鉄腕稲尾和久氏が亡くなりました。
1961年にマークしたシーズン42勝の記録はまず破られない記録でしょう。
この年にマークした年間78登板の記録は阪神の藤川や久保田によって破られましたが、先発もリリーフもこなして投球回数404回(パ・リーグ記録)という内容であったことを考慮するととんでもない記録です
かつて、阪神の福間投手が年間登板数の記録に迫ったときには、当時監督であった吉田義男氏が偉大なる記録をリリーフ専門の投手が破ってはいけないと残り試合登板させず77登板で止めたことがありました。
中日の落合監督が正力賞を受賞しましたが、落合監督が現役時代もっとも信頼を寄せた監督が稲尾氏でした。
落合が中日に移籍してきたのは、ロッテとの年俸交渉がうまくまとまらなかったのもありますが、稲尾監督の突然の解任も原因だったのです。
落合と稲尾の関係は、仰木監督とイチローの関係に似ていたように思います。
西鉄の野球というものが、個性的な選手をうまく使いこなす監督を生み出す土壌であったのでしょうか。
私はもちろん稲尾投手の現役時代をリアルタイムでは見ていないけれども、記録を見れば見るほど素晴らしい投手であったことが分かります
14年間の現役生活で276勝ですが、最初の8年間で8年連続20勝以上で合計234勝、7年目に200勝投手になっていたのです(ノ゚ο゚)ノ
その後の6年間で42勝にとどまったのは、酷使がたたって肩を故障したから。
今の時代にプロ野球に入っていたら、276勝もできなかったでしょうが現役生活はもっと長かったのだろうと思います。
伝説の野球選手がまた一人この世を去った