかと推論、というか想像をめぐらすだけで一定の納得に及ぶには十分である。何が言いたいか。そのような仮定で、近代以降の国民国家体勢においても、この集団組織を成立させる当為の集結としてのナショナリズムや倫理観、道徳観、そしてこれに併せて勿論のこと、自由、平等、博愛などリベラルな理想論に懸ける情熱における節度も含め、これら全てが宗教的規範の尊厳を抜きに、まともに成立したり効果を発揮できたりする道理は極めて考え難いということだ。日本の場合は神道や八百万信仰が、そして合衆国の場合はキリスト教が、これ抜きにしてナショナリズムのまともな維持は考えられないほどの位置付けの尊厳となる。更に言えば、その厳格過ぎた過去のプロテスタンティズムへの回帰は、ややもするとフランクフルト学派を系譜の祖とする左翼思想、精神文化破壊工作への反動、親和性、大成功を招いたともとれる意味での文化的脆弱性が露呈した合衆国の歴史への反省の欠如にあたるのではないかという危惧から私には、合衆国固有の歴史に刻まれたより大らかなキリスト教精神潮流たる超越主義文学精神に依拠した合衆国ナショナリズム再建の可能性を期待するお節介な持論があったりもする。正直なところ私は、他でもない『ディパーテッド』のディカプリオの台詞から、馬鹿の一つ覚えでホーソンを知ったくちである。真正保守の立場からグローバル資本主義の矛盾を批判するだけで、その実真正の左翼から逆に左翼のレッテルを貼られるような社会風潮は、戦後日本だけでなく合衆国でも同様に存在するようで、私はそんな被害者の一人たるマーティン・スコセッシから極上の保守主義的な教養を頂けた恩義を噛み締めている。
 ※※※これはネタばれだが※※※、『ディパーテッド』終幕間際で、この惨劇に一矢報いたのは、最早法の規範を超えて、個人的倫理観、或いは義憤の情念に従って犯罪者に身を落とすことも辞さなかった覆面捜査チームの上司だった。社会腐敗の自浄作用は、法の限界を補う、又別の規範の働きに突き動かされる人間の偉大さやこれを育成する良識の土壌としての国民国家のダイナミズムがあってこそ、より豊かに、強靭に保障されるものなのだろう。合衆国の場合、その補われるべき規範の礎こそが、ざっくり言ってキリスト教的精神文化なのだということは、『ディパーテッド』最終シークエンスの、窓際から望むややモスクっぽい形をした教会(現行の多様性への配慮?)の景観と、これを嘲笑し穢すかのようにして横切るドブネズミとの構図画面へのトラックアップによって、強調されているかのようで、少なくともこういった感想を誘発させてくれたりもする。人の法を欺けても、天の神様はちゃんとお見通しだ。これは天誅だ、喰らえ!ついでに合衆国よ、この精神に覚醒せよ!そんなメッセージ性のカタルシスが最後の最後に用意されてるから、この映画は悲劇だけど後味はそんなに悪くないってのが、今のところの私の感想です。グローバル金融資本主義を皮肉りまくる『ウルフ・オブ・ウォールストリート』も大好きです。


▼2016年1月30日
『パリより愛をこめて』

 『パリより愛をこめて(2010年、ジョン・トラヴォルタ主演)』、『オーケストラ!(2009年、メラニー・ローレン出演)』、『オーシャン・オブ・ファイヤー(2004年、ヴィゴ・モーテンセン主演)』。この三作が今の私にとっての、頭を空っぽにして文句なしに楽しめる、気晴らし効果覿面の準大好き映画の筆頭らである。しかしこれら傑作から多元主義を考えるきっかけを得ることも又、無意味ではあるまい。
 『パリより愛をこめて』。
 型破りゴリラCIAのトラヴォルタと、イケメンCIA見習い駐仏米国大使館職員がコンビで、フランスでのイスラム過激派テロリズムの阻止に奔走するスタイリッシュ・アクション(?)。国家主権を曖昧にして国境をなくせば人類平和が実現すると頑なに信じて疑わないお花畑な理想主義的政治経済思想で動く国際社会の安全保障を末端で背負わされる有能な公務員ヒーローコンビを感情移入のコマにして、自然の多元主義を人工的なグローバル思想で悪戯に引っ掻き回すと、人智では抗いきれない厳然たる限界にぶち当たるぞという警告のテーマ性を読み解けるかのようなつくりの傑作だ。緻密なアイディアがふんだんに盛り込まれた高度なご都合主義的アクション展開は、こうと頭で理解していても、観ていて爽快である。こんな贅沢な馬鹿ヒーロー像でなければ、そのリアリズムが担保できないほど、最早そこに釣り合いが取れてしまう現実社会、映画誕生の背景としての国際政治文化の腐敗が極まっていると、全編終始する皮肉を込めたブラックジョーク的なセンスで警告する傑作。EUのグローバル思想の危険性に無知な馬鹿代表に、安全保障の前線の危険過ぎる事情説明なんかおいそれとできたもんじゃありません。あの代表団首脳ってのはメルケルにしか見えないよ。
 主にトルコ→バルカン半島諸国経由ルートをとる、いわゆる中東経済難民までも前面受け入れ表明したドイツのメルケル首相に対して、これを賞賛する難民の一人がTVメディアのインタビューに次のように答えていたのは忘れられない。
 「メルケルは偉大だ。是非偉大なアッラーの指導者になって欲しい!」。
 経済難民も含めた大量の中東難民に対して、今のEU加盟諸国は、この愚かな理想主義的政治体制ゆえに、政治思想的にも経済的にも無力だ。国家主権にまつわる権力と責任の出所が曖昧であることがより人類平和にとり望ましいというわけで、国民国家単位の民主的な責任ある経済的安定よりもグローバル大企業の限定的な非民主的な利権や、国境の外からの短絡な同情の対象に向ける、非民主的な超法規的社会保障措置の麗しさが優先されてしまう。EU体制を思想的に支える国民国家主権撤廃の狂ったイデオロギーに執着し縛られる限り、今のEU諸国に大量の経済難民を拒絶できる国家としての大義や正当性の民主的承認は成立し得ない。EU加盟の法的条件が、過度な排外主義アレルギーを醸成し、ひとたびまともな自主独立の国家運営に舵きりを表明するような保守的な政変が起きようものなら、その国はEUから除外させられてしまう。既にEU加盟国同士の金融連携は、国家主権の要の一つたる通貨発行権が形骸化の域に達するほど進行しており、ここから登録抹消されることは国家経済の危機を意味する。従って、EU平和秩序の空気を読めない異端の国は滅んでしまえということで、EU離脱で致命傷を負うも、EU続投でじわじわと緊縮財政の欺瞞の真綿で首を絞め続けた果てにデフレ悪化で窮地に陥るも、どちみちヤバい。だからといって、そのヤバさと、大量の中東難民を受け入れた挙句に国家主権どころか目先の社会安定そのものまで失い始めている今の現状の(まだまだ序の口とさえも言える)ヤバさとどちらがよりヤバいのか、メルケルは早いとこ素直になるべきだ。
 そもそも大量の中東難民が生まれるきっかけをばら撒いたのは、他でもないアメリカだ。ホワイトハウスの政策判断を大きく歪ませ続けてきた湯○屋金融の悪魔結社本位の中東の石油利権欲しさのためだけに、アメリカの対中東軍事戦略はもとより、CIAの内乱工作が主導されたのであり、この結果中東諸国の多元的ナショナリズムは大きく歪み、イスラム原理主義的思想の素地も相まって、これをテロリズムにまで発展せしめ、治安の極限的悪化に耐え切れない大量の難民を生んだのだ。例えばシリア独裁体制は、この地域のイスラム部族宗派を統率して近代化を獲得するためには必然と要請された地政学的根拠によって正当化されざるを得ないシリアの自主独立の尊厳に他ならず、これをもってシリア難民発生の直接的原因と見なすことは愚の骨頂である。第二次世界大戦終戦後、イギリスに代わってイランの石油利権を欲したアメリカは、イラン民主化と資源ナショナリズムの奪還を果たした指導者をCIAのクーデター工作で失脚させた。大東亜秩序の多元主義的思想をねじ伏せたアメリカは、こうして帝国植民主義を相も変わらず貫いてきたのだ。
 そんな合衆国の欺瞞にさえ忠節を貫かねばならない役職こそがCIAだったりするわけで、『パリより愛を込めて』のトラヴォルタらはそういった米国帝国主義の欺瞞の尻拭いを只々前線にて黙々と遂行するしかない。無能なメルケルや合衆国の政治思想を、滅茶苦茶なリアリズムで茶化しまくっているようで爽快である。
 翻って現代日本国は、そういったアメリカ帝国主義と平和憲法の足枷のもとで連携し、中東諸国の蹂躙されたナショナリズムの犠牲の成果たる、血塗れの石油資源の恩恵に便乗し、こういった、かつての大日本帝国が掲げた反帝国主義、大東亜共栄思想、多元主義的平和思想とは真逆で、卑怯、外道極まりない国家運営の手法に手を染め切って、正に反平和の国に成り下がってしまっている。世界で最も平和を愛する、憲法九条、平和憲法を誇る国の正体は、国連の対中東軍事侵略に参画することで血みどろの経済繁栄を手にするといった欺瞞の塊である。恥を知るべきである。やがてイランが核弾頭ミサイル発射技術を獲得すれば、イスラム過激派テロリズムの壊滅も融和も不可能なアメリカによる国際社会の一極支配体制による、まやかしなりの平和ですら、この正当性の根拠が完全に失われる。この際日本国は再び、多元主義の国際秩序の一構成国家として自主独立の政治的方針転換をなせるほどにまともな民主主義を発揮できるだろうか?もう今更、無理じゃね?
 尚、ここまでの内容は、「多元主義≠多文化共生」の前提抜きには全く理解不可能なものとなっております。国境は弊害ではなく、人類平和のための尊厳と知れ!
▼2023年12月21日 追記
 大局を見据えながら、同時に細部もつかんで描く。このコンセプトに沿った脚本と演出の併せ業、つまりはストーリーテーリングがぴか一の傑作映画の一つとして、本作『パリより愛をこめて』が私鏑戯の中で位置付けられている。
 で、今日久々に鑑賞し直して気付かされたのは、本編中で駐仏アメリカ大使館員の主人公の婚約者が目覚めたという“信仰”や“大義”とは何だったのかについてであり、又、何故そもそもこの物語は、主人公が自ら婚約者たるテロ犯を殺すという悲劇でなければならなかったのかについてであり、つまりは、本作の裏テーマとは、米国やフランスが元植民地のアフリカ諸国に依然と続けている帝国主義的な外交戦略とこの腐敗構造、これに対する批判だったという事だ。勿論、決してテロリズムそのものは正当化できないが、同時に、そもそもテロリズムの背景としての、テロを起こす側の言い分と、テロの標的にされる側の問題を省みなければ、テロリズムの本質的な根絶には決して至れない、こういった現実主義的な観点からの批判テーマだ。
 従って、この度『パリより愛をこめて』に対する私鏑戯の評価は、更に一段と高まった。

 

▼2015年7月21日

『響け!ユーフォニアム』


※本項のまとめ
 『響け!ユーフォニアム』は、高坂麗奈の「ねじふせる!」に象徴される異端さと普遍性の共存したテーマ性を、百合愛(異端さ)的友情と西洋音楽史の伝統的系譜(普遍性)に掛ける情熱との相反する価値観の共存の構図によって豊かに舞台構築された、個と公け、自由と秩序、合理と非合理などの均衡の尊厳を訴えかけるようにすらとれるような世界観、イマジネーションを土台にして語り上げ、且つ、愛の本質を語る上で避けるべくもない全てについて取りこぼすことなく十全に盛り込む誠実さを、一受容者の只々勝手気ままな立場から強烈に感じ取らせてくれた、只この意味のみによって充分に非の打ち所なく大好きになれてしまえる、全く私の趣味嗜好に合致する作品でありました。アニメ2期もあればいいな♪
※以下本文
 愛は主観的な概念であり、従って必然と愛する対象への執着や自己割譲を阻害する第三者的外部への警戒、憎悪、こういった逆境という要素を想定せざるを得ない概念でもある。愛ゆえに憎悪が生まれ、又、愛が平和を生み、憎悪が紛争を生むならば、平和が紛争や戦争を生むとも言えるし、又、憎悪という逆境が愛を強めるとか、憎悪そのものが愛のきっかけとなり得るならば、憎悪が愛を生むとか、転じて、紛争や戦争が平和を生むことだってあるとも言い換えられるし、この部分についての例えを言えば、愛ゆえの紛争や戦争、個人の自由意志、主観的自意識や衝動、赴くままの自然権の行使ゆえに生まれる集団内外の様々な利益衝突や紛争といった社会安定を阻害する不安情勢を極力抑制しようと、社会契約的合意なのか、権力の暴力的側面によっての合意なのかによって生み出された文明の一要素こそが統治原理における権力や権威であり、これゆえの伝統や秩序であった。集団が秩序と日常生活の安定を実現するために、無秩序な紛争状況を解消するために生み出したのが家父長制の男系秩序であったこと、つまり、紛争状況が安定や平和を極力実現させるための統治機構を生んだという人類文明史の事実を挙げられる。愛と憎悪、平和と戦争、自由と秩序、…などの相反した事象が互いに不可分の概念である歴史的事実に、感情論的な疑問の余地を訴えわめき散らすことに問題意識を留めることは不毛に他ならず、問題の本質は、そういった前提を踏まえたうえで、個と公けの相反する価値観をいかに巧みに均衡させ両立させるかについて知恵を出し、学び、議論し続ける意識と姿勢と実態検証とにある。
 ここまでの話で見えてくる又ひとつのこととして、愛を語るということは、憎しみを語ることを避けられず、又同時に紛争や戦争、ひいては公けの権力や権威などの伝統と秩序の価値観を語ることまでもを欠かすことはできないということである。愛の本質を語るということは、愛という概念に必然と伴う憎悪や紛争や戦争や、これらを解消するための公けの平和を志向する権力や権威の伝統秩序までもを網羅した、個と公けの相反した価値観を均衡させんとする精神性においてこそ、初めて可能となる。愛を語ることは、憎しみや公けを語ることを伴わざるを得ないのである。
 さて、私が最初に百合愛、或いは女性同士の友情の真髄に触れた体験は、高樹のぶ子の短編集によってもたらされた。友情の本質は愛と明確に区分不可能なところにあると信じるし、これを疑う意識の根底には愛と生殖本能とが絶対不可分であるとか愛は生殖本能に隷属すべき価値観であるとかいった、人類の自然権への考慮が足りない教条主義的偏重精神であろう。愛が生殖本能に隷属すべきという頑なな脳みそにとって、友情もまた愛だという呼びかけは、同性愛の穢れだけを連想させるものに留まってしまう。愛という無限の力と可能性を持つ他者同士の繋がりの精神性の概念には、そもそもその結果としての営みに想定される境界線が皆無だから、場合によっては家族的繁栄、社会貢献的美徳などの極みはもとより、愛の齟齬や証明のための諧謔や嗜虐や憎悪や殺人沙汰などの廃頽、或いは、性交渉を伴った情の交流の営みだって当然想定され得るわけで、愛の無限性の前にこういった部分の分け隔てや取りこぼしは皆無としか言い様がない(※脚注)。女性同士の友情の真髄や本質や極限は百合愛であり、愛に他ならない。ならば、私にとってその初体験となった高樹のぶ子の短編集に込められた共感の世界観に始まって、つい最近で言えば、『響け!ユーフォニアム』のそれに到るまで、そこにある百合愛、愛の全ては、愛そのものを語るために、同時に憎しみや紛争や公けの統治思想やこれによる価値観の均衡の尊厳までもを雄弁に(隠喩、象徴的に)語っていると気付くことになる。『響け!ユーフォニアム』が私の心に強烈に響いた理由の一つに、そういった共鳴要素があったことは間違いない。
 又一つ、『響け!ユーフォニアム』で最も印象的だった「ねじふせる!」という高坂麗奈の台詞に込められたテーマ性こそが、私にとってこの作品を注目させる最も大きな意識的原因だった。これだけ感銘を受け、二次創作意欲を掻き立てられ、ことはじめに読んだ『コントラバス』という小説にもあったが、概ねいつの時代、どこぞのお国柄の専門分野、とりわけクリエイターとかアーティストとかもてはやされる業界においてですら、「ねじふせる!」の正義の鉄槌に耐え得る実態は極稀なのかもしれない。だとしたら、「ねじふせる!」は単に古典的な美の中にこそ本物の美意識や感動を見出し己を奮い立たせられる精神性が、プロ意識とアマチュア意識とを大きく隔てる要因である…なんて表一辺倒で中途半端な批判を労しているのではなく、芸能に従事する過去現在未来の全ての者に対して普遍的に、「意識高い系」などといった愚かなレッテル貼りを恐れずに超然と、「芸能者、技能者として気高くあれ!」とその立場に向けて本質的道理、その立場特有の正義に立ち返り体現するよう奮起を促している、このような(悲劇にも)異端的な正論を訴えているのだ。『響け!ユーフォニアム』の「ねじふせる!」は、異端的であり且つ、普遍的な正論、クリエイター向けの正論を訴える、この正当性の拠り所足り得ている。ここに私はこの作品を意識的に評価せざるを得ないのだ。
 そして、「ねじふせる!」のテーマ性を体現した高坂麗奈をナイトのように、百合愛の強烈な友情でもって擁護を誓った立場が黄前久美子だった。思ったことを即口に出してしまう不器用で不恰好な癖、人格的欠点ゆえの、過去の失態に対する罪滅ぼしとしての擁護は、やがて「ねじふせる!」の異端且つ普遍的正義への共感の発端と変容し、本質に触れることに適う、このような贖罪から救済までの経緯が百合愛という友情の極限の一種の関係性を土台にして演出される、異端と普遍、同性愛的友情とキリスト者的精神(西洋音楽史においては間違いなく普遍)との融合といった構図の象徴的交錯こそが、『響け!ユーフォニアム』の重厚さや整然さを豊かに成立させている。少なくとも、「ねじふせる!」に共感できてしまえる私にとって、それを軸とした異端と普遍との重厚な舞台構築で豊かに彩られた『響け!ユーフォニアム』の世界観は、非の打ち所の無い趣味的衝動の投入先にしか映らない。大好きだ。
 フランス革命以降、オルテガが言うように西欧社会の新大陸化が進み、大衆からの真実が過剰に狂信され、伝統秩序も精神性も文化的権威も合理性、計画性に偏ったマルクス・レーニン革命主義な野蛮の思想の前に軽んじられ、愚弄されるようになり、自由と共に尊重されるべき平和のための公けの秩序とは何か、これを支える本当に美しい文化的真髄とは何か、こういった問い掛けに立ち返るだけの精神的余裕は、ただの無駄、直接的に貨幣換算できない非合理とだけ見なされ、きれいさっぱり排除され続けて現代政治文化や娯楽文化の形骸化した不毛状態の成れの果てを歴然たらしめた。大東亜共栄の対帝国植民主義思想闘争に敗北し、敵の言いなりにおもねってばかりの姑息な輩ばかりが発言力を占めて出来上がった戦後日本国においては、とりわけそれが顕著であり、恥の極みである(※更にこれに輪をかけた馬鹿が、米国新自由主義よりソ連共産主義や中国共産主義に鞍替えすべきだと大衆先導する日本特有の奇形左翼連中だ)。西洋音楽の伝統、いわゆるクラシック音楽の系譜は、西欧社会における、共産革命思想や新自由主義的経済イデオロギーの野蛮さ、この偏重を牽制する伝統精神の文化的よすがの一つであることに間違いない。西欧の帝国植民主義といった時の権力の安易な重商主義的経済イデオロギー、この権力の無知、高慢にまったをかけたのは、自由主義、革命主義に走った無教養な大多数の大衆やこれを先導した極一部の野蛮な思想指導者らだったのではなく、これを牽制した、自由と秩序の均衡を重んじ訴えた保守派(エドマンド・バークとか)だったのだ。彼らは国民国家主権の枠組みが秘める国土特有の伝統性、この一見非合理に映るも人類史的悠久の尺度や地球惑星の不確実を極めた自然脅威含みの摂理に対応し得る知恵の集積としては間違いなく合理性に富んだ人類遺産を尊ぶ価値観を土台にして、平和論や政治論や統治論を展開する。彼らこそが、例えば西洋音楽史の伝統的系譜の価値、クラシック音楽の価値を本当の意味で理解していたし、地域の自主独立性や自決権の尊厳を軽視して、植民地運営、奴隷経済によって帝国本土の豊かさが、あたかもギリシャ・ローマ古代帝国の如く実現されることを世界秩序の安定と位置づける人情味に欠ける冷徹な統治思想から抜け出せなかった帝国指導者らは、クラシック音楽の真髄に決して触れはしなかっただろうし、この片棒担ぎに登用され曲を書かされた作曲家らや作品の本意だってどこかしら反帝国植民主義の不本意を秘め、もっと別のところを向いていたに違いない。クラシック音楽こそは、西欧帝国主義の片棒担ぎとか道具などといったものである筈も無く、国民国家の自主独立、自決権発動、自律的繁栄による多元主義的な国際社会の共存共栄を志向する、近代西欧の伝統保守主義が、この精神的拠り所の一つと見なす、人類の尊厳に他ならない。こういった普遍性と対を成して均衡を担保する自由の象徴として、百合愛の関係性や「ねじふせる!」の異端さを持ち出し、クラシック音楽に掛ける情熱が象徴する公けの人類平和精神と調和を成さしめたダイナミズムを、私は、ただ勝手気ままに『響け!ユーフォニアム』から感じ取ってしまうのだ。もうこうなってしまうと、これ以上の作品自体への考察や論評は意味を成さず、只々高坂麗奈の「ねじふせる!」に象徴される心意気や、これを作品に仕立て上げた偉大なる原作者を応援したいという気持ちに行き着く。
 どちみち西洋音楽史は避けて通れない分野だったし、これに着手する強烈な勢いを与えてくれた意味でも、『響け!ユーフォニアム』やこれをアニメ化してくれた京都アニメーションには深く感謝している。アニメ2期もあるといいな♪

safaia02

※脚注
 尚、私は同性婚制度化に反対の立場で、理由は憲法に保障された個人の自由や自然権と、国民国家社会の最小構成単位という法律上の側面を持った家族及び結婚制度の話とは全く別次元で、例えば結婚当事者個人の権利だけでなく、(人工授精や精子バンクや代理出産制度や産業などを利用して)生まれてくる子供の又一つの権利もよくよく考慮せよと、ゲイだろうがトランスだろうがバイだろうが、生んでくれたのは父母の両性だったわけで、そもそも人類に近親の哺乳類生物は概ね子供世代を父母の両性によって育むことで種の存続を達成しているのだから、人類の種の存続や社会秩序安定を憲法理念における平和の概念の前提と疑わないのであれば、その下位に過ぎない個人の自由だけを根拠に、憲法の唱える正義の全てかの如く過大解釈し、同性婚も制度化して法律的に両性婚と等しく保障し扱えなどといった馬鹿げた、つまり人類種の存続に基づいた人類平和理念に反する主張なんぞほざくなと、ただ人類にとって愛は結婚や生殖本能に隷属し切らない無限の可能性を秘めた概念であるため、時としてゲイやバイやトランスみたいなマイノリティも一定の確率で存在し続けるし、だったらそういった人類の存続や平和のための秩序や法的保障の枠組みにすら隷属し切らない愛の超越性の体現者としての誇りを貫き通せといいたいし、人類全般の平和を支える法律へのこの改変まで話を肥大させるなと、ノーマルとマイノリティを隔てるのは確率的運命の問題であって、これを差し引けば等しく人権に保障された人類に変わりはないし、そこでマイノリティな家族の営みを判断したならば、あくまで己個人の権利上で選んだマイノリティの生き方に法的保障対象外の常識を常識として甘受し、又育てる子供の人権へのマイノリティな扶養者たることを選択した、この一点における明白な後ろめたさは常に自覚し続けろと、両性の父母に育まれる生物全般の権利を己一身上のマイノリティな自由の権利の行使によって、実質剥奪したことへの後ろめたさは、個人の自由だけで回るわけではない人類社会において決して有耶無耶にされ得ない大事な問題だと自覚しろと…、こんな風な個人的考えがあるからだ。愛と秩序の均衡で成立する人類平和に向かって、愛や自由の可能性の全てを保障しろと、愛による秩序の隷属化を求め、その均衡を崩壊させるような思想には断固反対だ。愛は逆境を想定し得てこそ初めて成立する概念なのだから。
※脚注追記
 同性婚の法制化については、この脚注を追記する現在(2023年3月)に於いて私鏑木の考え方に変化があり、つまりは必ずしも同姓婚の法制化が“文化理念による統治理念への侵犯”には当たらないと考える。理由は、いわゆる性的自認にまつわる法的な自由や権利を保障する事は、人類及び生物全般の生態を扱う行動生物学及び生態学の科学的な観点に立脚する時、これを踏まえるであろう日本国憲法の国民主権主義と基本的人権尊重主義とに、必ずしも相反するとは考えられないからだ。
 というのも、かの動物行動学者ジョン・B・カルフーンによるマウス実験“ユニバース25”の結果が示唆するところによれば、生物は限られた生存圏で一定以上の個体密集(人間なら人口密度)に曝されると、生存に必要な食糧の供給の如何には関わらず、自ずと個体同士の階層社会化や競争の激化が進むだけに留まらず、次第に一定比率の個体に於ける異常行動、例えばオスの不活性化、メスの凶暴化、引きこもり化、同性愛行動、育児放棄、成体による幼体への性愛行動等が顕著となり、果ては集団全体が出産率低下と少子高齢化を迎え、最期には子孫が絶えて絶滅する、と仮説される。
 但しそこで留意すべきは、ユニバース25は生物個体の密集が一定の異常行動化と集団規模の栄枯盛衰に影響する事を示唆しているだけであって、まずこれが直ちに人類にまで当てはめられるか否かを断定する事は誤りであり、又そもそも個体密集が異常行動化の全ての原因かの如く解釈する事はその示唆への拡大解釈に他ならないし、従ってそもそも“異常行動”の呼称自体が、少なくとも人類に同仮説の適用の範囲を広げる場合には、人権の範疇で不適切だ。しかし同時に、その動物行動学的な示唆は、人類の文明史のいわゆる“都市化”の局面に於いては、少なからず一定の説得力を持つ。
 つまりは、少なくとも人類に於ける性的自認の多様性の原因は、必ずしもこの全てが“異常”“障害”“疾患”であるとは断定できず、むしろ“都市化”という文明の根幹を原因とする、この動物行動学的な必然の結果がかなりの割合で潜在する可能性すら想定される。仮に“都市化”が原因であれば、性的自認の多様性は、もはや宗教道徳的なモラルの範疇ではなくなり、代わりに近代科学的な観点から、日本国憲法の基本的人権尊重主義によって保障されるべき範疇と看做さざるを得なくなるだろう。又、仮に“都市化”が集団の絶滅まで招きかねないとしたところで、人類が近代的な文明そのものを全て放棄できる筈もなく、従って人類はこの統治行政によって人口の一極集中を分散、抑制する等して“都市化”を一定水準に留める事によって、出産率低下や少子高齢化の傾向を解消すると同時に過度な人口増加や人口爆発にも警戒しながら、“都市化”の副産物に他ならない性的自認の多様性にまつわる人権保障と法制化にも取り組むべきだと、こういった考え方が近代的な統治理念に於いては欠かせず重要なのではないかと私鏑木は思う次第だ。
 以上を端的に述べれば、性的自認の多様性を基本的人権尊重主義の観点から保障する、いわゆる同性婚の法制化、これ自体を人口減少の原因だとか国家存亡の危機などとして捉える事は誤りで、むしろ危惧すべきは、性的自認の多様性を副産物の一つとして生み出し続けている“都市化”や人口一極集中問題、これを野放しにし続ける統治行政と権力当事者の無策、こういったより根源的で統治的な課題にある。つまり、改善すべきは国民の文化的なモラル意識ではなく、どこまでも統治権力の行政的なモラル意識であるべきだと、私鏑木は考える。
 只でさえ、若者の性衝動に対して厳格過ぎる宗教的な禁忌の思想を強制する、かの“旧統一教会”と裏で結託してきた事でむしろ少子高齢化を助長させてきた張本人たる自由民主党政権が、この先の日本の少子高齢化問題や、性的自認の多様性を保障する立法文化や、そもそものデフレ経済からの脱却の為の金融財政政策等、これらをまともにこなせるのだろうかと、絶望が拭われる事は一切ない。


▼2012年11月18日
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』

※ネタばれ注意!!!
 雨天の公開初日に鑑賞。
 鑑賞直後の感想として、
① 反原発と原発推進に二分した世論の不穏さが描かれたような印象に、中途半端さを感じた。
② 戦闘シーンの盛り上がり率が『破』以上に凄くて満足できた、これで100分以下の尺なのだから尚更満足。
③ アスカが観られれば全てよしの私にとって『破』以上に満足できた。

★感想のまとめ
 アスカ萌え豚が猿になって喜べる、ちょっと焦らし含みなお祭りアニメ(私的大絶賛)。※渚カヲルの良さに絶望的なまでに無頓着な私にとって、鬱展開とか何それ美味しいの?状態です。

 ネルフと、打倒ネルフで結成された、葛城大佐を艦長とする組織との対立構造。ゼーレの人類補完計画すら白日に晒された状況で進む全く新しいエヴァの物語。そもそもエヴァ初号機が殆ど活躍しなかったな、『Q』。
 【初号機はサードインパクト及びフォースインパクトのトリガー】≒【原発は大量被爆、風評被害などによる無尽蔵の自然、経済、生活への破壊という大損壊をまねく元凶】、…というよりは、【サードインパクトを起こした初号機とこのパイロットの碇シンジを人類の敵と位置付けなおし、これを主導したネルフ組織を打倒する新組織が掲げる大儀と、死海文書に従って人類補完計画という無差別自爆テロを志す、宇宙の意思に裏付けされたネルフやゼーレの大儀との対立】≒【革新的エネルギー技術や科学への信奉、そして恩恵を受ける当事者であり続けてきた民意が、3・11を機に手のひら返して原発ゼロを安直に叫び出す無責任な正義感覚と、決して叶わぬ使用済み核燃料のサイクル利用…って感じの技術を、国際社会の人柱になって請け負いますよと民意不在で勝手に推進した日本国の独善とも私欲の貪りともとれる、これ又どうしようもなく無責任な大儀感覚との対立】…みたいな?今まで公開されてた『Q』の予告映像(DVD収録のやつ)って、壮大な悪ふざけかネタかなんかだったのか、本編では全く使われてなかったけど、ミサトさんのナレーションは、本編の「14年後」に飛ぶ以前の描かれない過去のアラマシを語ってるから…、3・11をきっかけに絵コンテが一から書き直されたって程の改変は無かったのだろうが、本当に最初から「14年後」とか「ヴィレ」を『Q』の冒頭から終始描く予定だったのかどうか。
 エヴァ新劇場版は、そもそもエンターテインメント志向に特化された企画だと信じたいので、より広く浅い観客の共感を呼び込むテーマ的素材を導入する宿命は避けられない、つまり表層的な時代色というか時事というか、そういう部分による作品作りへの功罪を踏まえて、俗に言う「社会派」みたいな匂いが新劇場版にくっ付いてきても全く嫌だなとは思わない。仮に、3・11以降のエネルギー問題周辺の激変した事情風景をモデルにしていても、観た感じ、風刺ではなく、あくまでエヴァの物語をそういった語り口や視点で描くのもありじゃね?面白いんじゃね?的なノリを、いや、私的感想なんだから当然ですが、勝手な思い込みでより強く感じたんで、とってつけた時代迎合的尻の軽さみたいなものは感じませんでした。
 不満なのは、観客が碇シンジに対してしか感情移入できないくらい、彼と共にエヴァ新劇場版の物語の超飛躍に置いてけぼりを食らっているにも拘らず、「14年後」を生き延び続ける各キャラクター達の変化した言動、振る舞い、立場、そして何よりも碇シンジに対する眼差し…これらを裏付ける、14年の間に一体何がどうなってしまったの?に対する、ドラマ的にディテールを明かしてくれる、そこに触れてくれる説明が欲しかったが、私には足りませんでした。だから観ていて、シンジ君が抱いた心の痛みにリンクするであろう、彼への感情移入とは別の、寂しさや切なさを強烈に感じました。言うなれば3・11以降、世論の怒りの矢面に晒される東電社員が日常で突きつけられ続ける周囲からの容赦無い冷たい視線に似たそれ以上のものを碇シンジは受けるわけだが、そういった、かつてから愛着のあったキャラクター達が急変して一律に見せるシンジへの冷酷さの裏事情が極力触れられないようにされている、これは焦らされている、そう信じたい。葛城ミサトはそんなに思い入れのあるキャラではなかったが、それでも見ていて辛かった。やった~、アスカ生きてた~、とか喜びも束の間、彼女のシンジに対する問答無用な姿勢の背景も殆ど描かれない、触れられない、これは辛い、辛過ぎる!!!何から焦らされてるかって、次回作で描かれるであろう、碇シンジを取り巻くキャラたちのドラマ的背景の空白が埋められる描写からってことです。しかしこれすら叶わなかったら、新劇場版は観ていてただ辛いだけの、本当に鬱なアニメになっちまうな、私的に。
 だから、というふうに繋がるかは分からんが、終盤アスカに手を引かれて自失のシンジ、そして何番目か知らんが『破』で助けたのとは別の綾波が三人で一緒に歩いていく姿を背後から見せたシーン、何だかここで理不尽に押し付けられたかのような感動がこみ上げちゃいました。アスカや綾波の萌え豚にはちゃんとこの三人の関係性をモラトリアム的に描く準備が整ってるから安心して次回作を期待していていいですよ…と作り手側の胡散臭い囁きに、そうと分かっていても癒されたかのようで…。お願いします、萌え豚にももっと優しく作ってください、あぁ、そもそもエヴァってそれとは真逆の辛らつさで一度幕を閉じたようなおっそろしいアニメでしたっけ(涙。

 ただ、こういったドラマ的な部分をほとんどやらなかったからこそ95分の尺なのだ。こういったエヴァのエンターテインメント化の形も、結局はありかなと思えてしまう。それくらい、繰り返し鑑賞したい系の欲求を刺激してくれる作りになってた。戦闘シーンの各カット、アスカの各カットの量も質も全てがよかった。そこだけに集中して猿のように馬鹿になって観ていられるようなつくりになってた。作り手側の誰もそんなつもりなくても私的にそうだった。アスカエロかった。マリエロかった。トウジの妹可愛かった。そして戦闘シーン…『破』で感じたポリゴン臭さなんか全くないどころか、うぅ…ん、言葉にできないくらい凄かったので早くブルーレイ買いたいです。

 ブルゾンにプラグスーツとかどんだけ最先端、前衛的フェティシズム開拓して世に流布すりゃ気が済むんじゃ。アスカのフィギュアだけは買い続けるんだろうな、ほんと末恐ろしや。
 ところで、新劇場版が公表される以前から、私にとってのエヴァは、初恋の美少女を胡散臭い新興宗教団体にマインドコントロールされて心身共に奪われ、最悪の失恋を余儀なくされたトラウマの怨念が込められたアニメという感じでした。今回、ふと思えば、『Q』でそれが覆りました。ほんと、「14年」の間に何があったか知りませんが、アスカは見事にエヴァ2号機パイロットのまま、なんか混じってたりするかもしれないけど気にしない、立派にネルフというカルトによる洗脳から解かれ、今やシンジを洗脳から引っ張り出してくれる本物の救世主になっちゃった訳じゃないですか!!!嬉し過ぎます。

 感想まとめは、冒頭の通り。
 次回作が最後のようですが、打倒ネルフ、人類補完計画(ファイナルインパクト?)阻止を目的に、シンジが再合流したヴィレの活躍を軸に物語が進む…てな簡単な展開にはならないんだろうなぁ。一連の新劇場版エヴァみてて一貫する印象は、新しくエヴァを物語るに当たって、全く違ったエヴァの物語を、全く違ったエヴァにならないよう抜かりなく描いていこうという気概が感じられるってとこ。旧劇場版もいまだに新劇場版と同等かそれ以上に好きですが、鬱展開だろうとエンターテインメントであろうと、エヴァの大外枠は俗に社会現象とか言われるところの祭りであること。見えにくい物語やテーマ、設定などへのウンチクを垂れ合うも良し、キャラに萌えるも良し、とにかく祭りの中心足らねばならない宿命を背負ってエヴァを製作することへの気概が隅々まで行き渡ってて、嬉しくなっちゃいます。鬱もエンターテインメントも巧みに織り交ぜて、掻き回し尽くした末の完成度でもって新劇場版の幕を閉じてもらいたいと期待します。となると、シンジの最終回に於ける、戦闘参加や物語を引っ張るモチベーションが如何様なものになるのかが興味深い。アスカファンの私にとっちゃ、いっそのことシンジ不在でアスカが全てを解決してくれちゃっても構わないのですが、現実そこまでふざけちゃいません。『破』で既に男気のあるシンジはやっちゃってるし、『Q』で友情、信頼に燃えた結果の絶望直行みたいになっちゃってるし、そもそも新劇場版はシンジを救う物語なのかどうか…。
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↑こんなん昔描いたの思い出した。